第17話 「信じてやる気になったのさ」
「バルボ教授が行方不明になる3日前、研究室でネズミが空を飛んだの」
彼女は研究室でバルボ教授と共にネズミが空を飛ぶさまを目撃した。今でも思い出しただけで身体が震える。
「ネズミの身体に、目に見える変化はなかった。ジャッキーと同じ……窓から飛び出して、フクロウに狩られて死んじゃった」
隆弘はじっとリリアンを見つめている。彼女の話の真偽を見極めているようだ。
「バルボ教授は喜んでたけど、私は……怖くて……廃棄するようにお願いしたんだ……」
世紀の発見だとはしゃぐバルボは当然リリアンの言葉に渋い顔をした。それでも彼は、その時確かに頷いてくれたのだ。
「教授は、決心する時間が欲しいって……私がひとつだけ保存しておいてくれって言って、残りは、私の目の前で廃棄してくれたけど……私の持ってる、そのひとつを廃棄するのに、少しだけ時間が欲しいって……」
コバルトブルーがリリアンを見ている。彼女に目を逸らすことはできなかった。
「私も、バルボ教授の、気持ちは痛いほど解ってた……心のどこかで凄いと思ってたし、廃棄するのは惜しいって、思ってたんだ……だから、決心が必要だって言葉も、よくわかってた……教授の、決心がついたら、最後のひとつを廃棄して、なかったことにしようって、思ってたんだ……!」
――それが、こんなことになるなんて!
リリアンの視界に目一杯移り込んだ隆弘が歪んだ。エメラルドを覆った水の膜が臨界点を突破し、白い頬を伝う。
「ごめんなさいっ! 人が、人が死ぬなんて、思ってなかったっ! 少し考えればわかったはずなのにっ! ルーベンが死んだとき、すぐ処分しちゃえばよかったんだっ! 警察に話してればよかったんだっ! ネズミが空を飛んだときに、無理やりにでも、全部燃やしてればよかったっ! そうっ、そうしたら、みんな巻き込まれなくてすんだのにっ! 死ななくてもよかったのにっ!」
隆弘は泣きじゃくるリリアンをしばらく見つめていた。やがてゆっくりと女の肩から手を放し、ベッドに沈んだ彼女を助け起こす。
「……警察に言っても、信じて貰えなかったと思うぜ。過ぎたことはいくらいったってしょうがねぇしな」
上半身を起こし、ベッドに座り込んで泣きじゃくっていたリリアンが隆弘を見上げる。驚きで大きく見開いた目から、いつのまにか涙が引っ込んでいた。
「信じて、くれるの……?」
「嘘ならもっとうまく吐くだろ。そんな荒唐無稽な話、ガキだって思いつかねぇよ」
それに、と呟いて男は言葉を句切った。一瞬目を伏せ、すぐ女をまっすぐ射貫く。
「アンタが、初めて人の目を見てしゃべったからな。信じてやる気になったのさ」
言われて、彼女は咄嗟に俯く。そしてこれではいけないと思い直し、まだ目尻に残った涙を急いで拭き取った。
なるべく明るく、笑顔を作って隆弘を見上げる。
「ありがとう」
「かまわねぇよ。ところで、ネズミが空を飛んだのは、教授が行方不明になる3日前だと言ってたな」
「うん。そうだけど……」
「フクロウってことは、ネズミが飛んだのは夜だろ。何時のことだ」
「確か、夜、9時くらい……だったと思うけど……それがどうかしたの?」
リリアンが首を傾げる。隆弘はまいったとでも言いたげに、頭を乱暴に掻いた。
「教授が行方不明になったのは2ヶ月前の第2日曜日だ。3日前っつーと木曜日。毎週木曜日は
女は3回ほど瞬きをして、それから慌てて立ち上がった。
「で、でも、見てなくたって殺害には関係してたかもしれない! 日曜日のアリバイは、まだわからないんだから!」
隆弘の眉間に刻まれたシワが深くなる。彼は目を瞑って呻るように言った。
「ああ。もちろんその可能性はあるが、ジャッキーが主犯じゃねぇことは確かだ。誰か最低でももうひとり、オックスフォードの学生が絡んでやがる」
「な、なんで? ネズミを見るだけなら、別に外を出歩いてれば誰でも大丈夫なんじゃないの……?」
「学生じゃなきゃ、ネズミが飛びだしてきた窓がバルボ教授の研究室で、薬で空が飛べるようになったってのを、どうやって3日で調べ上げられるんだ? そもそも学生じゃなきゃ、薬のデータを盗んで応用するのも難しい。治験段階にくるまで2ヶ月しかたってねぇってのも早すぎる。悪知恵の働くどっかのだれかが胸クソ悪い製薬会社と手を組んだとかなら、こんな静かな町で実験する必要なんざねぇんだ。事件があると目立ちすぎるからな。なら、テメェを追いかけてた連中は手を貸しはするが必要最低限。薬の効力については半信半疑で、この町に住んでる誰かが連中に薬を売りつけるために躍起になってるって考えたほうが自然だろう。そうなると、最低でもあとひとり学生が絡んでて、そいつが薬学を取ってる可能性が高い」
隆弘があまりにもまっすぐ自分を見てくるので、リリアンは肩を振わせる。もしかして自分が疑われているのだろうか。不安になって隆弘を見つめ返す。彼は一瞬だけ目を伏せ、それから酷く言いにくそうな顔をして女を見た。
「……嫌なことを聞くが、ネズミが空を飛んだとき、ドリーがどこにいたか解るか」
「いっ、家にいたはずだけど……もしかして、ドリーを疑ってるの?」
隆弘が目を伏せた。それを肯定だと取ったリリアンが声を荒げる。
「なんで!? ドリーは関係ないよ! たまたま私とルームシェアしてたから巻き込まれちゃっただけなんだ! ドリーがそんなことするはずない! こんな薬だれかに売りつけたってメリットなんかないよ! 人生が台無しになるだけだ!」
「金は手に入るだろうぜ。それこそ一生お目にかかれねぇ大金だ。キレイな金じゃねぇだろうがな」
「ドリーはそんなもの欲しがらない!」
隆弘が顔をあげ、リリアンを見る。まだ言いにくそうだったが、今度は彼女をまっすぐに見てきた。
「……ジャッキーが、アンタらの借家に侵入したとき、アンタはストーカー被害を想定して、女警官の同行を希望したよな? リリアンが部屋の確認をするのに30分。ドリーは5分くらいだったはずだ」
「それで、ジャッキーとドリーがグルだっていうの? だってジャッキーは、私に対してストーカーみたいなこと言ってたんだから、ドリーが自分は関係ないって思っても不思議じゃないと思うよ」
「自分の部屋も荒らされてるのにか? ジャッキーはどっちがアンタの部屋だかわからないからどっちも荒らしたと思うのが自然だろう。だとしたら、どっちからも下着の1着や2着、盗まれてても不思議じゃねぇ。俺ならそう考える。そもそもジャッキーがリリアンだけを標的にしてるなんて確証はどこにもねぇんだ。実際に部屋が荒らされてるんだからな。女なら当然、もっと不安なんじゃねぇのか?」
リリアンが言葉に詰まった。隆弘は彼女が黙ったのを確認して、部屋の壁によりかかる。
「ジャッキーが2人の部屋を荒らした理由としてもう一つ、これは仮にどっちかがグルだった場合。ひとりの部屋だけを荒らしては不自然だから、もうひとりの部屋も荒らしたって可能性がある。これなら、共犯者のほうは最初からなにも取られる心配はないから、それほど焦る必要も、不安になる必要もねぇ。部屋からなくなってるものがないか確認する必要も、もちろんありゃしねぇ」
女は俯いて絨毯をみる。まるで自分が責められているような気分だ。自分が責められているほうがまだマシだったかもしれない。
「リリアンの鍵を盗むのも、同居人なら簡単だ。事前に盗んだアンタの鍵をジャッキーに渡すこともできる。当日ドリーが家を施錠したのは、アンタに鍵がなくなってるのを悟らせないためだったのかもな。図書館からの帰りに尾行されたのだって、最初は居場所をつきとめるためかと思ったが、ホテルから警察に連絡して送ってきてもらったってのに、ジャッキーが家に現れた。尾行がついてねぇか細心の注意を払って送ってってもらったのにだぜ? なら、尾行は居場所の特定が目的じゃねぇ。アンタを拉致するためだと考えたほうが自然だ。居場所の情報はどっかから漏れてる。誰が情報を流したのか? 俺か、アンタか、ドリーか、警察の誰かか。情報を流して得をしそうなのは誰だ? 事件に最初からかかわってそうな奴は誰だ?」
残念ながら、リリアンは隆弘の言葉に反論する術をなに1つ持っていなかった。
「もしかして、あのナイトクラブに行こうって言い出したのはドリーのほうだったんじゃねぇのか?」
「……ドリーが、ジャッキーたちの様子を見るための口実に、私をクラブに連れていったっていうの?」
「あくまで可能性の話だがな」
女が下唇を噛み締め隆弘を睨む。隆弘も眉間の皺を深くして、苦しそうな表情を浮かべながらも彼女の視線を受け止めてくれた。重苦しい沈黙が部屋を支配し、お互い目線をそらさないまま妙な緊張感が生まれる。
張り詰めた雰囲気を切り裂くように、ノックの音がした。
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