第23話 2月10日 国際旅団


「ああ、もう、二人の間にいるこっちの方まで気まずくなってくるのよ!」


 こたつの向こうから、千紗姉ちゃんが小声でおれを叱責してきた。


「守、あんた、どうにかしなさいよね!」


 いつにもまして気温の低い日だった。千紗姉ちゃんはこたつの中に足だけでなく両腕も突っ込み、背中を寒そうに丸めながら、きつい目つきをこっちに向けてくる。


「なんとかしろって言われても……」


 おれはうなだれるように視線を落とし、はあ、とため息を一つついた。

 台所からは、ソーニャが料理をする音がさっきから響いて来ている。――ちなみに今日の昼食のメニューは、スパゲティだそうだ。


「ここ数日、ソーニャとあんたのぎこちないやりとり見せられて……。酒がまずくなってしょうがないんだからね……」


 ――確かに、千紗姉ちゃんの言う通り、公園での一件以来おれとソーニャの間には、どことなく気まずい雰囲気が漂っていた。

 ソーニャの方は――本心はどうだか分らないが、別に何事もなかったかのように、自然な態度で明るくこちらに接してくれている。だが、一方のおれの方は 『お互いの距離』とでも言ったものを勝手に意識してしまい、なんとなく彼女への対応が不自然なものになってしまっていた。


 ――ソーニャが急に気を失ってしまい、あの場ではうやむやになったけど……。


 おれと彼女、激しく言い争って対立したままで、結局、和解も何もしてないんだよなあ……。数日たった今さら、「ごめん」と謝るのも、不自然きわまりないような気がするし……。

 どーすればいいんだろう、と悩んでいると、台所の調理場に立っていたソーニャが、「お食事ができました」と、にこやかな声をあげるのが聞こえた。


 ミートスパゲティはとても美味しかった。

 ソーニャと一緒にこのアパートで暮らすようになってから、本当におれの食生活はとても豊かなものになった。

 彼女が、毎日、まともな『人間の食事』を作ってくれるのだ。それは今までのおれの一人暮らしにおける、レトルトとかカップラーメンばっかりの悲惨な食生活とは、まさに雲泥の差があった。

 その場にいた三人とも、ミートスパゲティの味に満足してフォークを皿の上に置いた。

 はたから見れば、平和な、穏やかな食後の風景――。

 が、いざ食べ終わると、三人の間に横たわる沈黙が急にはっきりと感じられてきて、おれはなんとも気まずい思いに捕らわれたのだった。

 どんな話題を、どんな風に持ち出し、ソーニャと会話すればいいのだろうか。自意識過剰だと言われればそれまでだが、ともかく、おれはソーニャへの自然な接し方がわからなくなっていた。

 当のソーニャはどうしているかというと、彼女は別に沈黙が続いている事を気にはしていないようだった。

 もう一人の存在、千紗姉ちゃんは、しきりにおれの方にちらちら視線を投げかけてきて、「何でもいいからとにかくしゃべって、この重苦しい空気破れ!」 と、瞳で訴えかけてくる。


 ――おれは、少しせきばらいした。


 それから、思いきって口を開き、


「りょ、料理、とても美味しかったよ。いつもありがとう、ソーニャ。……そういえば、ロシアにもスパゲティってあるんだ。意外だったよ」


 と、なるべく不自然な口調にならないように努力しながら言葉をかけた。


「――ロシア人だって食材が手に入れば、時にはスパゲティやピッツァなどを作って、イタリア料理を楽しんだりするんですよ」


 こたつにちょこんとスカートのひざを入れたソーニャが、少し可笑しそうに、くすくすと無邪気な笑みを浮かべながら言う。


「別に、毎日ボルシチやピロシキを食べているわけではありません。それは日本の人たちも同じではないですか? いつもスシやテンプラを食しているわけではないと思いますが?」


 そうして優しげに細めた青い目を、おれと千紗姉ちゃんの顔へ交互に向けてくるソーニャ。


「あ、うん……。そ、その通りだね」


 それだけ答えるのがやっとで、次に続けるべき言葉がすぐに思い浮かばない。

 再び押し黙ってしまうおれ。やがてまた、室内にはあの、いやあな無言の時間がやってきてしまった。視界の端に、ひたいに手を当てながらため息をもらす千紗姉ちゃんの姿が見える。

 そんな室内の静寂をいきなり破ったのは、おれの携帯電話の着信メロディーだった。安っぽい電子音が部屋の中に響き渡った。畳の上に転がっていたガラケーにすぐに手を伸ばし、おれは耳をあてる。


 電話の向こうの声の相手は、田舎の実家の母親だった――。




叔母おばさんから?」


 携帯電話の通話を終えたおれに、千紗姉ちゃんが尋ねてきた。


「うん。母さんから。お祖母ばあちゃんの十三回忌がもうすぐだから、おれにちゃんと田舎に帰ってくるようにだってさ」


 おれはそう答えた。

 すると、不意に――千紗姉ちゃんはうつむいて、


「そう……。そうよね、もうすぐお祖母ちゃんの命日だものね……」


と、誰に向かって言うでもなく、ただそっと、独り言のようにつぶやいた。


「――お祖母ちゃんが亡くなって、もう十二年がたつんだ……。仕事が忙しくて、ここ最近、お祖母ちゃんのお墓参り行ってなかったなあ……。申し訳ないなあ……」


 相変わらずうつむいたままの千紗姉ちゃん。その横顔が、少し陰っている。いつもの勝ち気な千紗姉ちゃんらしくない、弱々しげな表情 ――。

 千紗姉ちゃんは、何か考え込むかのような難しい顔になって、口を閉ざしてしまった。一言も発さず、こたつに片手で頬杖ほおづえをついたままの姿勢で動かない。

 こたつの右隣にいるソーニャがこちらを凝視している事に、ふと気づいた。彼女はおれの左手の中にある携帯電話を見つめていた。


「ああ、これね。携帯電話だよ。――世界中の国に普及してるよ。ロシアにも」


 そう言っておれはソーニャにガラケーを手渡した。彼女はそれを両手で大切そうに受け取ると、しげしげとそのボディーに眺め入り、


「マモルさんと街に出て――周りの人たちがこの――ケータイ電話ですか? これを使って会話している光景を初めて見た時はびっくりしま した。――21世紀の電話は有線ではなく、無線方式なんですね。それに、信じられないぐらいすごく小型化されてて……」


と、感心したように何度もうなずいてみせる。 


「……ところで。マモルさん、ちかじかご実家の方に帰られるのですか?」


 ソーニャは手元の携帯から目を上げると、ほほにかかっていたほつれ毛を右手で直しながら、そうおれに尋ねてきた。


「うん。今度法事で帰省しなきゃいけなくなりそうなんだ。うちの田舎は、三回忌、七回忌、それと十三回忌を盛大にやる習慣があってね……。ああ、そうだ、そういえば、ソーニャの田舎って、ロシアのどこなの? ……学校はモスクワだって言ってたよね。家族も同じモスクワに?」


 おれは会話を続けるための話題を見つけ出せた事に少々安堵しながら、彼女に聞いてみた。


「いえ、私はマスクヴァ――ええっと、モスクワではなく、レニングラードで生まれ育ちました。レニングラードが私の田舎になります」


 持っていた携帯電話をおれに手渡して返しながら、ソーニャは答えた。


「へー。……あと、家族は? おれは一人っ子で、両親と合わせて三人家族。千紗姉ちゃんも一人っ子で、うちと同じ家族構成。ソーニャの家は?」


「両親と、二人の兄がいました……」


 ゆっくりと、ささやくような声が返ってくる。

 それから、ほんのちょっとの間、彼女は言葉をつまらせたが――やがてまた、その小さな紅い唇を動かして、静かに声を発した。


「でも、みんな戦争で死んでしまいました」


 淡々とした、口調――。


「労農赤軍の職業軍人だった父はスペイン内戦で……。母と兄たちは、大祖国戦争――ナチス・ドイツとの戦争で亡くなりました。だから、 私には、家族はいません……」


 そう語る彼女の表情は、なぜかひどく落ち着いた雰囲気をただよわせていた。


「……ごめん」


 思わず、ソーニャから目をそらす。


 ――どうしようもないバカだ、おれは……。


 救いようのない自分の愚かさに対し、ある種の絶望感のようなものが心の中わき上がってくる。


「いえ……。気にしないでください」


 穏やかな響きが彼女の口から漏れる。


「家族を失ったのは私だけではありません。私以外にも多くの人たちが、あの戦争で大切な人を亡くしました。……両親と二人の兄を奪われたのは悲しい出来事です。でも、同時にまた、よくあるありふれた話の一つでしかありません」


 ソーニャは頭を左右に小さく振った。それから長いまつ毛を伏せ、こたつのテーブルの端に視線をじっと合わせた後、「よくある話です」と 小声で再び繰り返した。

 こたつの向こうの千紗姉ちゃんの上半身が揺れる気配がした。見れば、千紗姉ちゃんは、感情の無い硬い瞳をし、そうしてその瞳をソーニャの横顔に向けたままそらさず、いつまでもじっと彼女を見つめ続けていた。


 ……アパートの六畳一間の室内は、今までよりもはるかに重苦しい空気に包まれた。




「千紗姉ちゃん、寒くないの?」

 おれは尋ねた。

 千紗姉ちゃんは、部屋の窓を大きく開け、そこの、木でできた窓のさんに腰かけて、外に広がる住宅地の屋根の風景をぼんやりと眺めていた。右手には、外国製のバーボンの瓶。時々それを直接口にあてラッパ飲みし、中のアルコールを体内に流し込んでいる。


「ひどく寒い……。でも、酒を飲んでいるから暖かい」


 そんなふうな答えになっていない返事を、面倒くさそうに投げてよこす千紗姉ちゃん。


「千紗姉ちゃんはどうだか知らないけど、おれはすごく寒いんだってば。開けっ放しの窓から、冷たい空気が入り込んでくるから」


 横目でちらりと千紗姉ちゃんはおれを見ると、


「ソーニャの気分転換が必要」


と、ぶっきらぼうな口調でつぶやいた。


「えっ?」


「あんた、明日にでもソーニャ連れて、外出してきなさい。……どっか観光地にでも見物に行ったら、いいんじゃない?」


「観光?」


「そっ。あの子、せっかく日本に来たというのに、この街以外の場所全然知らないみたいだし」


 右手に持ったバーボンの、瓶の口で、台所の方を指し示しながら千紗姉ちゃんは言う。


「気分転換で状況打破。……彼女も、あんたもね」


 どことなく投げやりな態度で言い放つと、千紗姉ちゃんは再び瓶を自分の口に持って行き、中味をぐいっとあおった。

 台所の流し場の方から、水道を使う音が響いてくる。ソーニャが、スパゲティの皿を洗っているのだった。


「あーあ、ほんと疲れる……」


 アパートの二階、窓から顔を出し冬の冷気にほほをさらしながら、千紗姉ちゃんがぽつりと言った。

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