第5話 2月5日 微笑
ソフィアはそこまで言うと、おれの返事を待つようにぎゅっと口元をひきしめておし黙り、こちらに青い瞳を向けてきた。
おれは座りながらこたつの中に両手を入れた。そして手のひらに赤外線の暖かさをじっと感じながら、窓の外に目をやった。外は真っ暗だった。その闇の中、窓ガラスのそばにただよう雪の白さだけがかすかに見えた。夜がふけるにつれて、雪はますます降り積もっていくようだった。
おれはため息をついた。少々大げさなぐらい、深々としたため息を一つ。
「3月5日まで開封するのを待てって言いますが、その理由は」
おれはソフィアと目を合わせず、窓の外を見つめたままぶっきらぼうに尋ねた。
「わかりません、私はただそのように命令を受けただけですので……」
ソフィアの回答。
「あのですね」
おれは彼女の方に向き直って、真剣な表情で言った。
「そもそも。なんで、このおれに、スターリンの密書が届けられるのですか。一体、どういう関係で。ソ連もスターリンも、おれと何の関係があるんですか。わかりません。わけがわからない。なぜ、そんな手紙をこのおれが受け取らなければいけないんですか。普通の日本の大学生のおれが。理由は? その理由も、『わからない』ですか?」
自分のしゃべり方にとげがあるのを自覚しつつも、しかし、それを止める事ができなかった。何か壮大かつバカバカしい冗談に付き合わされているという思いにおれは捕らわれ、それは激しいイラだちとなって心にわきあがった。相対するロシア人の少女の要領を得ない返答にもそろそろ我慢できなくなっていた。
「すみません……」
小さな消え入るような声で、彼女は謝罪の日本語を言った。
「本当に、何も知らないのです。なぜ開封日の指定が、来月の3月5日なのかも、また、あなた宛の密書なのかも。私はただ、党からの命令を受けた忠実な伝書使として、あなたの元にやって来ただけなのです。……ただこれだけは、信じてください。この密書は、確かに、あなた宛の物なのです。極秘裏に、あなたのお手元に届けることが、私に課せられた任務なのです。私の言葉だけでは信じてもらえないかもしれませんが、密書の内容をあなたが自身のその目で確認された時――なぜ同志スターリンが――あなたに、極秘文書を送られたのか、その理由がはっきりするはずです」
最初ソフィアは、長いまつ毛を伏せ、弱々しい口調で語っていたが、『同志スターリン』の名前を発する際になると急に顔をあげ、今までの弱気な表情を一変させ、何か確信に満ちた力強い瞳でこちらを見つめ返してきた。
「ともかく、3月5日になるまで、待て、と」
おれは右手でボリボリ頭をかいた。彼女の答えを聞いてもイラだちはおさまらなかった。
「はい。その日まで、開封を待ってください」
多分にヤケになりながらおれは、
「ええ、わかりました。わかりましたよ。受け取りますよ、この封筒。それで待ちますよ、来月まで。それから中を見ますよ」
と、早口で言い切った。
「あっ、はい、お願いします!」
ぱっとソフィアの顔が明るく輝いた。座っている彼女の上半身が笑顔と共に動き、それに合わせて、
そんな彼女の嬉しそうな笑顔を見て、おれは瞬間ドキリとした。
美人――そう、ソフィアはかなりの美人だった。そんなきれいな子が喜びに目を輝かせ口元をほころばせている姿を間近で見れば、普通の男だったら胸が高鳴るのは当然だろう。
――まあでも、美人だけど、しゃべっている話の内容は荒唐無稽、無茶苦茶だけどな
おれは心の中で大きく嘆息した。
「ホンダさん――いえ、同志ホンダ、それでは、この密書についてなのですが」
おれの複雑な気持ちにはおかまいなしに、こたつの上の封筒を大事そうに両手で胸の前に持ち上げながら、弾んだ声で彼女は言う。
「3月5日まで、同志ホンダのお手元で厳重に保管して頂こうかとも思ったのですが、考えるに、この密書を指定開封日まで守り続けるのも、私の任務の一部ではないかと思うのです」
「はあ、そうですか」
「ですから、その日まで、私が肌身はなさず――モスクワから日本までの長い旅の間そうしてきたように、私が責任を持って保管しようと思うのですが、それでよろしいでしょうか?」
「ああ、ええ、どうぞ。好きにして下さい」
おれはかなり投げやりな口調で答えた。
「それともう一つ、お願いと申しますか、提案させて頂きたいことがあるのですが」
「はあ……なんでしょう」
「開封日まで、この部屋に――同志ホンダのおそばに、いさせて欲しいのです」
「……えっ?」
耳の遠い老人がするように、なんだか間の抜けた動作と声でおれはソフィアに聞き返した。
「同志ホンダ、あなたはこの密書と同じく、重要な存在です。なぜなら、密書を読む前にあなたの身にもし万が一のことがあり、密書の内容を伝達することができなかったら――私がソヴィエトからやってきた意味が無くなります。ですので、大変勝手な申し出ですが、あなたの身辺を警護する為に、これからの約一ヶ月、あなたの部屋に同居させてはもらえないでしょうか」
「……えっ?」
おれはオウムのように同じ言葉を繰り返した。
事態がどんどん変な方向に転がり始める。いったいこの子は何を言い出すんだ。いきなりの申し出におれは呆然として、しばしの間、彼女の顔を真正面から無遠慮にじっと眺め続けた。
「あなたと一緒に、これからしばらくの間、生活をともにさせて頂きたいのです――」
にっこりとして、ソフィアは言う。
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