第7話 「怖がらなくても大丈夫、僕がなんとかしてあげるから」

 住宅街のどの家もフロントガーデンにプリムラやストック、パンジーが植えられていた。それが色づいた街路樹とともに美しい風景を生み出している。調和のとれた町並みは一枚の絵画を思わせた。英国の人間は景観にとても敏感だ。リリアンの住む借家も例外ではない。赤い屋根の家はフロントガーデンに紫色のエリカや黄色いユリオプスデージー、赤と白のストックが咲き誇っていた。ディンゴドラが緑の絨毯を敷き、ベアグラスが風に揺れている。

 隆弘が感心したような声をあげた。


「見事なもんだな。お前が手入れしてんのか?」


「まあちょっとは手入れしてるけど、元からこんな感じだったよ。大家さんがガーデニング好きなんじゃないかな」


 リリアンは家の鍵を取り出そうとバッグに手をいれる。いつもの場所に鍵がないので眉をひそめた。

 隣にいた隆弘が彼女の異変に気づく。


「どうした?」


「鍵どっかいっちゃった」


「落したのか?」


「んー、いつもここにいれっぱだからそんなことないと思うんだけど……今日鍵しめたのドリーだし……落したんならいつ落としたんだか」


「連れのほうは帰ってねぇのか?」


「自転車ないからまだみたい」


 隆弘の質問に答えつつ、女は飛び石と砂利で作られた道を抜けて玄関まで辿り着く。未練がましくバッグの中を漁り、玄関のドアに視線をやったリリアンが動きをとめる。


「あれ?」


 隆弘がリリアンの横に立った。


「どうした?」


「鍵あいてるっぽい」


 勘違いかもしれないと思い、試しにドアを引いてみる。あっけないくらい簡単に開いた。

 リリアンの横に立っていた隆弘が、女を手で制して家の中をのぞき込む。


「……相方は帰ってねぇんだろ?」


 リリアンは男に従い1歩さがった。


「うん。自転車に乗ってったの見たもん。駐輪場に自転車ないから帰ってないよ」


「警察に連絡したほうがいいかもな」


「誰かいる感じ?」


「わからねぇな。ちょっと邪魔するぜ」


「あっ、まってよ! 私もいくよ!」


 隆弘が家の中に入っていったので女もあわてて後を追う。リビングには誰もいないし、誰かいた形跡もない。周囲を見渡す男の横でリリアンは首をかしげた。


「鍵、かけわすれただけなのかな……?」


「だといいがな」


 隆弘がリビングからダイニングルームをのぞき込み、人の有無を確認している。リリアンは周囲を見回して、2階を見に行くことにした。


「ちょっと自分の部屋みてくるね」


 隆弘が眉をひそめる。


「おい、誰かいたらどうすんだ。1階全部確認したら行くからちょっと待ってろ」


「大丈夫だよー」


 階段を上がって右手側の一番奥にリリアンの部屋がある。手前にあるドリーの部屋も、リリアンの部屋も、扉が少し開いていた。女は階段に視線を移して西野隆弘を呼びにいこうか悩む。結局、隆弘もすぐにこちらに来るだろうと判断した。部屋に誰もいなければ一安心なのだ。

 半開きのドアに背中をピッタリつけると、身を隠すようにして部屋の様子を覗く。


――誰かいた。


「……っ!!」


 リリアンが扉の陰で身を竦ませる。極力音を立てないようにゆっくりと深呼吸した。心臓が大きく脈打っている。顔が熱いけれど頭の芯は冷えきっていた。人影は曇り空のせいで詳細はよく見えない。とにかく速やかに家から出て警察に連絡したほうがいいだろう。

 今日は厄日だ。相手はひとりだろうか。リビングに人影はなかったから仲間がいるとしたら2階。ドリーの部屋か浴室だ。とにかく音を立てないように、だれかと鉢合わせしたりしないように、速やかに1階へ下りなければならない。


――くそ、物取りなら物取りらしく部屋荒らしてくれればこっちだって入ってこなかったのに。


 別にリリアンが警察に通報している間に逃亡されたとしてもかまわない。鉢合わせて襲い掛かってこられるよりはるかにマシだ。


――自衛がなってない!


 彼女は窃盗被害者になってしまった自分を棚にあげて不法侵入者に不満を抱いた。なにかが間違っているような気がする。

 もう一度深呼吸してゆっくりと自室から遠ざかった。1歩あるくごとに背後を振り返っていたが、彼女が3歩目を踏み出したところで背後から声がかかる。


「リリアン・マクニール……さん?」


 若い男の声だ。リリアンが肩をゆらして立ち止まる。振り向くべきか叫ぶべきか一瞬迷った。その間に背後の男がさらに話しかけてくる。


「まって! 僕だよ……ジャッキー・ボーモントだ!」


 言われた名前にリリアンが思わず振り返った。


「は?」


 女と見紛う線の細い男が立っている。背丈はリリアンと同じくらい。ふわふわした髪が顔のまわりで踊っていた。昨日間近で見た顔だから見間違うはずがない。ジャッキー・ボーモントだ。しかし彼は薬物中毒で病院にいるはずだ。仮に昨日の騒動が薬物を無理やり服用させられた結果なのだとしても、事情聴取はまぬがれないだろう。そもそも心肺停止状態からこんなに早く退院できるまで回復するはずがない。病院から脱走したのだろう。後ろ暗いところがなければ脱走などしない。つまり昨日ジャッキーは自主的に薬物を服用したのだ。

 リリアンが警戒心を露わにして癖毛を睨みつけていると、ジャッキー・ボーモントは頬を赤く染めて口元に穏やかな笑みを浮かべた。


「き、昨日は助けてくれてありがとう! 綺麗で頭もいい君に好いて貰えるなんて僕はとってもうれしいよ」


「いや、当然のことをしたまでで、好いてるとかそんなんじゃないから」


 ジャッキーが笑みを深める。周囲の空気が華やぐような可愛らしい笑顔だ。


「大丈夫! 僕はちゃんとわかってるよ! 好きじゃない人間に人工呼吸なんかしないものね!」


 リリアンが眉をひそめた。


「命ナメんな?」


「僕も前から君のこと綺麗だなって思ってたんだ! 光栄だよ!」


――ダメだ。人の話聞いてねぇ。


 こうなると多少話の通じる西野隆弘のほうがマシだったとさえ思える。経済力では五分くらいだろうし顔もタイプが違うだけで同じくらいのレベルだから、隆弘に軍配があがるのは『話が少し通じる』という一点のみだが。今日リリアンに絡んでくるのは残念な男ばかりだ。隆弘はファッションセンスが息をしていなかったが、ジャッキー・ボーモントは薬の影響で脳みそが壊死しているようだ。そのくらい会話が噛み合わない。彼はすっかり忘れているようだが、ジャッキーはリリアンの部屋に不法侵入している男だ。会話をするのはこれが2度目で、1度目は彼の意識がもうろうとしていた昨日の夜。当然家の合い鍵など持っているはずもない。決定打は先程の思い込みが激しいにもほどがある発言だ。間違いなくストーカー。その上薬で頭が壊れている。つまり彼は一分の隙もなく完全に犯罪者なのだ。

 ヤク中ストーカーがニコニコと笑いながら話しかけてくる。


「僕も君を素敵だと思ってるよ! だから、僕が君を守ってあげる!」


「生憎他人に守られなきゃいけないほどアグレッシブな人生は送ってないんでね」


「君を守れるなんてとっても光栄だよ!」


「聞けよ」


 リリアンの身体と頭が疲れを訴えている。会話の通じない相手とのコミュニケーションがこんなにストレスになるとは予想外だ。

 ジャッキーは明るい様子で話しかけてくる。


「僕が頼んであげたから、もう安心だよ! 一緒にいこう、リリアン!」


 言葉に主語がない。彼が誰に何を頼んでなにがもう安心だからどこに一緒にいって欲しいのかリリアンにはまったく解らなかった。解りたくもない。

 男が1歩自分に近づいてきたので彼女は思わず肩を振わせた。


「やめて! くるな!」


 女の悲鳴に、ヤク中が首を傾げる。


「リリアン、どうしたの? まだ不安?」


 リリアンは1歩ジャッキーから後退して首を何度も横に振った。


「言ってる意味がわからない!」


 ヤク中が笑う。


「ああ、僕の説明が足りなかったね! 薬のサンプルをリリアンが持ってくれば安全を保証するって、約束してくれたんだよ!」


「く、くすり?」


 そうだよ、とジャッキーが頷く。


「ネズミが空を飛んだときの薬だよ」


 リリアンの肩がビクリと震えた。


――ジャッキーもネズミのことを知っている。

 あの男ふたりとジャッキーはグルなのだろうか。

 ジャッキーがあのふたりに情報を流した?

 しかしジャッキー・ボーモントは専攻が違う。バルボ教授の研究室にくる必要性がない。

 たまたま通りかかったのか、それとも。


 リリアンが身体を硬直させたままジャッキーを凝視していると、ヤク中は笑ったまま口を開く。


「あれはすばらしい薬だね! 生物の進化を促進させる薬だ! あの薬に携わっていた君は、是非とも保護されるべきだと、僕は思うよ!」


 男がリリアンとの距離を詰めてくる。女はたまらず1歩下がった。細い指先が伸びてくる。


「怖がらなくても大丈夫、僕がなんとかしてあげるから」


 冗談じゃない。知られている。

 情報が、どこからか漏れている。

 生物の進化を促進させる薬。ネズミが空を飛ぶ薬。

 どうしてそんな話になったのか。

 ルーベンの部屋は荒らされていた。

 リリアンは警察の調査についてはよく知らないけれど、部屋が物色されていたのは確かだ。

 なにか盗まれていたとしたら。


 眉をひそめたリリアンがジャッキーを睨みつける。


「っ、まさか、アンタらが……クラブで飲んだのはっ!」


 男が頷く。


「そうだよ。データから復元した薬だ! まだ変化はないけど、すばらしい結果になってるはずだよ! 僕はきっと新しい力を手に入れられる!」


 リリアンはゆるゆると首を横に振った。


「信じられない……自分の身体で、人体実験したの……?」


 てっきりジャッキーが無理やりドラッグを飲まされたのだと思っていたが、もしかしたらジャッキーのほうがミックたちを騙して薬を飲ませたのかも知れない。

 男は相変わらず笑ってリリアンとの距離を詰めてくる。


「人体実験なんかじゃないよ。新しい自分になるための試練さ!」


 細い指が肩に触れたのを感じて、リリアンが思わず叫ぶ。


「こっ、こないで!」


 バタン、と1階から大きな音がする。ついで階段を上る音と西野隆弘の声が聞こえてきた。


「リリアン! どうした!」


 ジャッキーの手がリリアンから離れる。駆け上がってきた隆弘が華奢な男の姿を見て驚いた声を上げる。


「ジャッキー……!?」


 リリアンを見ていたヤク中の顔が、みるみるうちに怒りに歪んでいった。隆弘は知り合いだといっていたが、この分ではあまり友好的な知り合いではなさそうだ。

 ジャッキーがツバを飛ばして叫ぶ。


「隆弘! また君は僕の邪魔をするの!? リリアンに手を出すなっ!」


「今も昔もテメェのジャマした覚えはねぇよ」


「黙れ! 君はいつだってそうやって僕の邪魔をするんだ!」


 ヤク中が男に夢中になっている間に、リリアンはそっとジャッキーから距離を取った。隆弘は彼女の行動に気づいているのか、ジャッキー・ボーモントの神経を逆撫でするようにあからさまな嘲笑を浮かべてみせる。


「なんだ、ユニオンでコテンパンにやられたのまだ根に持ってやがんのか? 2ヶ月も前の話だぜ?」


 ジャッキーが苛立った様子で床を蹴った。


「君はいつもそうだ! いつも自分が正しくて自分が強いって疑わない!」


「事実だろうが」


 ヤク中の顔がさらに赤くなった。せっかく白かった肌が今や酔いつぶれたように真っ赤だ。


「なんて傲慢で冷徹で、残酷なんだ! 世界が自分を中心に回ってるとでも思ってるんじゃないのか!?」


「世界が俺以外の誰かを中心にして回れるはずもねぇだろ」


 またジャッキーが苛立った様子で床を蹴る。


「うるさいうるさい! だから君は嫌いなんだ! リリアンに近づくな! 彼女も迷惑してるんだ!」


「そうは見えねぇな」


「なんて傲慢な男なんだ!」


 リリアンは心の底からどっちもどっちだと思った。

 ジャッキーが下唇を噛んで怒りに身体を震わせる。


「君はいつだってそうなんだ! 僕の邪魔ばっかりする! 今回ばかりは君の好き勝手にはさせないからな!」


 カチャリと金属音がした。ヤク中の手に黒い固まりがある。

 拳銃だ。

 リリアンは自分の口元がひきつるのを感じた。銃口をまっすぐに向けられた隆弘は平然とした顔をしている。


「本物か?」


 ジャッキーが小馬鹿にしたように笑った。


「すぐにわかるさ」


 この態度からして本物のようだ。どうしてこう物騒なことばかりが続くのか。そもそも一介の学生であるジャッキーが拳銃などというものをどうやって手に入れたのだろう。

 撃鉄を起こす音がした。リリアンが思わず声を荒げる。


「西野っ!」


 隆弘が床を蹴って左へ飛び退いた。

 パァン、と風船の割れたような音が響く。廊下から乾いた音がした。弾丸がめり込んだようだ。

 隆弘の身体には当たらなかったようで、男の身体に目立った外傷はない。

 すぐさま1階から荒々しい音が聞こえた。


「なんの騒ぎ!?」


 どうやら同居人が帰ってきたようだ。階段を上がる音がして、ドリーが顔を覗かせる。


「リリアン! どうしたの!?」


 ドリーの声から逃げるようにしてジャッキーがリリアンの部屋に逃げ込む。隆弘が追いかけるも、窓に手をかけたジャッキーが飛び降りるほうが早かった。

 隆弘も窓に足をかける。


「待ちやがれテメェ!」


リリアンはとっさにかけよって男の身体にすがりついた。


「やめて! あぶない! お願いだから!」


 庭からヤク中の声が聞こえてくる。


「覚えておいて! 薬のサンプルを持ってきてくれれば、絶対に安全を保証する! いうとおりにしてくれたら、僕が手出しさせないから!」


 リリアンが窓の下を見ると、芝生の上に着地したジャッキーが走っていくのが見えた。華奢な身体のくせによく骨が折れなかったものだ。

 とにかく、拳銃を持った凶悪犯が家から離れていくのを確認し、彼女は安堵の息をつく。

 警察に通報したほうがいいだろう。リリアンが肩にかけたバッグから携帯電話を取りだした。女は手が震えていることを自覚しながら、手同様震えた声で


「警察に、通報しよう」


 と言った。

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