第13話 「殺してやる!」
警察が用意した車で送ってもらったリリアンと隆弘は、家の前で車を降りた。リリアンが車を出してくれた警官に礼を言う。
「ありがとうございました」
「いえ。今日はもう遅いですからゆっくりお休み下さい。明日、詳しい話を聞きにまいります」
「おねがいします」
車がライトの明かりだけを残して霧の中に消えていく。
隆弘がリリアンの腕を引っ張った。
「いくぞ」
「うん」
霧の中を走ったせいで服も髪も少し濡れている。帰ったら手早く着替える必要があるだろう。
家に明かりが付いていないので、ドリーはまだ帰っていないようだった。隆弘が鍵を取り出すのを横目に、リリアンは駐輪所を確認する。昨日隆弘の持つバイクの横にドリーとリリアンの自転車を運んできたのだ。ドリーの自転車だけがまだない。
「ドリーがこんなに遅いの初めてかも。どうしたんだろ……」
「今朝、出かけるとはいってなかったよな」
「うん……」
「なんにもなきゃいいが、とりあえず電話かけてみろ」
「そうする」
リリアンがバッグから携帯電話を取りだした。着信履歴からドリーを捜し出す。その間に隆弘が玄関の鍵をあけ、家の中に入っていった。リリアンも携帯を操作しつつ後に続く。彼女は着信履歴にドリーの名前を発見し、電話をかけた。コール音が鳴る。
隆弘がリビングの明かりをつけるためスイッチに手を伸ばし、動きが止まった。油断して携帯にばかり集中していたリリアンは男の背中に顔面を強打するハメになる。思わず声をあげてしまう。
「おっぷす!」
まだ明かりもついていない。
「なにさぁ!」
目の前の男に抗議しても反応がなかった。様子が変だ。リリアンが顔をしかめてリビングの中をのぞき込む。
男の怒鳴り声がした。
「リリアン、動くな!」
女が肩を竦める。彼女の耳に風船の割れるような音が聞こえてきた。隆弘の腕が彼女を後ろに押しやる。彼の足元から煙が立ち上っていた。何かの焦げた臭いがする。
男が低く呻った。
「ジャッキー、テメェ……」
暗いリビングにジャッキー・ボーモントが立っている。華奢な手に銃を握りしめ、アーモンド型の大きな目が敵意をむき出しにして隆弘を睨みつけていた。容姿だけなら女と見紛うような可愛らしいものなのに、表情のせいでとても恐ろしい。
「リリアンには手を出すなって、いっただろう!」
息をのんだリリアンの手もとから携帯電話が滑り落ちた。けたたましい音がする。
ジャッキー・ボーモントは以前遭遇したとき同様拳銃を所持していた。それをリリアンたちに向けている。正確に言うと隆弘に。
彼は整った顔を醜悪に歪め、頬を真っ赤にしてツバを飛ばす。
「殺してやる!」
ドラマでよく見る、嫉妬に狂った女のような顔だった。銃を握る両手が震えている。興奮のためか、今から人を殺す恐怖のためか。
隆弘が一瞬リリアンを見た。男の右足がリビングのカーペットにかかっている。女は彼の意図を察して半歩下がった。ジャッキーは隆弘の顔をまっすぐに見据えている。銃の撃鉄を起こす音がした。
隆弘は右足に力を入れてジャッキーを睨みつける。ジャッキーの華奢な指が引き金を引く直前、隆弘の右足がカーペットを引っ張った。ネコの顔を模した絨毯が勢いよく動き、上に乗っていたジャッキーがバランスを崩す。
「うわぁっ!」
銃口が隆弘の顔から逸れる。ジャッキーが体勢を立て直しているあいだに、隆弘が大きく一歩を踏み出した。右足を振り上げ、拳銃めがけて振り下ろす。鉄の塊がカーペットの上を飛び跳ねた。
ジャッキーが前のめりに踏ん張って転倒を回避する。彼の後頭部を掴んだ隆弘はそのまま敵の頭を絨毯の上に叩きつけた。
ジャッキーの頭蓋骨が軋む。
あまりの痛々しさにリリアンが肩を竦めた。隆弘は小さく舌打ちする。完全に押さえつけるため、敵の背中に馬乗りになった。
「これで終わりだな、ジャッキー」
彼の細い身体はバタバタと暴れているが、質量が違いすぎる。隆弘の身体はビクともせず、代わりにジャッキーの身体が軋んだ。
隆弘が吐き捨てる。
「手間ぁかけさせやがって」
ジャッキーの目が一瞬だけ光った気がした。
直後、隆弘の身体がガクンと沈む。
「っ!?」
隆弘が思わず息をのんだ。
リリアンも声を荒げる。
「西野っ!」
「隆弘だっ!」
あり得ない光景が目の前に広がっていた。
絨毯の床にジャッキーの身体が沈んでいくのだ。地面に半分飲み込まれたジャッキーが声をあげた。
「ふふ、ふふふ……」
焦っている様子はない。声が出るということは呼吸もできている。ジャッキーが自分の意志で地面の中に沈んでいるのだ。
リリアンの背筋に悪寒が走った。
ネズミが空を飛んだときと同じ現象が起こっている。自然の摂理に反した超常現象。
リリアンが顔を真っ青にして震えている傍ら、隆弘が焦った様子で叫んだ。
「なっ、なんだ!? なにが起こっていやがる!?」
彼は自分の腕が地面に飲み込まれる直前、あわててジャッキーの後頭部を離した。
今まで確保していたはずの男が完全に絨毯の中へ飲み込まれる。隆弘とリリアンだけが取り残された。
隆弘はジャッキーを飲み込んだ場所から距離をとり、周囲を見回す。
「どこにも……いねぇ……」
リリアンも首を動かして辺りの様子を探した。ジャッキーの姿は見あたらない。水に潜った直後のように、どこからか浮かんでくるのだろうか。
隆弘の身体がまた勢いよく沈んだ。
「なんだ!?」
隆弘とリリアンが慌てて足元を見ると、床から細い腕が隆弘の足首を掴んでいる。くるぶしから下は絨毯の下に沈んでいた。
地中から声がする。
「ふふふふふ! 驚いてるみたいだね! 当然だよね、こんなこと僕にしかできないからね!」
隆弘の足が沈んでいく。まるで底なし沼のようだ。どういう仕組みになっているのかわからないが、とにかく隆弘の足はジャッキーに掴まれて地面の中に沈んでいる。ネズミの時もどうやって空を飛んだのかはわからなかった。つまりそういうことだ。彼は人体実験でネズミと似たような力を手に入れたのだろう。
地面の中にいるであろうジャッキーが不気味に笑った。
「これから君は何もできずに地面に沈んでいくしかないんだ! 土の中は僕の領域さ! あの夜飲んだ薬が僕に力を与えてくれたんだ!」
隆弘の足が一気に沈んだ。今は脛あたりまでだ。
「バルボ教授の研究室で開発された薬だよ! リリアンも研究に関わってたはずだ!」
突然名前を呼ばれて女の肩が震える。隆弘がチラリと自分を見たので、彼女は胸が締め付けられるような息苦しさを覚えた。
――私のせいだ!
我に返ったリリアンが、咄嗟に隆弘の腕を掴む。
「西野っ!」
「隆弘だっつってんだろ!」
「こんな時まで余裕だねアンタは!」
自分のせいで目の前の男を死なせるわけにはいかない、と彼女は強く思った。ジャッキーの飲んだ薬で少なくとも3人が命を落としている。この上隆弘まで死んだらと思うと目の前が真っ暗になりそうだった。
西野隆弘の腕を両手で掴み、全身を使って引っ張る。身体がなんとか地面から出てきた。脛まで沈んでいた足が今はくるぶしくらいまで地面に出ている。
ジャッキーの苛立ったような声が聞こえた。
「リリアン! なにしてるんだ! そんな男に!」
隆弘のくるぶしあたりを掴んだ華奢な手が怒鳴る。手だけがしゃべっているようで非常に不気味だった。
「僕のことを好きなんじゃなかったの!? そう思ったから折角親切にしてあげたのに! 裏切るなんてあんまりだ! よりによって隆弘なんかとっ!」
隆弘の身体がまた地中に引っ張られたので、リリアンは男が沈んでしまわないよう必死に踏ん張った。
「誰もお前のこと好きだなんていってねぇけどっ!」
「君も結局そこらのバカ女と同じだったんだ! この僕が! 助けてあげるっていったのに!」
リリアンの身体が揺れる。目線を床に向けると身体が少しだけ沈み始めていた。
「隆弘もろとも殺してやる!」
女が微かに息をのんだ。一方隆弘はなにが面白いのか、喉の奥で笑ってみせる。
「……その変態にふさわしいみみっちぃ特技で、リリアンの部屋にも入り込んだのか?」
殺されかけているというのに随分と余裕だ。リリアンが睨みつけても男は平然としている。
地面の下でジャッキーがフン、と鼻を鳴らした。
「残念だったね。推理はハズレだよ。僕がこの力を手に入れたのは昨日のことだ」
隆弘の片眉が跳ね上がる。ジャッキーがケタケタと笑った。
「おまえら2人とも僕のいうことを聞かないからいらないんだ! 邪魔なんだよ! 死んでも知らない! 死ねばいいよ!」
隆弘が奥歯を食いしばる。タバコを咥えていたら噛み切りそうな勢いだ。
「堕ちるところまで堕ちたな、ジャッキー」
隆弘の身体がまた沈み込んだ。彼の腕を掴んだままリリアンが足に力を込めるも、あまり踏ん張りが利かず逆に自分まで沈み込む始末。
ジャッキーが怒鳴る。
「バァーカ! カッコつけてられるのも今のうちだ!」
またズブズブと隆弘の身体が地面に沈んだ。男はひとつため息をついてから天井を見上げ、吐き捨てる。
「バカはテメェだジャッキー」
「は?」
地面の中からの声には応えず、彼は自分の腕を掴んだままのリリアンを見据えた。
「リリアン、手ぇ離すんじゃねぇぞ。しっかりふんばれ」
「う、うん!」
女が頷くと、隆弘の身体に力が入る。掴んだ腕からリリアンにそれが伝わってきた。男は地面に沈んで踏ん張りの利かなくなった右足を、腹筋だけで思いきり跳ね上げる。左足が沈んでいくのをリリアンの腕がなんとか止めた。
隆弘が跳ね上げた右足には、ジャッキーがしがみついている。彼は掴んでいた足の動きに逆らえず、地中から出てきて放り投げられた。
隆弘の口から、腹に響く低音が飛び出す。
「力比べでテメェが俺に勝てるわけねぇだろ!」
跳ね上げた右足をしっかり地面につけた隆弘は、一瞬浮かんだ華奢な身体に狙いを定めて思いきり拳を叩きつけた。
ゴキャリ、と妙な音がする。おそらく肋骨あたりが折れたのだろう。
「ぐぅっ!」
ジャッキーが呻いて地面を転がる。ネコのテーブルを巻き込んで壁に激突した身体が地面に沈むことはなかった。
隆弘が鼻を鳴らす。
「意識してなきゃ特技はつかえねぇらしいな。そうじゃなかったらここに来たとき地面に立ってた説明がつかねぇからな」
地面に転がったジャッキーは動かない。どうやら気絶しているようだ。肋骨が折れるようなパンチをもらったうえ、ミニテーブルを巻き込んで床を転がれば気絶しても無理はないだろう。
「目ェ覚ます前におさえつけとかねぇとな」
隆弘が左足を床から引き抜こうと身じろぎした。しかしいくら力をいれても足はビクともしない。ジャッキーが沈まない代わりに、隆弘の左足も床の下に埋まっていた。リリアンの両足も同様だ。
リリアンが茫然と倒れたジャッキーを見守る中、隆弘が忌々しげに吐き捨てる。
「くそ野郎がっ! 手間ぁかけさせやがって!」
男はいったんしゃがみこんでフローリングに拳を叩きつける。鈍い音がした。フローリングが少しヘコむ。
「西野、なにやってんの……?」
「隆弘だ」
ガツンッ、ガツンッと何度か同じ音が響き、床がどんどん傷ついていく。男の手が赤くなっていく。
「ねぇっ、手が腫れてるよ!」
「知ってるよ!」
低いうなり声とともに床へ何度目かの拳が叩きつけられる。鈍い音がしてフローリングが大きく歪み、ヒビが入った。しまいに隆弘が両手を組んで足元へ勢いよく振り下ろす。
バゴンッ、と取り返しのつかない轟音がしてとうとうフローリングに穴が開いた。
リリアンの頬がひきつる。
――もしかしてこいつ、人間じゃないのかもしれない。
ジャッキーの超常現象よりもはるかにあり得ない力業を見せられてリリアンの身体から血の気が引いた。この男を敵に回したくない。
リリアンが声もなく震えている傍らで、フローリングの足かせから無事脱出した隆弘が女の足元をみやる。彼女の足は両方ともくるぶしまで床に埋まっていた。
「次はテメェの足だな」
リリアンが慌てて首を振る。
「い、いや、いいです!」
「大丈夫だ。修理代請求はあそこのバカにする」
隆弘は多少ズレた回答をした。それから床に転がっていた拳銃を拾いリリアンのすぐ足元に銃口をつける。
「ねえ、どうすんのソレ」
「ここならテメェの足は傷つかねぇだろ」
「やめてよぉ! 怖いよ!」
「大丈夫だって。ちょっと床に座ってろ」
つい先程フローリングに拳のみで大穴をあけた男に命令され、従わないでいられる人間がいるだろうか。リリアンは真っ青な顔のまま大人しく床に腰を下ろした。
風船の割れるような音がしてリリアンは思わず目を瞑る。足の指の間がゾワゾワした。下唇を噛んで足のほうを見ないようにしていると、更に立て続けに2回、火薬の弾ける音がする。
それからガゴンッ、と鈍い音がして、なにかが剥がれる音の直後、足首がフッと軽くなった感覚がした。
「そら、取れたぜ」
隆弘の声とともにリリアンが恐る恐る足元を見る。フローリングが無残にも引き剥がされて、リリアンの足があったあたりに大穴が開いていた。彼女が座ったまま穴から這いずり出ると、隆弘は満足したように立ち上がって拳銃を投げ捨てる。
「思ったより時間がかかっちまった」
それから彼は気絶したジャッキーに歩み寄った。細い腹を蹴って犯人の意識がないことを確認する。それからリリアンに視線を向けて、床に落ちた携帯電話を指刺した。
「昨日アーマンのおっさんにケー番教えてもらったろ。それで直接おっさんに話せ。警察よりそっちのほうが早ぇ」
リリアンは慌てて携帯電話を拾い上げる。
「わ、わかった!」
いつのまにかドリーにかけたはずの通話は切れていた。落としたはずみで終了したのかもしれない。彼女は男の指示通り、震える手で警察の電話番号を押した。
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