第28話 「手間ぁかけさせやがって」

「え?」


 リリアンがユリの上に倒れた。隆弘の身体が彼女の上に乗っている。脱力して動かない。


「隆弘? どうしたの……?」


 リリアンが男の背中に手を回す。ヌルリと妙な手触りがした。手を確認すると、真っ赤に濡れている。


「あっ……あぁあぁぁあああ……! あぁああぁああぁ……!」


 意味をなさない声が口から漏れる。必死に男の身体を抱きかかえるが隆弘はピクリとも動かなかった。膝から下が床に埋まっているので震える手で引きずり出す。彫刻のような身体がボロボロだ。ほとんどリリアンが錯乱している最中にやったのだろう。

 赤黒いユリの上に男の身体を横たえる。花と同じ色の液体が床を塗らしていった。


「や、やだ……やだ……どうしよう、死んじゃうよ……隆弘が……やだ……!」


 女は目の前の情景を否定するように何度も首を横に振る。

 隆弘の背中の傷から血が流れてきた。腕や足の傷からも血が止まらない。圧迫止血を試みるも裂傷箇所が多すぎる。

 目から涙が止めどなくあふれ出した。


「隆弘ぉ! ねぇ返事してよぉ!」


 コバルトブルーの瞳が見えない。あの瞳なら怖くない。初めて真っ直ぐに見た他人の目だ。

 涙がボロボロとこぼれ落ちる。一瞬目の前がチカッ、と瞬いた。リリアンの手のひらにバチバチと火花が散る。慌てて隆弘の身体から手を離した。


「あっ、あぁっ……!」


 自分の不注意でまた怪我を増やしたら大変だ。男に触れていた手を戒めるように握り、傷が酷くなっていないか確認した。

 傷口の血が止まっている。それどころか傷が消えていた。


「えっ……」


 涙が妙な粘度のものに変わる。鼻からもなにか流れてきた。拭ってみると赤い血だ。

 隆弘の他の怪我にも振れてみる。またバチリと音がして傷が消えた。かわりにリリアンの喉の奥から血がこみあげてくる。男の身体に赤黒い血がかかった。


「ヒーリング……? も、できるの……?」


 隆弘の身体が汚れたことに泣きそうだ。自分の吐いた血を拭って傷を探し、手をあてる。スパーク音がするたびリリアンの身体のどこかから血が噴き出した。かわりに男の傷が治っていく。

 涙のように血を流し、女は大きくしゃくり上げた。


「これで、これで治るから……! ごめん、ごめんね、隆弘……!」


 喉の奥からこみあげてきたものを吐き出す。赤黒い固まりが出てきた。生レバーかなにかのようだ。

 自分の吐き出した血を拭って隆弘の身体を確認すると、もう怪我は見当たらない。

 リリアンがもう一度大きくしゃくりあげる。目と口から血を吐き出した。口の端についた血を拭い、彼女はフラフラと立ち上がる。男は呼吸もしているし、顔色も良い。救急車を呼ぶに越したことはないが、しばらくは大丈夫だろう。

 隆弘は目を覚まさない。彼の胸が上下していることに酷く安心する自分がいた。


「あんな奴のせいで、私……隆弘の気持ちを踏みにじったんだ……」


 彼がこうなったのはリリアンのせいだ。そしてルーベンのせいだ。

 リリアンがあの男に騙されるようなバカでなければ、あるいはあの男がもう少しマトモな人間なら、隆弘はこうして傷つくことはなかった。

 女が唇を噛み締め、絞り出すように言葉を吐く。


「あいつだけは……絶対、許さない!」


 周囲を見回したリリアンは階段を見つけ、すぐに駆け上る。ルーベンはここをのぼって地上に出たはずだ。しばらくすると開け放たれた扉があった。目の前に温室があって、駐車場に車が停まっている。以前来たとき納屋だと思っていた扉はどうやら地下室の出入り口だったらしい。

 黒い車の前に、ルーベンと男5人が立っていた。赤髪の中年男がイライラした様子で何事か言っている。


「いいから早く車を出してくれ。人体を変化させる成分量についてはわかったんだ。リリアン・マクニールの変りならいくらでも用意できる」


「困るぜ。アンタがすぐに使えるっていうからわざわざあの女攫ってきたってのに! 侵入者に5人もやられてるんだ。これじゃあこっちのワリに合わない」


「だからアレの変りならすぐに用意できると言っているんだ! どうせならおまえらに従順な人間のほうがいいだろう?」


「この前みたいにすぐ死んだら困るぜ」


「それなら大丈夫だ。リリアン・マクニールは力を使っても死ななかった。まあ。多用すればどういうことになるかわからないが、そこは今後調査していけばいい」


 女の腹にふつふつと怒りがこみあげてくる。

 隆弘があんなに傷ついているのになんでこいつらはこんな会話をしているのだろう。なんでこいつらは目をあけて立って、話をしているのに、隆弘は目を瞑って横たわって、言葉を発していないのだろう。

 隆弘があんなふうになったのはリリアンのせいだ。

 だが、リリアンが隆弘を傷つけるように仕向けたのはルーベン・バルボで、周りの男たちはルーベンの仲間だ。リリアンを攫った奴らだ。

 奴らが隆弘の目の前で彼女を攫ったりしなければ、隆弘はこんなところに単身乗り込んできて怪我をすることもなかった。


――絶対に、許さない!


「ルーベン・バルボォオオオッ!」


 男たちが振り向き、リリアンに気づく。ルーベンの片眉が跳ね上がった。


「リリアン……西野隆弘はどうした?」


 女は答えない。頭に血がのぼって感情をうまく言語化できなかった。言葉にするよりよほど効率の良い表し方を、彼女は知っている。

 リリアンが右手を前に突き出し、拳を握る。それだけで男達の周囲にあった空気が重みを増した。全員が突然のことにふらつき、腰を低くする。

 女の首筋に暖かい液体が伝った。おそらく耳から血が出たのだろう。どうしてなのかはわからないが鼓膜が傷ついたのかも知れない。

 赤毛がリリアンを見て忌々しげに舌打ちをした。


「リリアン、貴様っ!」

 

 女は黙ったまま、握った拳を弾くように広げる。火の玉が空中に現れて庭に積もった雪を勢いよく溶かした。煙が上がり、水蒸気によって男たちが咳き込む。

 男の1人がリリアンを指差して怒鳴った。


「撃ち殺せ! このままだとこっちがやられる!」


 霧の中で男達が銃を発砲する。リリアンの姿は見えないはずなので当てずっぽうだろう。彼らのほうに突き出した手を女が横に動かす。

 銃弾すべてが壁に弾かれたような音をたて地面に落ちた。

 身体の動きがあったほうが明確に力を使える。力を使った後の結果をイメージしやすいから。

 隆弘に対してさんざん攻撃したときにそう悟ったリリアンは、手の動きだけで敵を追い詰めていく。

 彼女が人差し指で空を示すと、2メートルほど上に青白い火花が現れた。それが集まって固まって、男たちの頭上へ移動する。何人かは逃げようとして尻もちをついた。上から押しつけられているような感覚がするはずだ。隆弘もなかなか動けなかったのに、ルーベンやほかの連中が逃げ出せるはずがない。

 リリアンはスパーク音を響かせる電気の球を車に向って叩きつけた。雷が落ちたような轟音と共に車が火を噴く。火花がガソリンに引火したのか腹に響く音がした。男たちが全員吹き飛ばされ、雪の上に投げ出される。

 鼻から出てきた血を乱暴に拭って女がルーベンに近づく。

 赤髪は上半身を起こし、無様に身体を引きずった。


「おい、リリアン、やめないか……血が、出てるぞ?」


「それがなに?」


 女が吐き捨てる。

 口からも血があふれ出したので言葉のついでに雪の上へ吐き出した。


「なんで隆弘が気絶してるのに、あんたが動いて、私の目をみて話してるの?」


 ルーベンの顔が引きつる。彼はまた這いずってリリアンと距離を取った。そのたび女が一歩間合いを詰める。


「そっ、それ以上力を使えば死んでしまうだろうが! 怖くないのか? さっきはあんなに泣いていただろう!」


「笑ったよね。無様だな、って」


「あ……」


 数メートル先に吹っ飛んでいた男が小さく呻き、ゆっくりと動いた。リリアンが右手をかざすと


「ぐぅっ!」


 と低く呻いてまた地面に縫い付けられる。また鼻血が出たが、面倒なので彼女はもう拭うのをやめることにした。

 赤髪がまた叫く。


「わっ、私を殺す気か!? 君の身体はこれからどうなるかわからないんだ! わ、私なら、君の身体になにか変化があっても対応できるぞ? その前に、君は今力を使うのをやめなければ、すぐに死んでしまうかも知れない! ばかなことはやめるんだ!」


 女の眉がピクリと跳ね上がる。彼女が右手をルーベンにかざすと、男はさらに必死に口を動かした。


「そ、そうだ! 一緒に来ればいい! 私に協力して、彼らの指示に従っていれば、君になにかあってもすぐに対応できるぞ! 悪い話ではないはずだ! 君だって死にたくはないだろう?」


「死にたくはないよ」


 ルーベンが笑った。リリアンの表情筋はピクリとも動かない。


「でも、あんたが生きてるくらいだったら、あんたを殺して私も死ぬ」


 女が赤髪に向って手をかざし、睨みつける。彼女の視界が一瞬白く輝いた。


「隆弘をあんなに傷つけたのは私とあんただ! 絶っ対、許さないっ!」


「やっ、やめろリリア……ぐっ、ぎゃっ!」


 男が雪の中に押しつけられる。肺の中の空気を吐き出した拍子に笑い袋のような音が漏れた。女は無表情のまま、かざした手を握りしめて赤髪の身体へ更なる重圧を与える。

 男の手があり得ない方向に曲がり、木の枝が折れる音がした。


「ぎゃっ、ぎゃぁあぁあっ! うぎゃぁああぁあっ!」


「うるさいから、黙ってくれる?」


「ぐぎっ……」


 リリアンが人差し指をツイ、と動かすとルーベンの顔が雪の中に押しつけられた。女の右目から血が流れてポタポタと白い雪の上に落ちる。

 リリアンの足がもつれた。身体がグラリと傾き雪の上に左膝をつく。血を流しすぎたのだろうか。呼吸が苦しい。口の中に溢れる血を吐き捨てた。

 とっとと目の前の男を潰してしまおう。それさえできれば死んでしまったってかまわない。

 女の頭上に火の玉が生まれた。ルーベンはすでに動かない。気絶したのか、死んだのか。確認するのも面倒なのでひと思いに叩き潰してしまおうと、右手を動かす。

 突然背後から声が聞こえた。


「やめろリリアン」


 聞き覚えのある声だ。頭上に生み出したはずの炎がかき消える。彼女の背中に暖かい壁が触れた。


「それ以上はお前が危ねぇ」


 鍛えられた腕がリリアンの肩を抱き、腰を引き寄せる。頬のすぐ横に端正な顔が現れた。少し疲れているようだ。


「隆、弘……目が……醒めたの……?」


「ああ。傷が治っていつまでも寝てるほどヤワじゃねぇからな」


 肩を抱いていた手が女の頬に触れる。彼女は慌てて自分の顔を隠した。


「顔、見ないで!」


「なんで」


「今、血だらけで……鼻血とかでて、き、汚いから……」


 隆弘が声を上げて笑う。


「汚くなんかねぇよ。むしろ血塗れなんてちょっと刺激的でセクシーなくらいだぜ?」


 リリアンの肩が大きく揺れる。目頭が熱くなって涙が出た。


「ばっ、ばっかじゃないのっ……」


「ああ。そうかもな」


 隆弘が喋っている。立って動いている。それだけでリリアンはとても嬉しい。

 隆弘がまた彼女の頬を撫でた。


「おい、こんなとこさっさと出ようぜ、リリアン」


 女は咄嗟に振り向こうと思ってやめる。男の顔を見るよりも、自分の顔を隠すほうが重要だった。


「だって、こいつらほっけないよ!」


「もう気絶してんじゃねぇか。こんなもんあとは警察にでもまかしときゃいいんだよ」


 遠くからサイレンの音が聞こえてくる。隆弘がそら、と声を上げた。


「公務員様が重役出勤してきたぜ。こうなったら逃げられやしねぇんだ。もういいだろ」


 言うやいなや彼は強引に女の身体を横抱きにする。彼女は慌てて足をバタつかせた。


「ちょっと、隆弘!」


「今はてめぇのほうが重症みてぇだぞ。いいから黙って運ばれろよ」


「うー」


 リリアンがうなり声をあげると隆弘が笑う。少し口を尖らせた女が、目を伏せて男の服を掴んだ。


「ねぇ……ごめんね……」


「なんで」


「私、すごく、どうしようもない理由で……あんな奴のために、隆弘の気持ちを踏みにじったんだ……」


「気にすんじゃねぇよ」


「それと、すっごい怪我させた」


「女に殴られんのは慣れてる。まあ、こんなにやられたのは初めてだが……喧嘩だと思えばなんてことはねぇや。だれかさんのお陰で治ったしな」


 リリアンが隆弘の胸に顔を埋める。心臓の音がした。


「ところでリリアン」


「……なに?」


 頭がぼんやりしている。裾の破けた子猫のシャツに顔を埋めたまま女はもごもごと口を開いた。

 隆弘は一瞬言葉に迷ったようで、少し間をあけてから喋りだす。


「お前、借家が見つからねぇなら一緒に住まねぇか? 今なら安くしとくぜ」


「うん」


「早いなおい」


 いいのかよ、と男が少し驚いた声をあげる。自分で提案しておいて戸惑っていた。

 リリアンは顔を隠したまま笑う。


「でも、今頭がぼんやりしててよくわかんないから、落ち着いたあとにもっとちゃんと言って欲しいな」


「おまえさっきうんっていったろ」


「そうだけど。もっとちゃんと言って欲しいな」


 男が軽いため息をつく。


「手間ぁかけさせやがって」


「ごめんね」


 謝罪したものの、彼女の声は弾んでいた。隆弘がもう一度ため息をつく。


「俺は自分から告ったことなんかねぇんだぜ。それを3回もリテイクくらわせるなんざぁ、良い度胸じゃねぇか」


「次は、なにいわれてもうんって言うよ」


「絶対だぞ」


 サイレンの音が近づいてくる。女は笑顔で、それこそうん、と小さく頷いてみせた。

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