第22話 2月8日 「ソ連国家保安省の連中」


 タクシーの運転手はひどく驚いた顔をしていた。

 それはそうだろう。ぐったりとした少女を後ろに背負った男が、街灯の明かりの下、突然路上に現れ、なかば無理やりタクシーを止め乗り込んできたのだから。


 おれは運転手に自分のアパートの住所を告げた。運転手はそれを聞くと、黙って車を発進させた。

 公園の横のその通りから、おれのアパートまでは、ワンメーターぐらいの距離だった。普通だったら嫌がられるような近距離乗車だったが、タクシーの運転手はそんな素振りはこれっぽっちも見せなかった。たぶん、よっぽどおれの声が切迫したものに聞こえたのだろう。実際、その時のおれには、一刻も早くソーニャをアパートへ連れ戻すことしか頭の中になかった。運転手に向けられたおれの表情は、緊急事態に対する不安と緊張でひどくこわばった様子になっていたと思う。


 タクシーの運転手はハンドルを握りながら、ルームミラーにちらりと視線を走らせると、「お客さん、その外人さん、具合悪そうに見えるけど? 病院行ったほうがいいんじゃない?」と、つぶやいた。

 後部座席――。ソーニャは、ぐったりと全身を弛緩させた状態で、おれの方に寄りかかっていた。彼女は頭をこちらの肩にもたれかからせ、車が振動するとそれに合わせてその首が左右にふらふらと揺れる。目は閉じられ、口はかすかに半開きになった少女の蒼白の顔が、車内の暗がりの中にぼんやりと浮かび上がっていた。


 ――たしかに、アパートに戻るより、このまま病院に連れて行った方がいいのかも……何かの持病の発作という可能性もあるし……


 おれは判断に迷った。


 突然――信号の無い細い横道からスクーターが飛び出してきた。タクシーの運転手が急ハンドルを切り衝突を避ける。車体が激しく右に傾いた。

 ゴツン、というにぶい音。見ればかたわらのソーニャの上半身が、だらりと崩れていて、後部座席のドアの窓ガラスにひたいが打ちつけられていた。


「ああごめんね――外人さん大丈夫? クソ、あのバカスクーター、殺すぞ」


 運転手が車を走らせながら舌打ちする。

 おれはすぐさまソーニャの肩に両手を伸ばし、その身体を自分のそばにしかっりと抱き寄せた。乱れた髪の毛が彼女のほほに流れ、表情を覆い隠していた。

 柔らかな金髪に触れ、それをかき分け、ひたいのガラスに当たった部分を確認してみる。ちょっと皮膚が赤くなっているだけで、目立った外傷は無かったが、ぶつけた場所が場所だけにおれはとても心配になった。


「――ヌーシトー?……。……連中と協力? ニマグー、ダメです……。MGBエムゲーヴェーの連中は……信用できない……」


 不意に、ソーニャの口元から、かすかな声、ロシア語と日本語混じりの言葉が発せられた。

 それから、びくっ、と、一瞬彼女の身体全体が震えるのが伝わってきた。


「……ああ」


 意識の復活を感じさせるしっかりとした吐息が、おれの耳元に吹きかけられた。


「……タヴァリシチ・マモル。私はいったい……」


 ゆっくりとまぶたを開き、輝きのない瞳を車内にさまよわせながら、ソーニャがうめくように言う。


「大丈夫? ソーニャ」


 おれは相手の肩に手を回したまま、努めて優しい口調でささやいた。


「え? あれ? なんで私は、マモルさんの隣に、え?」


 状況を飲み込めていないソーニャは、おれにぎゅっと抱き寄せられお互いの身体が密着している事に気がつくと、ひどくあわて出した。

 そうして。

 いきなり、彼女は、差し回されていたおれの腕をつかみ、そこから自分の首を素早い動きで引き抜くと、こちらの肩を勢いよく片手でドンと突き離した。

 おれの頭部がドアの窓ガラスに突っ込み、ぶつかって、派手な音をたてた。


「はい、お客さん、着いたよー」


 妙に間延びした声でタクシーの運転手が告げる。車は、アパートのすぐ前で停止していた。


「あっ……す、すみません! ごめんなさい、そんなつもりじゃ……すみません! すみません!」


 そう必死に謝りながらソーニャは、せまい後部座席内、こちらに急いで身を寄せて来る。それから、片手を伸ばし、おそるおそるおれの頭部に触れてみる。


「痛い……ですか?」


 今にも泣き出しそうな表情で尋ねてくるソーニャ。


「平気平気、全然大丈夫だよ、気にしないで」


 脳震とうで頭がクラクラしたが、彼女に心配をかけないよう、おれは意識的に笑顔を作って見せた。が、ちゃんとそれが笑顔になっていたかどうかは、我ながら、はなはだ自信がなかった。




 アパートの部屋に戻ると、こたつでは千紗姉ちゃんが酒を飲んでいた。かたわらには、近所の酒屋のビニール袋が二つあり、その中には合計10本ぐらいのいろんな種類の酒瓶が入っていた。開封されてこたつの上に置いてあるウィスキーの瓶は、すでに中味が半分目ぐらいまで空になっていた。アルコールが回っているのか、その目が少しとろんとしている。


 今はもう、意識がしっかりと戻っているソーニャが、おれの一歩前に立って、酒を買ってこれなかった事情を説明し謝罪しようと、しゃべり始めた。だが千紗姉ちゃんはすぐに手つきで彼女の発言を制し、「酒なら自分で買ってきたから。そんなことより、ソーニャ、あなた、顔が真っ青よ。体調でも悪いんじゃない?」と、飲みかけのグラスをこたつの上に戻しながら尋ねた。

 ソーニャは首を横に振って、どこも悪くありません、と返答し、心配して頂いてありがとうございます、と、礼を述べた。


「あんまり平気そうには見えないけど……」


 そう言うと千紗姉ちゃんは視線をソーニャからおれの方に移し、


「何があったか知らないけど……。守、ひょっとして、あんたのせい?」


と、あの冷たい、いつもの目でじっとにらみつけてきた。


 ――マモルさんは何も悪くありません! 


 突然ソーニャが短く叫ぶ。感情的になったソーニャの姿に初めて接した千紗姉ちゃんは、ちょっとの間彼女の方に視線を戻して、その表情を観察するように眺めていたが、やがてまたおれをにらんできて、ちょいと手招きし自分のそばに近づくように命令する。おれは千紗姉ちゃんのかたわらに歩み寄り、緊張しつつ畳の上に正座した。


 すると千紗姉ちゃんは、こたつに入りながらおれの耳にそっと唇を近づけ、


「いい、守。あとで辞書で『エスコート』という言葉の意味、調べてみなさいね……」


と静かな声でささやいたかと思うと、次の瞬間、おれのひたいにおもいっきりデコピンを食らわせてきた。

 激痛の走る額を手でさすりながら、立ち上がると、ソーニャと目が合った。

 彼女の青い瞳がうるんで、そこから涙がこぼれ落ちそうになっていた。


「全然大丈夫だよ」


 おれは彼女に向かって微笑んだ。今度はちゃんと、笑顔を作る事ができた。

 ソーニャは目を伏せ、くるりと身をひるがえすと、玄関脇のユニットバスの方に姿を消してしまった。浴室のドアが、ばたんと閉じられる音がする。おれは彼女の後を追おうと畳の上で足を踏み出したが、千紗姉ちゃんにぐいっと腕を引っ張られて止められた。 


「ねえ知ってる? すごい昔の懐メロの、歌詞の一節――。『空は青空 二人は若い』……ってね。……こういう時は、そっとしておいてあげなさい」


 そうしてグラスの残りの酒を一気にあおると、千紗姉ちゃんは力なく小さく笑い、それからだるそうにこたつのテーブルに突っ伏して、組んだ両腕の中に顔を隠してしまった。




 その晩は誰も食事を取らなかった。ソーニャも千紗姉ちゃんも食欲がなかった。

 おれもそうだった。昼間は腹が減っていたのに……。

 だから、みんな早めに寝る事にした。



 真っ暗な室内――。おれ以外の二人の静かな寝息が聞こえてくる。


 ――『エスコート』という言葉の意味、調べてみなさいね……


 おれは千紗姉ちゃんから言われたセリフを突然思い出した。

 音を立て二人を起こしてしまわないように気をつけながら、闇の中、一冊の薄っぺらい英和辞典を部屋の隅から引っ張り出す。台所の流し場の前に移り、そこの小さな灯りを点けてページを開いた。



 escort/エスコート:{名詞・動詞}


 1.男性が女性の付添いや護衛をすること

 2.団体旅行などの添乗員

 3.護衛艦              


 と、そこには書かれていた。



 ――三択問題。正解は、たぶん1番……


 おれは英和辞典のページを閉じ、流し場の灯りを消した。

 部屋の中は、また真っ暗に戻った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る