第20話 「そんなチャチな薬なんかに、俺の20年間が否定されてたまるか!」
ドリーが腕の力を緩めて顔をあげる。
夜霧の中に男が立っていた。口元の火だけが暗がりの中で赤く光っている。
ドリーが息を呑んだ。
リリアンは茫然とする彼女の拘束を抜けだし、叫ぶ。
「西野っ!」
「隆弘だ」
リリアンが転がるような勢いで男に駆け寄った。彼は少し不満そうに呼び名を訂正してきたが、リリアンの肩を抱き留めて守るように背後へ誘導してくれる。
「怪しいとは思ってたが、まさか自分で薬まで飲んでやがったとはな。驚いたぜ。早く治療したほうがいいんじゃねぇのか?」
ドリーが歯を食いしばった。煙を吸い込んだ隆弘は敵を真っ直ぐに睨みつける。
「手間ぁかけさせやがって。もうすぐ警察がくるぜ。観念するんだな」
ドリーが右足で床を蹴った。女のヒステリックな叫び声が木霊する。彼女が喋るたび床に赤黒い染みができた。
「うるさいっ! 結局その女を選ぶのね! 結果を出したのは私なのに! 警察がくるですって!? だからなんなの! 私はもうすぐ死ぬのよ! こんなもの、治療なんてできるわけないでしょ! 観念するのはアンタのほうよ! アンタもリリアンも道連れにしてやる! 見る目がない自分を後悔するがいいわ!」
男がタバコの煙を吐き出す。ため息も混じっているようだ。
「俺は絶対後悔しねぇよ。テメェよりか人を見る目があるからな。他人のモンを横取りして何が結果だ。ジャッキーが飲んだ薬はもともとバルボ教授が開発した薬じゃねぇか。テメェは他人の評価が欲しいだけだろ。そんな奴の相手、俺はゴメンだぜ」
ドリーの身体が震えている。顔が真っ赤だ。隆弘を睨む目に殺意がある。
「な、なんですって……!?」
男はタバコを咥えたままドリーを見据えていた。見下すような目つきだ。
「なんならハッキリいってやろうか? かまってちゃんが、ウゼェんだよ」
ドリーの身体が震え始める。食いしばった歯の奥から低いうなり声のようなものが聞こえてきた。
「許さないっ……! 絶対に許さないっ!!」
ドリーの目が太陽を反射した鏡のように一瞬強く光を放つ。
突然、建物の中に強風が吹き荒れた。椅子がガタガタと音を立てて揺れる。開いた扉から吹き込んできたのではない。リリアンの髪もタバコの煙も、礼拝堂から逃げ出すように扉の外へ流れていく。
風のうねる音が耳元で聞こえた。空気を切り裂くような鋭い音だ。
隆弘が突風に押されて小さく呻いた。
「ぐっ……」
リリアンも飛ばされないよう、必死に男の腕にしがみつく。
強風の吹き荒れる中でドリーが高らかに笑った。口の端から血が流れでている。
「私はあの薬を飲んでるのよ!? あんたたちより進化した人類なの! この私にアンタらみたいな虫けらがかなうわけないじゃない!」
ドリーの言葉と共に、リリアンたちに吹き付ける突風が強くなった。正面からだけではない。上からもなにかに押さえつけられているような気がした。重力が何倍にもなったような感覚だ。
リリアンが隆弘の腕を離す。男が少し驚いたようにリリアンを見た。
もう限界だ。リリアンがたまらず悲鳴をあげる。
「きゃあぁっ!」
強風に身体が吹き飛ばされ、上からの重圧で地面に叩きつけられた。背中に強い痛みが走った。風が止まない。
ドリーがケタケタと声をあげて笑う。
「そのまま押しつぶされて死になさいよ! 虫けらみたいにね! アンタには似合いの最後だわ!」
男がドリーを睨みつけた。ドリーは血にまみれた歪な笑顔のまま、彼の視線を受け止める。
「隆弘、アナタも今更謝ったって遅いわよ! 無様に地面に這いつくばるといいわ!」
風がまた強くなった。隆弘の身体が大きくぐらつくも、彼は体勢を立て直して力強く地面を踏みしめる。
背中を強く打ち付けたリリアンは腹にかかる重圧に吐き気を覚えながらも必死に顔をあげた。
隆弘がまだ立っている。ドリーを睨みつけていた。煙が突風にあおられて扉の外に逃げていく。
隆弘が煙草を噛みきった。赤い火が付いたタバコの破片が煙の後を追うように扉の外へ飛んでいく。
男がツバとともに残りの破片を吐き出した。隆弘の背中が低くうなり声を出す。
「手間ぁかけさせやがって」
同時に彼の身体が動いた。
強風に立ち向かうように一歩足を踏み出す。そうしてまた一歩踏み出し、突風の原因であるドリーに近づいていく。
リリアンも彼の行動には驚いたが、ドリーはそれ以上に驚いたようだった。
「なっ、なんですって!? どうして動けるの!? どうして向ってくるのよっ!」
風がさらに強くなる。建物自体がギシギシと妙な音を立てた。地面に縫い付けられたままのリリアンは倒壊の危険性に背筋が寒くなる。
隆弘は歩みを止めない。忌々しげに舌打ちをして奥歯を噛み締めた。
タバコを咥えていたならきっと噛みきっていただろう。
「寝ぼけたこと言ってんじゃねぇぞ。この俺がドーピング女なんかに負けるわけねぇだろうが。進化だと? そりゃあ他人の努力を踏みつけるくらいの価値があんのかよ」
血を吐いたドリーが隆弘から逃げるようにジリジリと後退していった。隆弘も同じ速度で彼女に近づいているので差が縮まることもひらくこともない。とうとうドリーの背中が壁に到達してしまった。
風がさらに強くなる。隆弘の身体が一瞬よろめくが、彼はすぐに体勢を立て直した。
男は決して倒れない。
まっすぐにドリーを見据えていた。
「そんなチャチな薬なんかに、俺の20年間が否定されてたまるか!」
ドリーの真正面に辿り着いた隆弘が握り拳を振りかざす。
殴られると思ったのだろう。ドリーが反射的に目を閉じた。
ガツン、と重い音がして隆弘の拳が突き刺さる。目を強く瞑ったドリーのすぐ横、礼拝堂に壁に。
壁に右拳を叩きつけた状態で、隆弘が小さく呟いた。
「……ようやく、警察のご到着か」
隆弘の言うとおり、外からサイレンの音が聞こえてくる。
自分の真横に拳が突き刺さったドリーは、脱力した様子でヘナヘナと座り込んでしまった。風が止んでいる。逃げる気力も残っていないのだろう。意識があるのかどうかも怪しい。目をあけたまま気絶しているのかもしれない。
隆弘はドリーに抵抗する意志がないのを確認し、堂々とした態度でリリアンに歩み寄ってきた。彼女に男が手をさしのべる。
「立てるか」
切れ長の目がリリアンを見ていた。彼女は素直に男の大きい手をとる。
「ありがと。大丈夫」
「念のため病院にいったほうがいいな」
「西野もね」
「隆弘だ」
彼がこんな時でも呼び名を訂正してきたので、リリアンは思わず笑う。
サイレンの音が止まった。警察がくるのももうすぐだ。礼拝堂はボロボロだが緊急事態だからきっと仕方がない。
男に手を借りて立ち上がったリリアンが小走りでドリーへ駆け寄った。さっきから血を流しすぎている。ジャッキーの前例もあるから、彼女の身にこれから何があるかわかったものではなかった。
「ドリー、大丈夫?」
ドリーは目を見開いて硬直している。話しかけても答える様子はなかった。仕方がないので口元と目元の血を袖で軽く拭う。
隆弘が歩み寄ってきて、ドリーをのぞき込んだ。
「警察に、救急車も呼ぶよう言っといたから大丈夫だとは思うぜ」
「うん。ありがとう」
ホテルのロビーにもドリーの血は残っていただろうから、それなりの対応はしてくれるはずだ。
女の目と口元から流れる血はまだ止まらない。リリアンが懲りずに服の袖で血を拭うと、隆弘の腕が止めた。
「やめろ。汚れるだけだぜ」
「でも、鼻に入ったりしたら大変だよ」
ドリーの手がピクリと動いた。目の焦点が合い、リリアンを見る。
「ドリー、気がついたの?」
リリアンはドリーの顔をのぞき込んだが、隆弘はリリアンをドリーから引き離すよう、彼女の肩に手を置いた。
ドリーは言葉にも隆弘の態度にも反応を示さず、代わりに彼女の水色の瞳がグルリと裏返る。
「う、うぅううぅうぅヴうぅっ……!」
さっきまで床に座り込んでいた女の身体がくの字に折れ曲がり、音を立てて地面に転がった。
リリアンは慌ててドリーの肩に手を置く。
「ドリーっ! まって! 今救急車がくるから!」
裏返った女の目がまた焦点を結び、リリアンを見る。それでも彼女は無様に床を転げ回り、獣のような悲鳴をあげるだけだった。
「うぅうぅうぅぅっ、うううぅうっ、あぁあああぁあっ、あっ、あああぁぁあ! ああぁあああああっ!」
ビチャビチャと音を立てて赤い飛沫が周囲に飛び散る。ドリーが勢いよく咳き込んだ。
「げぇっ、うっ、うげぇっ、あっ、ああぁあ、ああぁああ……うぅうぅぅぅぅぅ!」
唾液と血の混じったものが礼拝堂の床を汚す。血を吐いていた。止めどなく溢れ出る血と唾液が辺り一面に広がっている。ジャッキーの時と同じだ。
「ドリーっ! まって、あんまり動かないで! とにかく座って!」
ドリーの目がリリアンを見る。歯も口元も真っ赤に染めた女の手がリリアンの服を掴んだ。水色の目が恐怖に揺れている。
「死に、たく、ないっ!」
ドリーの手は血まみれになっていた。当然リリアンの服も赤黒い染みがつく。すがりつく赤い手を、リリアンの手が包み込んだ。
「大丈夫だよ! もう救急車がくるから! 頑張って!」
ドリーの腕の力が強くなる。開いた口からまた血があふれ出す。
「死にたくない! リリアン! アンタ薬のサンプルもってるんでしょう! なんとかならないの!? なんとかして! なんとかしてよ! 死にたくないのっ! 私まだ死にたくないっ!」
リリアンは必死に言葉を探す。彼女はサンプルを持っているだけだ。薬に関してはドリーのほうがよほど詳しいし、データだってドリーが持っている。リリアンにできることはなにもなかった。
ドリーの目がリリアンを見る。縋るような目だった。その目が大きく揺れたかと思うと勢いよく裏返ってしまう。
突然目の前で白目を剥いた友人にリリアンは思わず息を呑む。
ドリーの腕の力が緩んで、女の身体が地面に落ちた。
同時に
「ヴぇぁっ!」
と妙な嗚咽を漏らし、ボタリと大きな血の塊を吐いて動かなくなる。人がひとり死ぬのを、リリアンと隆弘は為す術もなく見ているしかなかったのだ。
リリアンが血まみれの床に力なく座り込んで小さく呟く。
「ドリー……?」
自分で身体が震えているのがわかる。殺されかけたとしても、お互い本音を言い合えなかったとしても、今まで一緒に過ごしてきたのには変わりない。
「ドリー……」
呼びかけても目の前の友人は答えなかった。隆弘がリリアンの肩にそっと手を置く。
「リリアン」
声をかけられてリリアンはゆるゆると男を見上げる。彫刻のように整った顔が言葉を用いず諦めろと言っていた。
彼女が必死に頭を整理している傍らで、何人かの足音が聞こえてくる。
「リリアンさん、隆弘! なにがあった!」
男がリリアンから目を逸らし、声のするほうを見た。
「おっさん……ドリーが死んだ」
「なんだと!? どういうことだ!」
かけつけてきたアーマンの声と事情を説明する隆弘の姿を、リリアンはどこか遠い世界のことのように感じていた。
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