第26話 「君にはまだ役に立って貰わなければならないからね」
リリアンがゆっくりと目をあけると、見知らぬ天井が見えた。どうやら自分は眠っていたようだ。
ここはどこだろう。どうしてこんなところにいるのだろう。
頭がぼんやりとしていてとっさに記憶を呼び出せない。とにかく起き上がろうとしたリリアンは、手足が縫い付けられて起き上がれないことに気がついた。
「なっ、なに……!?」
慌てて首だけであたりを見回す。女の身体は歯医者の診療台を思わせる椅子に寝かせられ、足と手が黒いベルトで固定されていた。抜けだそうと手足をバタつかせても、薄暗い空間にガチャガチャと虚しい音が響くだけだ。
焦るリリアンの頭上から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「目が覚めたかな? 私の可愛いリリー」
彼女が声のするほうを見ると、50代前後と思われる赤毛の男が立っていた。大きなマスクをつけている。リリアンの記憶では確か今年で49歳だ。
女の額に冷や汗が浮かぶ。
「ルーベン……生きてたの……?」
ルーベン・バルボ
ジャッキーやドリー、ミック・カーシュを死に追いやった『リリー』の生みの親。オックスフォードの薬学教授である。リリアンはてっきり二ヶ月前に死んだと思っていた。
彼はニコリと笑みを浮かべた。マスクで口元は見えないから目元だけの判断になるのだが。
「ああ。またあえて嬉しいよ、リリアン」
女はもう一度手足をバタつかせる。ベルトは外れず、ルーベンは笑顔のまま
「それは外れないから、時間の無駄だよ」
と穏やかに語りかけてきた。マスクのせいで声が少し籠もっている。
女が眉をひそめた。
「……なんで、こんなことするの?」
ルーベンは笑顔のまま穏やかに答える。
「私の仮説を証明するためだよ。君に助手を務めてもらいたいんだ。いつもやってたじゃないか」
ベルトがガチャリと音を立てた。女はフン、と鼻を鳴らす。
「これじゃ助手じゃなくてモルモットの間違いだ」
ルーベンは相変わらず笑っている。リリアンが探るような目線を向けても眉一つ動かさない。
「……ドリーが、あなたを川に突き落としたっていってたけど」
「ああ。彼女が『リリー』に気づいたのは誤算だったね。まさかあんなに野心家だとは思わなかった」
「死んだふりってわけ? なんでそんなことしたの?」
「彼女、香港マフィアと繋がってるだろ? ヘタに逆らって殺される前に、自分から死んだほうがいいと思ってね。そのお陰でこの2ヶ月間、リリーの研究に専念できたよ。大学のほうでも貴重なデータが採れたしね」
男の背後やリリアンの周囲には埋め込み式のプランターがたくさん設置してある。赤黒いユリがところ狭しと咲いていた。陽の光があたらないような場所なのにとても元気だ。リリアンはこの花が枯れるところを見たことがない。彼女が育てていた花も、季節外れだというのに枯れる様子もなく庭で元気に咲いていた。
ドリーがルーベンのデータから『リリー』の成分を再現している間、男はここで思う存分研究を進めていたというわけだ。マスクをつけているのは花粉を吸い込まないための処置だろうか。リリアンは花粉にまで対策が必要だと聞いていなかった。彼女は2ヶ月間、無防備な状態で『リリー』の成分に晒されていたことになる。
大学のほうの興味深いデータというのはジャッキーやミック・カーシュ、そしてドリーのことだろう。
リリアンが男を睨みつける。マスクをつけた赤毛はまだ目元に笑みを浮かべたまま、拘束されている女の周囲をゆっくりと歩き始めた。
「ネズミに何回か成分を投与してわかったことなんだが、『リリー』の成分は一度に大量の摂取を行うと身体が変化についていけず死に至るんだ。私たちが最初に見たネズミはトンビに狩られてしまったが、放っておいても5分と持たなかっただろうね。あれと同じくらいの量を一度に投与したネズミはみな5分以内に死んでしまったよ。身体中から血を噴き出してね。君にも見覚えがあるだろう? 大学での薬品投与体はすべて失血死したと聞いているよ」
人が5人も死んでいるのに、赤毛は穏やかに笑って得意げに話を続ける。
「だから今度は少量づつ与えることにしたんだ。1週間かけて規定の量を投与したネズミは死ななかった。時間をかけて少しずつ摂取していけば身体にあまり負担はかからないんだよ」
ルーベンの歩みが止まった。
「人間はさすがに1週間では無理だったね。そもそも身体に影響を与える量がネズミとは違いすぎる。人に応用するのはもう少し時間がかかると思っていたんだが……思い出したんだよ」
男がリリアンに顔を近づける。息がかかりそうなほどの至近距離に彼女は思わず息をのんだ。別に初めての距離ではないのに。
「君が『リリー』を1株持っていたってね。花粉を摂取し続けて2ヶ月……なかなか興味深いケースだ」
やはり花粉の成分だけでも人体に影響はでるようだ。
ルーベンを睨みつけて女が吠える。
「それでイタリアマフィアと結託して、私をモルモットにするために攫ったってか!」
「正確にはシチリアマフィアだよリリアン。そもそもマフィアという呼称自体シチリアの犯罪組織を呼ぶためのものなんだが……それはどうでもよかったね。それと勘違いしないで欲しいんだが、彼らと私の友好関係は今に始まったことではないよ。もう20年以上のつき合いだ」
「どうせ食うに困ってドラッグでも作ってたんだろ! 研究者として認められたのは34歳の時だったって、前に話してたもんな!」
ルーベンが突然右手を振り上げる。乾いた音がして女の頬に痛みが走った。目の前の男に叩かれたらしい。赤髪が小さく笑い声を漏らす。
「連れない態度だなリリアン。そういえば、天才と名高いタカヒロ・ニシノに口説かれたそうじゃないか。早速乗り換えたわけか。利用価値のある人間にすり寄る術はさすがだな。まるで寄生虫だ」
赤髪の嘲笑に彼女は奥歯を噛み締める。いままでそんな風に思われていたのかと思うと顔が熱くなった。冷たい石を丸呑みしたように腹の奥がヒュッと冷える。
都合の良い女だとはわかっていた。利用されているのではないかともうすうす思っていた。男にしてみれば、都合の良い言葉だけを求めるリリアンは寄生虫のようにみえたのだろう。
ルーベンは見下したような目で笑っている。
「君のような寄生虫を愛そうだなんてよほど目の腐った奇抜な男か、それとも私と同類かな? 君は助手としても、夜の相手としても随分具合が良かったからな! 伴侶にしたいとは思わないが、その場かぎりのアクセサリーとしては非常に優秀だったよ!」
女は人生で初めて、怒りで身体が震えるという貴重な体験をした。自分の周囲にいる人間は隆弘以外クズばかりだ。ルーベンだってドリーだって他人を利用することをなんとも思わない。人の命だって自分のための踏み台に過ぎない連中だ。きっとリリアンが人の顔色を伺って楽に生きることばかり考えていたからだろう。自分が他人を利用してばかりいたから、周りにも自然とそういう人間ばかりが集まってきたのだ。
――どうして隆弘は、こんな私を好きになってくれたんだろう。
マスクをつけた男が腹の立つ笑みを浮かべて彼女に話しかけてくる。
「今回君は歴史的な偉業の立役者になるんだ。この実験に成功すれば、私の努力が世界中に認められる。君は影ながら私の偉業を支えることになるんだよ! アクセサリーから本当の助手への昇格さ! こんなに嬉しいことはないだろう? 私の努力がついに実を結ぶときがきたんだ! 君にもその一端を担わせてあげようじゃないか!」
握り拳を作ったリリアンの腕が震えて、カチャカチャとベルトの金具を揺らす。自分の顔をのぞき込んでくる男に向って思いきりツバを吐いた。
ルーベンの頬に汚れが付着する。彼は心底驚いたようだ。信じられないと言いたげにリリアンを見た。
拘束されたままの女は、見開かれた男の目をまっすぐに睨みつける。
この男の目は水色なのだと、彼女は初めて気がついた。
何度も何度も至近距離で顔を見合わせてきたのに、今までまともに目を見たことが一度もなかったのだ。これでは人間の内面なんてわかるはずもない。ただ自分に都合がいいから傍にいただけで、寄生虫と言われても仕方がない。
歯を食いしばったリリアンは、こんな緊急事態なのにも関わらず――もう人の目から顔をそむけるのはやめにしようと、少し場違いな決意をした。
「ふざけんな! あんたは他人の目が気になるだけだ! 人に褒めて欲しいだけなんだ! そんな奴の努力なんて努力じゃない!」
隆弘のような人間の行いを努力というのだ。毅然としていて、まっすぐ前だけ見ていて、結果も周囲の反応もただの雑音だと割り切れる。後からついてくるものだと断言できる。自分の行動に自分の責任で自分の結果がついてくるのだと、周囲の評価も讃美も非難も嫉妬もすべてとるにたらないことだと笑う。あの男の行いこそ『努力』というのだ。
それにくらべてリリアンやドリーや目の前の男が言う『努力』のなんとちっぽけなことだろう。他人の目を気にして体裁を整える行為のなんと浅ましいことだろう。
そんなものを『努力』と呼んだら、あの男に失礼だ。
まっすぐに前だけを見据えて自分のために自分だけが行動する。それを実行できる、あの男に失礼だ。
「あんたみたいに人に褒めてほしくてしょうがない奴にはね! みんな決まってこういうんだ! 『かまってちゃんが、ウゼェんだよ』ってね!」
マスクをつけた顔が怒りに歪む。血行もすこぶる良くなったようだ。ぐぐもったうなり声が聞こえてくる。
「貴様っ……!」
ルーベンがまた腕を振り上げた。乾いた音がして先程と同じ場所に痛みが走る。今度はもう少し痛かった。そういえばドリーに殴られたのも同じ場所だった気がする。
――ちくしょう、どいつもこいつも図星つかれた途端同じ場所殴りやがって。
リリアンがルーベンを睨みつける。怒りの形相をしていた中年男が、無理やり引きつった笑みを浮かべた。マスクをしているから目元だけしか見えないが、歪んだ目元が痙攣していて滑稽だ。
「……黙っていればまだ可愛らしいものを。いつから私にたてつくようになったんだ。この雌豚」
赤髪が注射を取り出す。当然女に抵抗する術はないが、せめて思いきり睨みつけてやった。水色の目が嘲笑を浮かべる。
「フン、叫くだけがせいぜいだろう。いつもどおり大人しくしていれば少しは可愛がってやったのに。
リリアンの視界がグラリと揺れた。鼻の奥がツンとして、目尻が熱くなる。身体が震えて顔中に血が集まってきた。熱い液体が頬を伝う。伝った場所がすぐに冷えて、また熱いものがポロポロと零れていく。鼻の奥が痛い。喉が大きくひくついた。肩を揺らしてしゃくりあげる彼女を男が笑う。
「なんだ泣いてるのか! 無様だな! 心配しなくても今までの連中のように、いきなり血を吐いて死ぬということはないだろうよ!」
ルーベンが楽しそうに笑っている。女の目からは涙が溢れて止まりそうになかった。
悔しい。
こんな男のせいで、こんな男のために、リリアンは隆弘の思いを踏みにじったのだ。
あのまっすぐな、綺麗な目をした男のとてもまっすぐな思いを、こんな男のためにといって彼女は踏みにじったのだ。
悔しい。
なんでこんな奴のために。
なんでこんな奴を忘れたらいけないなんて思ったのだろう。
なにより悔しいのは、こんな醜悪でいけ好かない男と、そんな男に利用されたバカな自分のせいで、どこまでもまっすぐで、どこまでも美しく、どこまでも強いあの男が――西野隆弘が傷ついたことだ。
――悔しい!
泣きながら逃げだそうと暴れても、ベルトの金具がガチャガチャと虚しく叫ぶだけ。土から這い出てしまったミミズのようにのたうちまわる女を見てルーベンは笑っていた。
嘲笑を浮かべた男が彼女の腕に注射針を近づける。ズブリと金属が肌の中に入ってきて、リリアンは一瞬だけ鋭い痛みを感じた。
右腕を見ると、注射器の中の液体が自分の血管に飲み込まれていく。
喉が震えた。
「あ……あぁっ……ああぁあ……!!」
ルーベンが楽しげに笑う。
「眠くなるだけさ。君にはまだ役に立ってもらわなければならないからね」
女の意識が遠のいていく。手足からだんだん感覚がなくなっていく。涙の伝う感触だけがいやに鮮明だった。
ぼやける視界の向う側に赤毛が消えていくのを見つめていることしかできない。
――悔しい……!
最後まで自分の愚かさと無力さを呪いながら、リリアンはとうとう意識を手放した。
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