第27話 2月11日 ソヴィエト軍参謀本部情報総局
ダウンジャケットの左腕のすそをまくり、時計の針を確認する。
現在の時刻、午前10時46分。
列車を降りたその足でJR鎌倉駅から数百メートルの距離を歩いてきて、ここに着いたのが10時ちょうど頃だったから――海岸で小一時間ほど過ごした事になる。
ただぼんやりと海を眺めてただけなのに、意外と時間がたつのが早い。
「ソーニャ!」
強い潮風が吹く中。両の手のひらを口にあて大きな声で呼びかける。
「そろそろ他の場所、行かない?」
ソーニャは太平洋の海原を見つめるのをやめると、ゆっくりと後ろに振り向き、こくんとうなずいてみせた。それから、ブーツを踏み出し砂浜に足跡を残しつつ、おれの方へ歩み寄ってきた。その際ソーニャは、ちらりと冬の海へと肩越しに振り返った。だがそれもわずかの間の出来事で、すぐに彼女は波打ち際から視線を戻すと、おれの方を見つめ微笑みながら近づいてきて、数歩離れた位置で立ち止まった。
「――海は、満足した?」
ソーニャに聞いてみる。
「――はい、とても。――太平洋を、確かに、この自分の目で……。本当に素晴らしいです」
ひたいに張り付いた金髪の乱れを、指先で整え直しながら、ソーニャは口元の笑みを深くした。
「そっか。良かった。それならじゃあ次は……どこに行こうか?」
おれはジーンズの尻ポケットから、折りたたまれた一枚の『鎌倉ガイドマップ』なる物を取り出した。そして海風に背を向け胸の中でかばうようにして、それを広げた。
『鎌倉ガイドマップ』は、鎌倉の観光名所のイラストと解説文が書かれた地図だ。コンパクトに折りたたんで持ち運べる便利なそれは、JR新宿駅の「みどりの窓口」に無料で置いてあったのを、おれがもらってきた物だった。
手元のガイドマップとにらめっこしながら、うーんと小さくつぶやく。――鎌倉は観光する場所がありすぎて、次にどこに行ったらいいか決められない。
「ソーニャの希望は?」
おれはガイドマップから顔を上げ尋ねた。
すると、ちょっと考え込むようなまなざしをするソーニャ。
おそらく今、彼女は、鎌倉地図の概略を自身の頭の中に浮かべ検討中なのだろう。
(ソーニャは新宿からの急行列車グリーン車内の座席で、ガイドマップをおれの手元から借りると端から端まで真剣に眺めた。そしてほんの二、三分ほどで鎌倉周辺一帯の地理を全て暗記してしまったようだった。「――事前に現地の地理を把握せず行動するような危険は、絶対避けなければいけませんから」と、おれの手にガイドマップを返し、ひどく真剣な面持ちをして彼女は言ったのだった)
ソーニャが、口を開いた。
「そうですね……。太平洋はもう楽しみましたから、あとは特にこれといって行きたい場所はありません……」
身もフタもない、実にあっさりとした回答だった。
要するに、海が見られたから他の名所巡りは別にもうどうでもいい、というわけだ。
――まいったな、このままじゃ、これで今日の観光旅行は終了なんて事になっちゃうよ……
地図を広げたまま心持ちうなだれた姿勢になるおれ。
「あっ……。えっ、えと。とりあえずですね、マモルさん」
おれの表情の暗い変化に気づいたのか、ソーニャはあわてて明るい声を作り、話しかけてきた。
「いったん国鉄鎌倉駅まで歩いて戻って、それからまたどこに行くか決めませんか? 私、日本の古い神社仏閣などにも興味があります」
国鉄じゃなくてJRだよソーニャ、と、おれは口に出さず心の中で一応突っ込む。
「そうだね。駅前が鎌倉観光の中心地みたいだし、ソーニャの言うとおりにするのがベストかも……」
ガイドマップを細長く折りたたみ、再び尻ポケットにしまいながらおれはうなずいた。
「じゃ、行こうかソーニャ」
「ええ、マモルさん」
二人並んで、海岸沿いの車道へと歩き出す。砂浜から小さな階段を上り道路に出て、横断歩道を渡り、そして駅に向かって一時間前に来たのと同じ道を戻って行く。
百メートルほど歩道を進んでから、不意に、ソーニャはその場で足を止めた。
彼女はひとけのない冬の海岸に振り返ると、それから、ぽつりと――つぶやいた。
「……マモルさん、潮の香りはまだここでも――」
かすかに、寂しげな雰囲気を漂わせた口調だった。
ずっと憧れていた太平洋を背にして立ち去るのが、どうやら彼女には、ひどく名残惜しいらしかった……。
――うん、ソーニャが私の敵か……。これから毎日、退屈しないですみそう
ウイスキーのグラスをこたつの上に置くと、千紗姉ちゃんは両手を後ろの畳について上体をそらし天井の蛍光灯を見上げ、あらわになった白いのどを愉快そうに小さくクククと震わせた。
――……それじゃあ、もう何度目か忘れたけど同じ質問。――どこに観光に行きたい? 異国から来た私の大切な敵対者、ソーニャ
背中を後ろにそらしたままの姿勢で、細めた黒い目だけを動かし相手をじっと見つめて尋ねる千紗姉ちゃん。
その問いかけに対し、ソーニャは無言で考え込む。
やがてしばらくして、彼女は、どこまでも冷静な表情を保ったまま、ゆっくりとした口調で次のように答えた。
――私は、ヒロシマとナガサキを訪れてみたいです
一瞬、千紗姉ちゃんの表情が、わずかに硬くなったのが見えた。ソーニャの言葉はまったく予想外のものだったのだろう。
――それは……。広島、長崎への関心は……。原爆被爆地に対する軍事調査実施のためとか――そういうのが、理由?
千紗姉ちゃんは口の端をほんの少し歪め、どことなく皮肉めいた笑みを作ってみせた。
――違います。そのような事ではなく、ただ純粋に、私の個人的な想いからです
ソーニャはゆっくりと首を左右に振って、千紗姉ちゃんの推測を否定した。
――そもそも……軍事調査の必要などありません
再びソーニャの声。感情を排した、淡々とした落ち着いたしゃべり方だった。
――ヒロシマ、ナガサキ、両都市の被爆直後の詳細なデータに関しては、すでに1945年8月のうちに、われわれ――
――ふうん。では、なぜ……?
――そこで何があったのか、一人の人間として、私は知る義務があります
ソーニャは対座する千紗姉ちゃんの瞳から視線をそらさずに、そうつぶやいた。
――知る義務?
――ええ……。ヒロシマとナガサキは……人類全体の悲劇です。そこに国や民族は関係ありません。……私がソヴィエトから日本へ到着するまでに約60年の時間が過ぎましたが、幸いにもその間、第三次世界大戦は勃発していませんでした。しかし――。ソヴィエト、アメリカ両大国の間でこの先全面戦争が起こらないという保証は、どこにもありあません。もし――第三次世界大戦が起きたその時には、
ソーニャは続けた。
――だからこそ、私は、ヒロシマ、ナガサキで何があったのかを知らなくてはならないのです。……これでは、答えにならないでしょうか?
そうして彼女は口を閉ざし、しばらく沈黙した。
――……でも、私には同志マモルの護衛という重大な任務があります。トウキョウからはるか遠く離れた都市への訪問など、できるわけがありません。長い道中、 同志マモルを危険にさらすことになってしまいますから
沈黙を破りそう言葉を発したソーニャは、千紗姉ちゃんからゆっくりと視線をそらした。
そして、彼女の――ロシア人の少女の二つの青い瞳が、かたわらにいるおれの方を、まっすぐに見つめてきた――。
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