第24話 「そこで大人しくしていろ!」
走って借家まで辿り着いた隆弘は赤い屋根の家を真っ先に見た。門の前に黒い車両が一台停まっている。赤い傘が地面に落ちていた。エンジン音がうなりを上げ、自動車が動きだす。
男の頭が真っ白になり、身体は車に向って一直線にかけ出していた。
「そこの車ァ! 動くんじゃねぇ! 止まれ!」
助手席の窓がゆっくりとしまっていく。一瞬、彼はカーフィルムの隙間から赤い髪でブルーの瞳の男を――
死んだはずの薬学教授、ルーベン・バルボの顔を、確かに見た。
「!? なんでっ……」
大きなエンジン音が響いて車が隆弘から逃げ出す。走っていては間に合わない。死人の顔を見たことも、今考えている暇はないようだ。
「っ……クソが!」
男が盛大に舌打ちする。逃げていく車のナンバーを確認し、自分の借家に飛び込んだ。車庫で眠っていたアッシュゴールドのバイクにキーを差し込み、エンジンをかける。流線型が美しいアドベンチャータイプで、並列3気筒エンジンを搭載したトライアンフのタイガースポーツ1050。車体と同じ塗装のフルフェイスヘルメットを手に取った隆弘は、バイクを出す前に携帯電話でアーマン・ニコルに連絡をした。
3コールで相手が出る。確認もそこそこに隆弘は声を荒げた。
「おっさん! リリアンが攫われた!」
電話口から男の慌てたような声が聞こえる。
『なんだと!? 相手の顔は見たのか!』
「ああ、助手席に……いや、見間違いかもしれねぇ……ナンバーはAC55MZVだ。とにかく、俺は先に車を追うぜ」
『おい! やめろ隆弘! そこで大人しくしていろ! おい!』
刑事の悲鳴を無視して男は通話を終了させた。ヘルメットを被ってアクセルグリップを回し、車が逃げた方向へ飛び出す。ふわふわと舞う雪を追い越し、川からまっすぐにのびるアビングドン・ロードを走った。
オックスフォード市内は至る所が歩行者専用で車での移動に向かないし、そもそもすぐ近くに警察署がある。今ごろは車両ナンバーも連絡が行き渡り、向こうに逃げているのだとしたら捕まるのは時間の問題だ。だとすれば隆弘が探すのはロンドン方面。
直線道路を暫く走るとユニバーシティ・カレッジが所有するスポーツグランドにさしかかる。その横で、隆弘は黒い車を発見した。猛スピードで田舎の道路を走っていれば嫌でも目立つ。
逃げる車に追いつくため男もスピードをあげた。相手も追いかけてくるバイクに気づいたらしい。さらにアクセルを踏み込む。三叉路の左側に入ったところで隆弘はピッタリと車の後ろについた。
甲高い音がして車の後輪が煙を吹く。急ブレーキをかけられたのだ。危うく車にぶつかりそうになり、寸前でなんとかハンドルを切った。そのせいで隣の車線に大きくはみ出してしまい、トラックに大きなクラクションを鳴らされる。車線の上を走るように車体を立て直し、トラックとの激突は避けた。しかし黒い車が真横から体当たりしてきたので今度はそれを躱さなければいけなくなる。
視界に入ってくる雪が邪魔だ。
このままでは命がいくつあってもたりない。片足で黒い車の後部ドアを蹴り飛ばし、無理やり距離を取る。また車のすぐ後ろについた。黒い車がスピードを上げる。無理な追い越しを繰り返して隆弘から逃げていく。クラクションが至るところで響き渡り、中には急停止する車もある。一台が雪の固まりになった中央分離帯へ激突し、甲高い音を立てた。運転席から怒鳴り声がする。
「なにやってんだ!」
男は思わず舌打ちをした。
スリップしやすい状態でカーチェイスを続けていれば、もっと大きな事故が起こるだろう。彼の危惧とはうらはらに黒い車はどんどんスピードを上げていく。
このままでは見失ってしまうだろう。隆弘もアクセルを思いきり回して車の間を縫うように目標を追いかけた。雪がバチバチとヘルメットに当たる。クラクションが鳴り響き、合間から怒号が飛んでくる。真っ直ぐに伸びた四車線道路で無茶な運転を続けていると、4差路のロータリーが見えてきた。黒い車はブレーキを踏む様子もなく、黄色信号に突っ込んでカーブを曲がる。
後輪が大きく振り回され、キキキキキキィィ、と甲高いブレーキ音が響いた。
道路に黒いタイヤ痕。
信号が赤に変わる。
隆弘もブレーキはかけずにロータリーへ突っ込むことにした。このスリップしやすい状態で今から止まれそうにない。そもそも止まったら車を見失ってしまうだろう。
クラクションとブレーキの音が響き、急停止した車の間を縫うようにバイクが走る。
一台の車が止まりきれず隆弘に迫ってきた。
クラクションとブレーキの音が残響なのか今響いているものなのかわからない。
――ぶつかる!
男の思考はそこで停止した。
考えるより先に身体が動く。ハンドルを引き上げるようにしてバイクの前輪を持ち上げた。
車のボンネットに後輪を乗り上げ、そのままの勢いで空中に飛び出す。
「う、ぉおおおぉぉぉぉぉぉ!?」
隆弘の喉から人生で一度も出した覚えのないような情けない悲鳴が漏れた。空中に投げ出されて当然バイクの操縦は利かない。
車体が重力にしたがって道路へ落ちていく。視線の先に見えるのは雪の山と化した中央分離帯だ。
ガクンッ、と強い衝撃が走り、男の身体が大きく揺れる。
思わず声が漏れた。
「ぐっ……!」
それでも走れないほどではない。一度着地の衝撃で倒れかけた隆弘は、勢いにまかせて雪の山を滑り降りた。4番の道へと入る。
雪でなければ中央分離帯に激突してヘタをすれば死んでいただろう。
黒い車は男の前方、車を三台挟んだ先にいる。今も無茶な運転で前方車両を追い抜き、男から距離をとっていた。アッシュゴールドのタイガースポーツもアクセルを回して車線変更を繰り返し、目標との距離を詰めていく。ロンドン方面へ進む高速道路へ入ったところでやっと黒い車に追いついた。隆弘がヘルメットについた雪を乱暴に払い、前の車を睨みつける。
車のパワーウインドウが開く。後部座席の窓だ。
窓から突き出された腕は黒光りするオートマチック拳銃を持っていた。白い景色に黒がよく映える。
息をのんだ男がハンドルを切る。
パンッ、とマヌケだが腹に響く音がした。隣車線に移動した隆弘の真横で道路に小さな穴が開く。
銃口が彼を狙っていた。
慌てて車線を戻し、車の後ろに張り付く。今度は急ブレーキをかけられてひき殺されそうになった。
「クソッ!」
追突を避けるために車線を変更すると、また銃撃だ。スピードを落として車と距離をとるしかなくなった隆弘は、ロータリーに辿り着いたところで引き離されてしまう。黒い車はあっという間に一般道の奥へ消えてしまった。
アッシュゴールドのバイクは路肩へ移動して停止する。
「あいつら……どこいきやがった」
肺に吸い込む空気がとても冷たい。防寒対策などする暇もなく道路を走り続けたので身体にも刺すような寒さが襲ってくる。周囲を見回すとビーコンズフィールドのバス停があった。タイガースポーツに跨ったまま隆弘はしばし考える。
もし黒い車に乗っていた男が本当にルーベン・バルボ教授だったとしたら、スラウに別荘を持っていたはずだ。リリアンが言っていた。
『一緒に出かけてくれたのはスラウの別荘に1回きりで』
スラウならここから16分ほどで着くはずだ。となると、あの車の目的地として可能性が一番高いのはルーベン・バルボの別荘。
まだ少し肌寒さを我慢することになるが仕方がない。時間がないのだ。
隆弘は覚悟を決めてまた道路へ飛び出し、一路スラウへと向った。
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