第22話 「顔から火が出るかと思った」

 次の日は朝から雪が降っていた。どんよりと立ちこめた灰色の空から白い綿がチラチラと舞い降りてくる。雪がすべての音を吸収していた。

 耳の痛くなるような静寂と冷たさの中、リリアンは早くからカレッジへ向った。今後住む場所について相談するためだ。大家に立ち退きを宣言されたからといって隆弘の家に居着くわけにもいくまい。隆弘はそれでよくても、リリアンがよくないだろう。

 残された隆弘は日課通り図書館へ向うことにした。今日は純粋に政治学の勉強なので『ハウス』の図書館で事足りる。リリアンより少し遅れて家を出た彼は静まり帰った図書館で本を読みふけった。

 しばらくして腹が減ったのに気がつく。正午を過ぎていたので昼食を取ることにした。『ハウス』の近くにカフェもあるが、少し南下すれば中華料理屋がある。真っ二つにカットされたパイナップルの中に酢豚が突っ込まれていたときはさすがに口元が引きつったが、それも含めてまあまあ面白い店だ。

 格子窓のついた赤煉瓦の建物も、ロード・オブ・ザ・リングに出てきそうな石積みの外壁も雪をかぶっていた。遠くにはいくつか城と見紛う尖塔が見える。セント・アデレートの大通りは車が通った跡だけが除雪されていた。そのまま進むと赤い看板のアリスショップがある。外壁はくたびれたオレンジ色なのに窓枠や看板は鮮やかな赤。雪をかぶって寒そうな時計ウサギの立て看板が目を引く。最近では海外のアリス展でよく出品を頼まれるらしい。

 チャシャ猫のぬいぐるみがあったら買うと言っておいたのだが入荷してくれただろうか。

 隆弘が赤い窓枠の中をのぞき込む。チャシャ猫でなくとも時計ウサギあたりのぬいぐるみがあったら欲しい。昼食をとる前に一度見ていこうか。悩む彼の背後から、明るい声がかかった。


「やっほー! たかひろー!」


 リリアンの声だ。驚いて振り返ると、金髪の女が向かい側の歩道に立っている。満面の笑みで手を振っていた。赤い傘に少し雪が積もっている。長い金色の睫毛に覆われた瞳がエメラルドのようにキラキラと光っていた。

 今までみたこともないくらい明るく笑うリリアンを見て、男は自分の頭が真っ白になるのを感じる。


「隆弘今帰りー? ちょっと荷造り手伝ってよー!」


 顔に血液が集まってくるのがわかった。湯気が出そうだ。


 なんだ。なんだこれは。

 なぜこんなに顔が熱いのだろう。

 あの女、さっきなんと言っただろうか。

 隆弘と言っただろうか。


――自分の名前を、呼んだだろうか。


 気がついたら彼は、脇目もふらず逃げるように走り出していた。昼食をとる予定だった中華料理屋を通り過ぎ、警察署の前に辿り着く。白地の看板には青い文字で『テムズバレーポリス』と書かれていた。その下にくたびれたコートの男が立っている。隆弘の顔見知りである刑事、アーマン・ニコルだ。2人組の部下と少し話してから、彼らを街中へ送り出していた。

 まだ顔の熱い隆弘は走ってきた勢いをそのままに、知り合いめがけて勢いよくラリアットを食らわせる。

 当然ながら、アーマンは大きなうめき声をあげた。


「うぐぅっ!?」


 中年男の苦しげなリアクションを無視して、隆弘は男を警察署の中に引きずり込んだ。


「おっさん! ちょっと付き合え!」


 付き合う場所が警察署というのも妙だし、そもそも相手は勤務中の公務員である。はいそうですかと素直に学生の話を聞いてくれる道理などない。

 アーマンはラリアットを受けた首をしきりに撫でながらひとつため息をつく。


「……まあ落ち着いて、ソファにでも座れ」


 ここで隆弘は、周りの人間が自分に甘いということに気がついた。彼が大人しく深緑色のソファに腰かけると、アーマンが紙コップに入ったコーヒーを持ってくる。一口飲んでみて隆弘は眉をひそめた。


「まずい」


 アーマンが笑う。


「警察のコーヒーだ。話のネタになるぞ」


「せめて紅茶にしろよ」


「生憎まずいコーヒーは許せるが、まずい紅茶は許せないって連中が多くてな」


 隆弘がもう一口コーヒーを飲む。コーヒーのまずさと仕事を邪魔してしまった申し訳なさで顔をしかめた。


「仕事中に悪かったな」


「かまわん。今回は随分危ない目にあわせたしな。で、どうした?」


「別に事件に関係することじゃねぇぞ」


「そんなもんお前の顔を見ればわかる」


 隆弘の言葉は一蹴されてしまった。もう一度顔をしかめた彼はアーマンの目をまっすぐに見つめる。小さい頃からよく見ていた灰色の目だ。すべてを見透かすような、透明に近いアッシュグレー。隠し事をする気がなくなる。

 照れくささが最高潮に達した隆弘が、まだ赤い頬を軽く掻いた。


「……いや、さっき、リリアンに会ってよ」


「そうか。彼女、次の借家は決まったのか?」


「今日相談しに言った。カレッジの空いてる部屋使わせてもらえるんじゃねぇのか」


「そうか。彼女にも大変な思いをさせたな」


「別に警察のせいじゃねぇだろ」


 隆弘がもう一度コーヒーを飲む。少し熱が取れてまずさが増した。美味ければ飲みやすくなったと言いたいところだが、この味ではそんな気にはなれない。

 アーマンは彼と向かい合わせに座って言葉を待っていた。急かしたりする様子はなく、周囲も事情聴取か相談だと思っているのか咎める様子はない。実際には業務とまったく関係ない話をしている。

 隆弘が先程のことを思い出すと、熱の引いてきた顔にまた血が集まってきた。


「……名前を呼ばれた」


 アーマンが首を傾げる。隆弘はまたラリアットをくらわせてやろうと思った。それをすると今度こそ目の前の男は首が折れるかもしれない。ラリアットの代わりに自分の頭を抱えた彼は、うなだれて力なく呟いた。


「……顔から……火が出るかと思った……」


 向かい側からの反応がない。隆弘がふと顔をあげると、ポカンと口をあけたアーマンが彼を凝視していた。

 本気でラリアット2発目を考えた男の肩を、満面の笑みでアーマンが叩く。


「……そうか! よかった! 友だち付き合いがないからお前の父さんも俺も心配してたんだ! よかったよ!」


 それではまるで隆弘のコミュニケーション能力に難があるようではないか。


「別に、他人に避けられてるわけじゃねぇんだぜ」


 一年の頃はカレッジでも街中でもよく話しかけられた。今でも女はひっきりなしに寄ってくる。うっとうしいくらいだ。ただ隆弘は、そういうものに自分の時間が拘束されるのを好まない。寄ってくる人間の半分は彼の出生か容姿か努力のおこぼれにあずかろうとするばかりだった。残りの半分も妬みやら憧憬やら妙な感情で隆弘を縛り付けようとした。

 その中から、本当に大切にしたいと思う人間を見つけ出すのはとても大変だ。隆弘からなにかを引き出そうとしている連中をすべて拒絶していったら、いつのまにか周りとは非常に浅い繋がりだけになっていた。

 この状態を後悔したことはない。

 なにかを期待され、それに応えなければ離れていくというのなら勝手にすればいい。手を引かなければ歩けない人間と一緒にいるなんて願い下げだ。引っ張っていって欲しいと縋り付かれてもうっとしいだけだから、彼はリリアンが好きだった。彼女ならきっと手を引かなくても隣を歩いてくれると思ったからだ。自分と同じ目線でものを見てくれる。自分と同じくらい努力して、同じような道を歩いているのだと思ったから。

 隆弘が憮然とした表情を浮かべていると、アーマンが声をあげて笑った。


「お前はわりと不器用なくせに、プライドが高いからなぁ……久しぶりに友だちができてどうしていいかわからないんだろう?」


 正確には失恋相手だが、今回声をかけてくれた態度でリリアンが隆弘を信用してくれているというのはわかる。

 彼自身が名前で呼べと言い続けたはいいものの、いざ呼ばれると恥ずかしいというのは――慣れていないからだということも否定しない。

 どうしていいかわからないから思わず逃げてきたというのも否定しない。

 嫌なわけではない。嬉しいのだ。嬉しいからどういう顔をして対応するのが正解かわからない。顔がニヤけてしまったり、赤くなったままもとにもどらなくなってしまったら、すこぶるカッコ悪いではないか。せめて涼しい顔で対応したいと思うのは仕方のないことだと隆弘は思う。

 アーマンは灰色の瞳を優しげに細めて隆弘を見た。子供が初めて歩いたのを見つめるような目だった。気恥ずかしさが爆発しそうになった隆弘は、今度こそ2発目のラリアットをくらわせてやろうかと腕に力を込める。

 アーマンが彼の肩を一度だけバシッ、と強く叩いた。


「こっちが恥ずかしくなるくらいの勢いで名前を呼ばれたのならもう一押しだ! ガンガンいけ、隆弘!」


 刑事の言葉を聞いているうち奇声を発したくなった隆弘は、代わりに頭を抱えてうなだれた。また顔が熱くなってくる。

 同時に、名前を呼ばれたのに逃げ出してしまってリリアンはどう思ったのだろうと不安になった。これで嫌われたら取り返しがつかない。まかりまちがってまたファミリーネームで呼ばれ出したら立ち直れないかもしれない。

 あまりに女々しい自分の思考回路に隆弘は軽い目眩を覚える。

 男ならもっと堂々としているべきだ。名前を呼ばれたくらいで赤くなって逃げ出して、あげくウジウジ後悔するなど、カッコ悪いにもほどがある。

 かといって今から街に戻ってリリアンを見つけ出し、そしらぬ顔で「よう」と声をかけるというのも、それはそれでカッコ悪い。

 というか、逃げ出した時点でどんな対応をとってもカッコ悪いことには変わりないのだ。世界の終わりがやってきた気分だ。

 隆弘はまた頭を抱えてうなだれた。

 アーマンは落ち込む隆弘を暖かい目で見守っている。それすらも隆弘には恥ずかしかった。もう自分が呼吸していることすら恥ずかしい。

アーマンがソファから立ち上がる。


「コーヒー、もう少し飲むか?」


 彼の問いに隆弘は


「いや、いらねぇ」


 と答えた。

 どうやら刑事のほうはまずいコーヒーをご所望らしく、紙コップのコーヒーをひとつ持ってきてまたソファに座る。コーヒーを飲んで眉をひそめるアーマンの横に、若い刑事が歩み寄ってきた。


「アーマンさん、今大丈夫ですか」


「かまわん。なんだ」


 若い刑事がチラリと隆弘を見る。部外者の前では言いにくい内容なのだろうか。気を利かせて席を立とうとした青年を、アーマンの手が制した。


「大丈夫だ。なにかわかったのか?」


 若い刑事が少し逡巡したあと、小声でアーマンに報告する。


三合会トライアドが、例の学生2人と協力関係にあったことがわかりました」


 アーマンの目つきが鋭くなる。隆弘の眉も知らずピクリと跳ね上がった。三合会は香港を拠点とする犯罪組織の総称だ。各国の華人社会にまで影響力のある世界規模の組織と言われている。

 アーマンが若い刑事に無言で続きを促すと、彼は先程と同じトーンで言葉を続けた。


「現在構成員から詳しい話を聞いています。証拠もありますから、確実に引っ張れますよ。ことによっては学生や関係者5名の変死にも関わっているかもしれない」


 そうか、とひとつ頷いてアーマンが隆弘を見る。


「向こうも警察に目をつけられれば下手な動きはできないだろう。逃げたことを謝るついでに今のを報告して安心させてやれ」


 つい数分前の精神状態なら、隆弘はここでアーマンにラリアットを食らわせていただろう。しかし今は若い刑事の言葉に違和感を覚えたので恥ずかしさが吹き飛んでいた。


「妙だぜ」


 刑事が首を傾げる。


「なにがだ?」


「ナイトクラブでの一件の後、2人組の男がリリアンに絡んできた。イタリア系の男だ。今調査中のグループにイタリア系の奴はいるのか?」


 若い刑事が首を振る。アーマンは隆弘を指差して何か言いたそうな顔をしていた。大方そんな話は聞いていないといいたいのだろう。しかし隆弘も今の今までそんな2人組のことは忘れていたのだ。助けたときは調子にのった観光客か何かだと思っていた。

 しかし万が一この事件に関わりのある人間だったら。

 昨日リリアンから事件の原因たる黒ユリの話をされた隆弘は、三合会以外にあのユリを狙う輩がいても不思議ではないと思った。

 では、リリアンをひとりにしては危険ではないか。

 単純明快な結論を導き出した男が弾かれたように走り出す。背後でアーマンが声をあげた。


「隆弘っ! 待て! 警察にまかせろ!」


「俺より先にリリアン探し当ててくれりゃ問題ねぇだろ!」


 リリアンは今から帰ると言っていた。だとすれば、川を渡った住宅街にいるのだろう。今ごろは赤い屋根の借家で荷造りでもしているはずだ。

 隆弘が歯軋りする。タバコを咥えていたら噛みちぎっていただろう。一秒でも早くリリアンを見つけるため足に力を込めた。


「あのアマァっ! 手間ぁかけさせやがって!」


 歩道を弾丸のような早さで駆け抜けていく隆弘を、通行人が不思議そうに見ている。

 リリアンが無事で、このあと警察に保護されるならなんの問題もない。イタリア系男の2人組だって、今もマフィアであるという確かな証拠はないのだ。

 この心配が杞憂で、リリアンが無事で、何事も無くカレッジの空き部屋を借りて、たまに隆弘と話してくれれば、そんなに幸せなことはない。

 とにかく脳裏に浮かんだ不安を打ち消すため、隆弘は必死に足を動かし、見知った道を走り抜けていった。

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