第16話 2月8日 香川万里恵
酒が切れた、と、千紗姉ちゃんは空になったウィスキーの瓶を手の中で振りながら不機嫌そうに言った。その言葉に続けて、悪いけど、酒屋に行ってアルコール度の高いウイスキーとブランデーを四、五本、買ってきてちょうだいと、財布から一万円札をなんと五枚も取り出し、おれに渡しながら命令した。
「銘柄はなんでもいいけど、トリスとかの安酒は絶対買ってくるんじゃないわよ」
こたつにうつぶせになって、こちらに背中を向けたまま、千紗姉ちゃんはけだるそうに言い捨てた。
おれはため息をひとつつくと、手近にあったダウンジャケットをひっつかんでそれをはおり、玄関へと向かった。
ドアノブに手をかけると、背後からあわててソーニャが追いかけてきた。
「私も御一緒します」
ロングコートのそでに腕を通し、前のボタンを両手で急いでとめながら、彼女は言う。
「いいよ、おれ一人で買ってくるから」
そう答えながら、おれはドアを開けてアパート二階の通路に出た。
外の世界。空は青く冬晴れだった。少し寒いが気持ちのいい空気が
「あーあ、めんどくさいなあ……酒ぐらい自分で買いに行ってくれよ、まったく……」
おれはジャケットのポケットに両手を突っ込み、冬の空の穏やかな太陽を見上げながらつぶやいた。
遅れて、ソーニャも部屋の中から外へ出てきた。
「待ってください、マモルさん」
「ん? ああ、本当におれ一人でいいよ。ソーニャをわざわざ付き合わせるのは悪いから」
「いえ、常にあなたの身辺を警護する必要がありますから」
真剣な面持ちのソーニャ。
「……そう。じゃあ、一緒に行こうか。酒屋はそんなに遠くないから」
「あ、はい」
そうして二人一緒に二階の通路から階段を地上へと下りはじめた。
ふと、おれは階段の途中で立ち止まった。そして、隣の少女に視線を向ける。
「そういえばさあ、ソーニャ、例のスターリンの密書とかいうやつだけど、あれ、いつもどこに置いてるの?」
と、なんとなく疑問に思ったことを口に出してたずねてみた。
「――肌身離さず、私がちゃんと保管しています」
ソーニャはそう言って自分の胸の当たりに右手をあてた。
「服の中に?」
「はい、下着のスリップに付いた特殊なポケットの中に、油紙に包まれた密書の封筒を入れてあります。これなら、安全です」
彼女は自信ありげににっこりとした表情を作る。
……ソーニャの下着のスリップ。――三秒ほどの短い間、おれの脳裏にやけに生々しく卑猥な妄想図が浮かび上がった。あわてて頭を振って、邪念を払う。そして話題を変える。
「そういえば、トカレフもコートの下に?」
「もちろんです。外出時は常時携行しています」
よく見れば、彼女のコートの左脇の部分がかすかにふくらんでいるような気がした。
「……お願いだから、またいきなり街中で撃ったりしないでね」
軽い疲労感のようなものをおぼえながら、おれは彼女に頼んだ。
「はい、これからはマモルさんの命令下のみにおいて発砲します」
いつもの真面目さでこくりとうなずくソーニャ。
おれも彼女に小さくうなずき返すと、歩を踏み出し、階段を下りアパートの前に出ようとした。
その時だった。突然おれは道路の方から声をかけられた。
「あの、すみません、本田守くんですか……?」
おれは足もとの階段のステップから視線をあげて、声の主の方を見た。
そこには、眼鏡をかけた一人の若い女性が立っていた。
「え……あ、はい、そうですけど……」
見知らぬ女性にいきなり声をかけられたことに戸惑いながら、おれは答えた。
「ああ、やっぱり」
その女の人はほっと安堵したような表情になって、おれの顔を見つめてきた。
彼女は、暖かそうな厚手のカーディガンに、ゆったりとしたロングスカートというよそおいをして、小脇に白いハンドバックをかかえていた。歳は、千紗姉ちゃんと同じぐらいだろうか。おれより年上だ。上品でおとなしそうな雰囲気の女性だった。
ソーニャがすっと階段を一段下りて立ち、おれと彼女の間に割って入る形になった。今、頭一つ低い位置にいるソーニャ、その肩に、普段にはない緊張感が張り詰めているのが分かった。
「あの、初めまして。わたし、香川
どことなくおっとりとした声で女性は言う。そうしてその眼鏡の奥の眼は、おだやかで優しげな感じに柔らかく細められていた。
一方、おれをガードするようにして一歩前に立ち続けているソーニャ、彼女の横顔をうかがえば、そこには眼前に突如現れた人物に対する警戒心が露骨なまでにありありと浮かんでおり、にらみつけるような鋭い眼光が相手に真っ直ぐ向けられているのが見えた。
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