第25話 2月10日 姉弟喧嘩


「うう寒い、やっぱ風邪ひくわここ」


と、千紗姉ちゃんはつぶやくと窓のさんから腰をあげ、ガラスを閉めて暖かいこたつの中に再びもぐりこんだ。そうしてこたつでぬくぬく気持ちよさそうに背中を丸めながら、右手に持ったままのバーボンを一口ぐびりとあおる。


「ねえ、千紗姉ちゃん、ソーニャを観光に連れて行けって、いきなり言われても、一体どこに? おれ、東京に出てきてもう二年ぐらい経つけど、正直なところ、アパートと大学の往復だけの生活だったから、あんまり他の場所のこと知らなくて……」


 おれは立ったままぼそぼそとしゃべった。すると千紗姉ちゃんは、いきなりなぜか饒舌になって、


「はあ? なんか、今の発言だけ聞くと、マモルくん、君は、勉学にしか興味が無い、今時珍しく真面目で向学心あふれる学生さんであるかのような印象を受けるけど――。はっ、ばーか! フン……。あんた、大学の授業なんてまともに出てないじゃない。毎日ただこの六畳間でゴロゴロしてるだけ。何が 『アパートと大学の往復だけの生活』よ。単に部屋にひきこもってバイトもせずにボケーっと日がな一日無駄な時間を送っているだけのくせして、偉そうに。――あんた単位は? 三年生に進級できるの? 留年じゃないの? そうなったら、田舎の実家宛に学生課からちゃんと書面が送られるから、叔父さん叔母さんにすぐその事バレるわよ。ごまかそうとしても無理だからね、一応言っとくけど。――まったく、馬鹿は馬鹿ならそれでしょうがないけど、あんたはねえ、他の大学生みたいに、新宿とか池袋とかでコンパやってギャーギャー騒いで大酒飲んでぶっ倒れて救急車で運ばれるとか、そういう、平凡な普通の学生生活ぐらい人並みにできないの? ほんとそう。守、あんたは小さい頃からほんとそうだった。いつもまわりのみんなから離れて、ぼんやりアホみたいに一人ボケラとしてて、いつまでもそーゆー性格でいるから、まともに友達もできないし、ましてや彼女を作ったりなんて――。絶対! 無理! 永久に! ああもう本当に可哀相な子ねえ、あんたは。同情するわ。 あと、ついでに、就職も多分失敗するでしょうね。ほんと、かわいそ」


と、一気にまくしたてて、それから、


「あー、もうくだらない話のせいで安物のバーボンがさらにまずくなった。ったく!」


と舌打ちすると、ほとんど空になっている酒瓶をコタツの上にドンと置いたのだった。


 なんでここまでボロクソに言われなきゃいけないんだよと、おれは悔しさのあまり心の中で半べそをかいた。しかし、千紗姉ちゃんが指摘したあれこれについて反論できないのもまた事実だったので、気分は激しく落ち込み、鏡を見なくても自分ではっきりわかるぐらい暗い表情を浮かべて、よろよろと力なく座布団に腰を下ろし両足をこたつの中へそっと差し入れた。


 がっくりと肩を落としうつむいて、そのまましょぼんとした雰囲気のままでいるおれ。

 ――向かい側の千紗姉ちゃんがちらりとおれの顔色に視線を走らせる気配がした……ような気がした。


 しばらくしてから、千紗姉ちゃんは、わざとらしく大きなため息をついた。


「あのねえ。一応、あんたは、本家の血筋の男なんだから。叔父さんの次は、あんたが本田家を継ぐのよ? そりゃ、八代目当主という単なる肩書きだけで、先祖伝来の莫大な財産とか、そういうのは全然無いけど、いずれは本田一族の当主になる身なんだから。――守、あんたも男でしょ? もっと堂々としなさい」


 千紗姉ちゃんは言った。

 おれは、うつむいて無言のままでいた。

 今度はわざとらしくない、本物の自然な小さなため息が、千紗姉ちゃんの口元から漏れた。


「亡くなったお祖母ばあちゃんがよく言ってた様に、お祖父じいさんも、守そっくりのこんな性格の男の人だったのかしら……。もしそうなら、お祖母ちゃん、相当苦労したに違いないわ……」


 千紗姉ちゃんは疲れた表情をして前髪をかきわけ、ひたいに右の手のひらを当てながら、独り言をつぶやいた。


「ああ、もう。バカ大学生の話はやめ。こっちまでバカになる。他の話題。ソーニャの件。明日の観光。――ほら、そこの陰気な若者。何か候補地があったら言ってみなさい。……なるべく、怒んないから」


 おれは暗い表情のまま、ゆっくり顔を上げた。横目で台所の方をうかがってみる。洗い場から水の音が聞こえてくる。ソーニャはまだ料理の後片付け中のようだった。

 目線をこたつの端にもどし、しばらくおれは考え込んだ。その間千紗姉ちゃんは片手で頬杖ほおづえをつき、何も言わずじっとこちらを見つめて返事を待っていた。


「……えっと。その。例えば、『はとバス』の外国人向けツアーとかは? ――この前、夕方テレビのニュースでやってるの見て……」


 おれが恐る恐る声を発すると、千紗姉ちゃんはちょっと驚いた風に目を大きく見開いた。


「――なるほど。東京での外国人向け観光コースの定番っていったら、『はとバス』よね。私も一度、ニューヨークの本社から来た役員連中を案内して、一緒にバスに乗ったことがあるけど――。ツアーに参加した大勢の外国人たち、アメリカ人も、同乗した他の客の中国人やタイ人の観光客もみんなそれなりに満足してたし……。……守、たまにはいいこと言うじゃない」


 千紗姉ちゃんのその言葉を聞いたおれは、うつむいていた顔を上げ、ちょっと、照れながら、


「そ、そう? 自分でも、これは結構当たりかもと思ってたんだけど」


と少し元気を取り戻した声で答えた。


 がん! こたつの中で千紗姉ちゃんに足をおもいきり蹴られた。


「あんまり調子に乗らないようにね。学生さん?」


「……ご、ごめんなさい」


「ふむ。でもまあ、確かにいいアイディアではあるけど、普通すぎてあんまり芸がないわね……。それと、同乗した他の外国人観光客の間と、何かトラブルが起きる可能性が高そうだし。特に、アメリカ人とか相手にね。あの、東西冷戦まっただなか少女は」


 そう言って千紗姉ちゃんは頬杖をしたままの姿勢で、黒い瞳の、鋭い目線だけを台所の方へ動かした。


「――外人観光客が喜びそうな所といったら、秋葉原とかは?」


 おれは相手の顔色を慎重にうかがいながら意見してみた。


「はあ? 駅前にあるDuty Free Shopで、デジカメの最新機種でも土産用に買おうとでも?」


 人を小馬鹿にしたような冷たい声。おれの案はあっけなく却下された。


「そうねえ。新宿、渋谷、六本木……。ソビエトから来たガチガチの共産主義者である少女が、日本資本主義経済の最先端を良くも悪くも象徴するような、あの辺の街を訪れたら、どんな感想を抱くか――。面白そうではあるけれど……。あー、だめだめ。特に、夜の歌舞伎町界隈の風俗店とかの、下品でケバケバしいネオンや看板が視界に入ったりしたら――。うわ、彼女の今までの言動から推測すると、おそらく激怒する自分の心を抑えきれず、旧コマ劇場の前とかに一人堂々とした姿勢で立ち、通行人に向かって、『日本プロレタリアートの同志の皆さん、聞いてください!』とか叫んで、マルクスの資本論を引用しながら、 一時間ぐらいたっぷり資本主義経済批判のアジ演説を独演して見せてくれそうよね。……はい。というわけで、問題外」


 こたつの上での頬杖をやめ、胸の前で両腕を組んで、うーんと悩み始める千紗姉ちゃん。


「レジャーランドで米帝じるしのネズミのヌイグルミ抱きしめて喜ぶような子じゃ絶対ないし……。博物館とか美術館めぐりじゃ、ちょっと地味だし。――そう。そうだ。いっそのこと、もっと遠出して、京都とか奈良なんていいかも……」


 千紗姉ちゃんはぶつぶつひとりごとを続けている。


「あの……」


 おれは小声を出した。


「あ? 何? 声が小さくて聞こえない。言いたいことがあるなら、はっきり言いなさい。なるべく怒らないってさっき約束したでしょ」


 両の目をギロリとさせて、千紗姉ちゃんは言う。とたん、おれはさらに萎縮してしまい、


「……浅草、の、遊園地、とか……」


と、発声がごにょごにょした情けないものになってしまった。


「ああ? 聞こえないって言ってるでしょ! ちゃんと声を出しなさい!」


 自身のイラつきをまったく抑えようともせずおもいっきりトゲトゲしい声音こわねを発しながら、千紗姉ちゃんはひざを立て、こたつの上に上半身をドカと乗り出し、頭を傾け黒髪をかきわけ片耳をおれの方に突き出してきた。


「エエー? 浅草のー?」


 それはもう千紗姉ちゃんが怒り爆発寸前の状態だとすぐわかる、非常に恐ろしい声だった。


 おれは極度の緊張のあまり、ゴクリとひと口つばを飲んでから、


「あ、浅草の、遊園地とか、面白そうじゃないかと……。あ、あそこのジェットコースター、かなり老朽化してるらしくて、い、いろんな意味で、スリルたっぷり、って、聞いたから……」


 おれはどもりながら必死に口を動かし、自分の考えを述べた――。


「……ああ……もうたまらなく大好き――。あなたのそういう無邪気な所、昔から――」


 いきなり千紗姉ちゃんは、こたつごしに左手でおれの服のえり首を荒々しくつかみグイと引き寄せると、もう片方の手で、おれの頭の髪の毛をぎゅっと容赦なく鷲づかみにして引っ張り、


「殺す!!」


と、顔を真っ赤にし激しい怒気を含んだ大声を張り上げた。


「痛い痛い痛い! やめて千紗姉ちゃん! か、髪が! ハゲちゃうよ!」


「安心しなさい! うちの親族の男には、遺伝的にハゲはいないから!」


「痛い痛い!!」


 おれは絶叫した。


 その数秒後だと思う。台所からおれの背中へと、足音が素早く近づいてきた。


姉弟きょうだい喧嘩はやめてください! チサさん!」


 それはソーニャだった。ソーニャは、おれの髪の毛を今にも束ごと引き抜かんとしていた千紗姉ちゃんの右腕を両手でつかんでその動きを止め、


「やめてください、チサさん!」


と繰り返し大きな声を出した。


 すると――。


 あーあ、はいはい、わかりました、と、不満たっぷりそうな態度で千紗姉ちゃんは言い捨てた。

 そうして、今までの殺気混じりの怒りの感情を、千紗姉ちゃんは瞬時にあっけなく静め、すぐに平常心を取り戻すと、続いて、おれの髪とえり首を本気で掴んでいた手の力を、するりと抜いた。


「ねえソーニャ」


 千紗姉ちゃんが、こたつの横に立っている少女の、硬い表情を見上げ、ぶっきらぼうな口調で言う。


「いい加減この手離してくれない。すごく痛いんだけど」


「あっ……。すみません!」


 ソーニャは、千紗姉ちゃんの右腕を捕らえ制止させていた自身の両手を慌ててぱっと離した。


「……まったく」


 ぶつぶつ何か小声を漏らしながら、千紗姉ちゃんはソーニャに掴まれて赤くなった腕の部分、右手の甲のあたりをゆっくりさすり続ける。


 髪の毛を本当に引き抜かれる寸前だった一方のおれは、顔を苦痛にゆがめ、涙目のまま、激しく痛む頭皮の一部分を両手で押さえ、うめき声をあげた。


 ソーニャは急におろおろし始めて、おれと千紗姉ちゃんの様子をあわてて交互に見やった。そしてすぐに、より激しい苦痛に襲われている方、おれの方へと、スカートのひざをかがめて身体を近づけてきた。


「大丈夫ですか、マモルさん? 痛い所を見せてください。引っ張られた箇所を、確認しますから」


と、ひどく心配そうな声でおれの耳元にささやきかけてくる。


 頭皮の痛みのあまりの激しさ に、おれはもう、 本当に、瞳の端から涙がこぼれ落ちそうになっていた。


「チサさん……」


 ソーニャは、かかんでおれに身を寄せていた体勢をやめ、すっとその場に立ち上がり、千紗姉ちゃんの方を見やった。


 涙でおれの視界はぼやけている。その歪んだ視界の向こうで、千紗姉ちゃんがこたつに両足を入れ、腕を頭の下で組み枕にし、あお向けに寝転がっている姿が ぼんやりと見えた。


「……年長の姉が、なぜ大切な弟をいじめるような事をするのですか?」


 冷静で、毅然とした響きのするソーニャの声。

 ――彼女が、千紗姉ちゃんに向かって何か詰問するような事態は、これが初めての出来事だった。

 だが、そんなことはどうでもよかった。いまだおさまらない激しい苦痛の方がおれには問題だった。


 千紗姉ちゃんはこたつに入りあお向けに寝転がったまま、身長の高いソーニャのその二つの青い瞳を、下からじっと仰ぎ見て、


「いとこよ。姉弟きょうだいじゃないわ」


 ただひとこと―― そう答えた。


「……繋がりの深さは同じです」


 静かだが、あくまで断固とした口調でソーニャは言いきった。


 それから、しばらくの間、沈黙が続いた。


 一分ほど経ってだろうか。


 お互い瞳をそらさず無言で対峙していた二人のうち、千紗姉ちゃんの方が、不意に言葉を発した。


「ねえ、ソーニャ……。あなた、この国でどこか行きたい場所はある?」


 そう言ったのち、一体何が楽しいのか千紗姉ちゃんは急にクスクスと、不自然な笑い声を唇から小さく漏らした――。

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