露西亜拾遺集




 『ソヴィエツキー・ソユース(CCCP)から来た少女』の続きは「小説家になろう」で執筆中です。

 @krokawa





掌編 『三人のアンナ』


 イギリス人にとってのスピットファイアと同じく、T-34はロシア人にとって国の存続に不可欠な兵器だった。

 この戦車は『Родина(ロージナ)』という愛称で呼ばれた。ロージナとは、ロシア語で『祖国』という意味である――。


 むかし、ウラルのニジニタギル戦車工場に、3人の少女がいた。

 3人は、アンナという同じ名前を持っていた。ベラルーシから疎開してきて、その工場で働いていた。3人とも家族をドイツ軍に殺されていたので、ひとりぼっちだった。


 3人のアンナは、お互いにすぐに仲良しになった。工場のT-34/76生産現場で初めて出会った3人は、その日のうちに親友になり、やがて一週間もたたないうちに、本当の家族になっていた。アンナたちは、昼の12時間労働中でも、夜の工員宿舎でのわずかな休息の間でも、いつもはげまし、助け、なぐさめ合い、寄りそうようにして暮らしていた。


 3人のアンナは、まだ化粧のしかたも知らない小さな女の子だった。でも、生産ノルマは毎月120パーセントを達成する立派な労働者だった。工場の大人たちは皆、この幼い3人の孤児を心の底から愛した。彼女たちの事を話題にする時、彼らは、「力持ちのアンナ」、「頭の良いアンナ」、「泣き虫のアンナ」と、親しみを込めて言い分けた。力持ちのアンナは、履帯の連結ピンをハンマーで打ち込むのが得意だった。頭の良いアンナは、砲塔の照準装置の測距器を微調整するのが得意だった。そして、泣き虫のアンナは、ペリスコープへ小さな防弾ガラスを取り付ける作業が得意だった。


 むかし、3人のアンナという少女がいた。血はつながっていなかったが、本当の家族だった。


 その日工場では、記念すべき1000台目のT-34が完成した。工場長がみんなの前に立って長い演説をした。それから工員たちに特別に半日の休暇が与えられた。


 夜、3人のアンナは誰もいない真っ暗な工場の中へ、こっそりと忍び込んだ。そして、鉄道貨車への積み込みを待つ1000台目のT-34のハッチを開けて、そのせま苦しい車内に身を隠した。


 薄暗いランタンの灯りの中、まず、力持ちのアンナが、砲塔内部に白いチョークでこう書いた。「悪いファシストたちをやっつけてください」と。次いで、頭の良いアンナが、「革命の勝利者たりし我ら 又祖国防衛の勝利者たらん」と記した。最後に、泣き虫のアンナがチョークを持った。彼女はしばらく考え込んだのち、やがて、手を動かし、車内に長い一文を書き残した。


「この戦車に乗る兵隊さんへ かならず無事に戻ってきてください 私たちはあなたの帰りを ずっといつまでも待っていますから  兵隊さんたちの妹 3人のアンナより」



 むかし、3人のアンナという少女がいた。彼女たちは戦争が終わるまで、ウラルの工場で戦車を作り続けた。3人とも血はつながっていなかったが、本当の家族だった。


 だけどすべては遠いむかしのお話だった。だから今ではもう、3人のアンナのことも、1000台目のT-34のことも、憶えている人はどこにもいない。


 むかし、3人のアンナという少女がいた……。



<了>






  掌編『こねこ』



 ロンドンに留学していたかの夏目漱石は、異文化での孤独な生活のストレスからノイローゼにかかった。その病状は、同じ留学生仲間から、


 ――『夏目狂セリ』


 と噂される程、重度のものだったという。



 私は三十歳になると、それまで勤めていた会社を辞め、一念発起し、ロシア共和国の首都・モスクワへ語学留学にやって来た。つたないロシア語の能力で勉学に励み、現地の生活に溶け込もうとした毎日。その留学生としての二年間の日々が、自身の精神の外殻に対し、いかに耐えざる重圧を与え続けていたかということにようやく気がついたのは、漱石と同じく、極度の神経衰弱に陥って、一人心の中で救いを求め呻吟するようになってからだった。


 学生時代からの宿願だったロシアへの留学をとうとう果たしたというのに、その結果が、ノイローゼによる学業からの落伍という始末。現地の精神科にかかって治療を受ければ良かったのかもしれない。が、なにぶん神経症から生じる不安および恐怖感は、部屋から出て市電でメトロの駅へ向かい、地下鉄を乗り継いで診察を受けに行くことすら、私に困難にしていた。街も人も、あるいは日の光も騒音も、病的に過敏になっていた私の心をおびやかしたのだった。下手糞なロシア語で、精神科のドクトールのカウンセリングに対応する自信も気力も無かった。


 異郷で心身を衰弱した人間の常として、私は激しい望郷の思いに捕らわれていた。帰ろうか、日本へ。せっかくの留学をここで終わりにし、無残な敗北者としての自分を、あの国へ送り返すのも仕方がないのではないか。仕方がない。仕方がなかったのだ。だが一方、それを許容しない己が心の隅にいる。


 ――誰が仕方がないとお前を許したというのだ?



 と。




 私の住んでいたアパートは、モスクワの外れの方、イズマイロフスキー・パルクという所のそばにあった。その部屋で昼ひなか横たわってうめき声をあげ頭を抱える毎日。閉め切ったカーテンから漏れてくる外界の陽光が、しわだらけのベッドのシーツの端を白くまぶしく輝かせている。そんな光景をぼんやりと眺めていると、何もできずじっとしている自分の今のみじめさが意識されてつらかった。身体を横たえたまま、床の上に伸ばした右手を閉じたり開いたりしてみる。力ない自嘲の笑みに口角がひきつる。


 ――『罪と罰』の主人公、ラスコーリニコフは、おれと同じくノイローゼに苦しんでいたが、少なくとも金貸しの老婆の所に行って彼女の頭を斧で叩き割るだけの行動力はあった。まったくそれはなんという行動力だろう!ところで、さて、もし作中の彼がノイローゼでなかったとしたら、老婆殺しという犯罪行為はそもそも行われなかったのであろうか。その辺について病跡学的に論じた本を日本で読んだことがあったような無かったような……。思い出せない。


 他者にあふれた世界が怖いからといって、この部屋に閉じこもり続けるわけにもいかなかった。私は週に一度、食料の買い出しの為に、部屋から出なければならなかった。


 イズマイロフスキー・パルク――その公園ではいつもいろんな市(いち)が開かれていた。食べ物や服などのバザールはもちろん毎日多くの人でにぎわっていたし、時には自動車の中古パーツや電気製品のジャンクの商いが行われたりもした。微々たる年金のため生活に窮している老婆達が通りの端にぼんやりと立って、どこからか持ってきたガラクタ――誰か買う者がいるとも思えないような物、たとえば風呂場の栓や古ぼけた手動ミシン、へこんだ大鍋などを並べて売っているのを見たりもした。


 そう、その日、私は神経症によるパニック発作の不安に震えながら、冷や汗を背中に流して、市場の人ごみの中をあえぎあえぎ歩いていた。そうして一通り食料を買いだめると、帰路、道端に並ぶ貧しい老婆達の商いの前を通ったのだが、その際、奇妙な物が売りに出されているのを見て足を止めた。


 (子猫売ります)


 老婆の足元に置かれたダンボールの切れ端には、そう書かれていた。そして老婆のかたわらに目をやれば、そこには商品の子猫――首を鎖でつながれてうずくまる、裸のままの幼い少女の姿があった。

 少女の黒い髪からは猫の耳が生え、臀部からは一本のしっぽがのびていた。その鎖でつながれた少女は、まったく普通の人間のように見えた。ただ彼女は裸体であり、猫の耳としっぽがついているという点だけが、異様だった。


 私は最初、自分の心の病が神経症からとうとう分裂病へと移行したのではないかと疑った。裸体の少女が『こねこ』として真昼間のバザールで売りに出されている、そんな風景を見れば、自身の精神の正常性について疑念を抱くのも当然だろう。

――しかし、私は知識として、真の精神異常者は自分の事を狂っているとは思わない、つまり『病識』を持たないのが普通だということを知っていたから、自分が発狂したのではないかと疑う自分は恐らくまだ狂ってはいないのだろうと、ぼんやりと考えた。だから、目の前の老婆に聞いてみた。


 ――お婆さん、これは子猫ではなくて、人間の少女じゃないのかい

 すると青いプラトーク(頭巾)をかぶった彼女は大げさに目を丸くして、早口でしゃべった。

 ――あんた、キルギスか、カザフか、それとも中国人かい?

 ――いや、日本人だ

 ――ちょっ!これが猫じゃなくて人間だって?あんた、生まれて今まで一度も猫を見たことがないのかい?これは可愛い可愛い子猫じゃないかい!どうやらサムライの国には猫は一匹もいないらしい!


 並んでいた老婆達の間から、一斉に明るい笑い声がもれた。


 ――ほら、子猫や、おびえなくてもいいよ。日本人は魚は食べても、猫を取って食ったりはしないはずだからね

 そう言って彼女は、隣で幼い裸体を隠すようにひざを抱えうずくまっている少女――子猫ののどに右手をのばし、優しくなでた。少女はその愛撫に逆らわず、本当の猫のようにうっとりと目を細めて、首輪がはめられたのどを飼い主の前に無防備にさらした。

 ――ガスパジーン(ミスター)、どうだい、この子を買わないかい

 ――え、なんですって?

 ――20ドルでいいさ、ほら、この子もあんたの事をどうやら気に入っているようだ

 老婆は微笑んで少女の黒髪の上にぽんと手を置く。見ると、少女は私の瞳をじっとのぞき込むように顔を上げて、小さく、「にゃあ」と口から声を出した。そうして尻のしっぽがきまぐれにくるりとはねた。

 ――見てごらん、この子猫、ロシア猫の血統を由緒正しく受け継いだ、雑種のメス猫だよ。安い買い物じゃないかい!


 まわりにいた老婆たちの間から、再び哄笑が起こった。



 やはり私はひどいノイローゼ状態だった。正常な判断力を失っていた。老婆から値段をふっかけられていると知りつつ、その全裸の少女 ――ただの雑種の子猫一匹に、20ドルを払い、買い取ってしまったのだから。 



 満面に笑みを浮かべた老婆からドル紙幣と引き換えに渡された、子猫の首の鎖。私はアパートに帰るのに、その鎖を引っ張って子猫を連れて帰ろうかと思った。だが、まだ幼い子猫のほっそりとした首、そこに付けられた首輪を無理に引っ張るのは可哀想だったので、鎖はその場で外してやり、子猫の小さな右手を握って先に進み、部屋まで付き従わせることにした。

 正直なところ、子猫が私の手を振り切って逃げ出し、あの老婆の所にでも帰って行くことを期待していた。ついふらふらと、勧められるままに子猫など買ってしまったが、今のノイローゼの私に、猫を部屋でちゃんと飼育できるような精神的余裕はなかった。


 だから道の途中で、私は自分から握っていた子猫の手を離し、一人でずんずんと歩き振り返らずに進んでいってしまった。猫は貧乏なお婆さんのもとに帰ればいい。あの、おそらく大祖国戦争で夫かまたは結婚を約束していた男に死なれ、その後の生涯をずっと孤独に過ごしてきただろう彼女のもとに。

……この国に留学してから知ったのだが、年寄りのロシア人女性の実に多くが、家族も無く、一人身で貧しい暮らしをしているのだった。ロシア、この国は、独ソ戦であまりにも多数の成年男子を失ってしまっていた。戦中戦後を生きた女性たちは、結婚相手が不足しており、結局一人ぼっちで、家族のない孤独な一生を送らねばならなかったのだ。そしてソ連崩壊後、そのような老婆たちは、国家からまともな福祉援助も受けられないまま、路上で煙草や新聞、ピロシキなどを売り、わずかな収入を得て、なんとかその日その日を生きているのだった……。


 アパートの玄関まで来ると、背中から、「にゃあう」という鳴き声がした。見ると後ろに、あの子猫がぼんやりと立っていた。結局、ついて来てしまったのだ。いつのまに私はこの子になつかれたのだろう?仕方がないので、結局私は子猫の手を取って自分の部屋の中へと連れて行った。

 途中、下の階に住んでいるマーシャという電話局勤めの中年女とすれちがった。対人恐怖から私は目をそらしてうつむき彼女を無視して、子猫と一緒に階段をあがっていった。


 ――まあ、可愛い子猫


 彼女はただ一言そう言うと、アパートの外へと出て行った。



 ドアを開け室内に入ると、私はどっと疲れに襲われて、買ってきた食料の袋をテーブルに置くとベッドに倒れこんだ。疲れた。とにかく外の世界に疲れ果てた。私はベッドにあおむけになり、右腕で自分の両目を覆った。

 すると、放って置かれたままになった子猫は、おずおずと勝手に室内を歩き回り始めた。ちらりとカーテンをめくり外の風景を珍しげに眺めたり、壁紙のはがれた所を指でいじくってみたり、本棚に並んだロシア語の背表紙をじっと見つめたりした。そして、子猫はテーブルに近寄ると、勝手に紙袋をゴソゴソとあさり出した。「にゃーう」もの悲しげな瞳をこちらに向けて、鳴く。


 ――腹が減ったのか


 私はベッドからよろよろと立ち上がると、紙袋からパンとサラミ、チーズ、そしてミルクのパックを取り出した。私は椅子に腰掛けて、自分の左手を丸めてそこにミルクを注いで、子猫の方へそっと差し出した。子猫は尻尾をぴんとのばすと、私の前にひざまづいて四つんばいになり、手の中からペロペロと牛乳を飲み始めた。子猫の舌の動きがくすぐったくて、私は何度もミルクをこぼしそうになった。

 やがて全て飲み干した子猫は満腹になったのか、満足げに目を細めると、わたしのかたわらを音もなくすり抜けて、ベッドに近寄り、そのシーツの上にぴょんと身を投げて横になり、自分のひざを抱えて丸くなった。そしてすぐに、すやすやと寝息をたてはじめた。


 ――ものおじしない子猫だな。もうおれにもこの部屋にも慣れたらしい


 頭から突き出た耳をぴくぴくと痙攣させながら、安らかな寝顔を見せている子猫の姿をぼんやりと眺めた。

 この子猫は何歳ぐらいだろう。あばらが浮き出て見えるその痩身な未発達の体躯からすると、人間にたとえたら12、3歳ぐらいだろうか。まったく体毛の生えてない白い裸身をシーツに横たえて、幸せそうに眠っている子猫。寝息とともに、扁平な胸のあたりがかすかに上下する。

 ロシア原産の猫で有名なものといったら、体毛が長い『サイベリアン』だが、この雑種の猫は肌にうっすらとかすかに金色の産毛が生えているだけで、人間の少女のようにすべすべとした色白の肌をしていた。そしてその髪の毛と瞳は、両方が深い黒色だった。


 ――こんな姿じゃ、冬は寒くて仕方がないだろうに


 私は子猫の窮屈そうな首輪を取りはずしてやり、のどをそっとなでてみた。あの老婆がやっていたように。すると、子猫はグルグルとのどをならし、眠りながらも確かに恍惚とした表情をその整った顔立ちに浮かべるのだった。


 ――黒い髪、黒い瞳、ひょっとしたらお前の先祖は、おれと同じくどこかアジアの方からやって来たのかも知れないな


 私もベッドに横になると、背中から抱きかかえるようにして子猫のおなかを左手でさすってやった。しっぽが動いて、ぺちっと私の手を打った。疲れ果てていた私は、その子猫と一緒にベッドで丸まって深い眠りに落ちた。



 子猫の鳴き声に起こされた。子猫は私の顔に自分の顔を近づけて、「にゃあ」と鳴いた。


 ――また腹が減ったのか?それともトイレかな……


 私は皿を床においてミルクを注いでやった。だが飲まない。トイレに連れて行き、便座に座らせて、「ここで済ますんだよ」と教えてみても、にゃあにゃあ声を出して、ただこちらを見つめてくるばかりだった。何が欲しいんだ?私が子猫の頭をなでると、子猫は身体全体で私にすり寄ってきて、気持ちよさげにのどを鳴らした。

私は子猫を抱きかかえ上げ、ベッドまで運び、腰をおろして、自分のひざの上に座らせた。

 不意に、子猫は、わたしのほほをぺろりと舐めて、胸に軽く爪を立てた。私はそんな子猫の黒い髪にそっと顔をうずめると、子猫ののどに手をさし回し、優しくなでてやった。喜悦にしっぽが揺れ始めた。


 ――さて、これからどうしよう。この子猫、ノイローゼのおれにちゃんと飼い続けることが出来るだろうか……。それにしても、不思議だな、このロシアの子猫は、人間そっくりの姿をしている。ああロシア。ロシア。マヤー・ロージナ。いまだにおれには、この国の本当の姿、不可思議さが理解できない……。ロシア。まるでここはおとぎの国のようだ


 子猫のふさふさとした耳に触れてみた。冷たい感触。子猫はくすぐったいのか、私の胸の中にうずめていた顔をイヤイヤをするように左右に振った。そして無垢なその黒い瞳で、新しい飼い主の私の顔を無言のまま真っ直ぐにのぞき込んでくるのだった。


<了>





『ソヴィエツキー・ソユース(CCCP)から来た少女』の続きは「小説家になろう」で執筆中です。

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