第12話 「ありがとね。昨日も今日も」
リリアンがあらためて隆弘と顔をあわせたのは夜の10時過ぎだった。図書館の閉館時間を迎え、大人しく外へ出たところで声をかけられたのだ。
「よう」
声のするほうを見るとすぐに三匹の子豚が目に飛び込んでくる。
「西野」
「隆弘だ。お前、連れはいねぇんだろ?」
「友だちと連れだって勉強するならもっと違うとこ行ってるよ」
隆弘が咥えたタバコに火を付けた。
「一人歩きは危険だぜ。ついてこいよ。どうせ帰る場所は一緒だからな」
リリアンが一瞬口を尖らせるも隆弘が気にした様子はない。これからのルートが完全に一緒であるのは事実だし、最近物騒だからお願いしたほうがよさそうだ。
「じゃあ頼むわー」
隆弘がリリアンの腕を掴もうとした。彼女はさりげなくその手を避ける。男が少し眉をひそめたけれど、すぐに歩き出した。リリアンも彼の後を追う。
12月のオックスフォードは濃い霧が立ちこめていて視界が悪かった。朝から肌寒かったからだろう。じっとりとのしかかる冷たい空気は多分に水気を含んでいるので、服が少しずつ濡れていった。町は冬になるとしょっちゅう濃い霧が出てくる。川が近くにあるためだ。
外灯がぼんやりと霧の中を照らしていた。空中に浮かんだ水滴が風にのって動いている。
「なんか産業革命時代って感じー」
「まあこの霧じゃあ、切り裂きジャックが出てきても不思議じゃねぇよな」
「そんであのツタのとこは吸血鬼住んでそう」
「まあ、ドラキュラも産業革命時代だからな」
「でも『ハウス』は完全にクィディッチやってるよね」
「撮影に使われたんだからやってるもなにもねぇだろ」
オックスフォードはたくさんの時間を内包した不思議な町だ。道が一つ違うだけでまったく違う時代の風景が広がっている。
「オックスフォードも見てて楽しいんだけどさ、日本の友だちに話したら『京都みたい』だって。京都ってこんな感じなの?」
「まあむこうも古い町だからな」
「そっかー、今度行ってみたいなー」
そして幕末パロと遊郭パロを描くための取材をしたい。
「なんなら今度一緒に行くか?」
隆弘がリリアンの手をまた掴もうとしたので、彼女はさりげなくその腕を避けた。
「夏の陣と冬の陣だけでカツカツなんで遠慮しますー」
隆弘が口をへの字に曲げる。
リリアンは連続殺人犯と吸血鬼の男同士の恋愛に思考をシフトチェンジしていた。
霧に包まれた夜の町で殺し合う男性2人がどうやって恋仲になるかまでを10秒で考え、性交渉の際にどちらが女役でどちらが男役か少し悩む。結果切り裂きジャックに男役の軍配があがり、吸血鬼が女役に決定する。その間20秒。
横を歩いていた隆弘がタバコの煙を吐き出し、喉の奥でククッと笑う。
「なに考えてるか知らねぇが、横顔も随分美人だな」
「んぁ?」
すでにリリアンの脳内は殺人鬼と吸血鬼の性交渉に突入していた。脳内妄想が2R目に突入したところで話しかけられたので、言葉の意味を理解するのに少し時間を要する。しばらくして彼女はやっと
「ああ」
と声をあげた。
「……ありがとねー。西野はなにしても絵になるイケメンだねー」
「隆弘だ。こっちは冗談で言ってるんじゃないんだぜ?」
「私も冗談で言ってるわけじゃないよーこれで西野がホモだったら貢いでたね」
「隆弘だ。前も思ったんだが、そりゃ遠回しに近寄るなとでも言ってんのか?」
「いや、本心」
「どんな不毛な感情だそりゃ」
リリアンがちらりと男の顔を盗み見る。端正な横顔だ。脳内の吸血鬼を彼の顔に置き換えてみると予想以上に似合っていた。そのまま切り裂きジャックが女装して吸血鬼を押し倒すシーンを妄想する。
意識が散漫だったせいか、今度こそリリアンの腕が隆弘に掴まれた。彼女が拘束から抜けだそうとしても、男の力が強くて無理だった。
「さりげない拒絶をことごとく無視するねこの暴君は」
「確かにこの西野隆弘様に対して拒絶なんぞおこがましいが、そうじゃねぇ」
「どこからツッコミをいれていいか解らないでござるよ」
巨大な影と化したボードリアン図書館にさしかかったところで、隆弘がリリアンの腕を強く引く。女の身体が鍛えられた腕の中に収まった。
「ちょっと、西野!」
彼女が抗議の声をあげる。男は眉一つ動かさずに小さく囁いた。
「このまま歩け。つけられてる」
リリアンは思わず眉をしかめる。
「ウソだろ……」
背後を振り返ろうとすると、隆弘にとめられた。
「やめとけ。図書館出たときからずっとだ。どうやらイタリア人みてぇだが、調子こいた観光客にしちゃ、やり方がまわりくどいな」
家まで後をつけるつもりなのか、もっとひと目につかないような場所でどうこうするつもりなのか――隆弘がいるせいで手をだしあぐねているのか。
男が僅かだが険しい顔つきになった。
「素人に気づかれるくらいだからたいしたこっちゃねぇとおもうが……どういうつもりだか」
リリアンが生唾を飲む。男はタバコを携帯灰皿に押し込んだ。
「ちょっと走るぜ」
「えっ」
リリアンの了承を得ないまま隆弘が彼女の手を引き、勢いよく走り出す。後ろからバタバタと足音が聞こえてきた。深い霧の中に足音だけ聞こえてくるのは、まるで幽霊を相手にしているようで酷く不気味だ。ボードリアン図書館を抜け、ラドクリフカメラの手前をナナメに突っ切る。ブレーズノーズ・カレッジ横の小道を走り抜けて建物の影に隠れた。
リリアンの身体が壁に押しつけられ、隆弘の身体が密着してくる。心臓の音が聞こえてきた。男の身体の隆起を肌で感じる。腕がリリアンを閉じ込めるように背中へまわされた。相手に気づかれないようにか、身体がさらに密着してくる。頭上には真剣な表情で今来たばかりの道を睨みつける隆弘の顔。2人とも走ったせいで少し息が乱れている。
呼吸をすばやく整えるため深呼吸したリリアンは、目の前の男から香水の匂いがしてくるのに気がついた。オーシャン系の香りがする。嫌味なくらい似合うなと思って、リリアンは場違いにも苦笑してしまった。
隆弘の腕の力が強くなり、リリアンの顔が必然的に男の胸板に押しつけられる。
「……くるぜ」
囁くような隆弘の言葉の直後、足音が響いてきた。小声の会話が聞こえる。
「……どっちにいった?」
「見失ったのか?」
それから暫くして、足音が通り過ぎていく。相手はどうやらそのまま直進してマーケットストリートへ向ったようだ。
隆弘はリリアンを抱きしめたまましばらく様子を見ていたようだったが、やがてゆっくりと女から離れ、道を見渡す。
「……行ったな」
リリアンも恐る恐る物影から顔をだし、周囲を見渡した。
「ありがと、西野」
「隆弘だ。このままハイストリートに出て、少し遠いがオールドバンクホテルに入るぞ。そっから警察に家まで送ってもらったほうがいいな」
「うん」
隆弘はごく自然に彼女の手を握ってハイストリートへ歩き出した。今回はリリアンも抵抗しない。なにかあったときこの男とはぐれたらこまるのは自分だ。
「……なんであの2人、私らをつけたりしたんだろう?」
外灯の下で霧の粒子が流れていく。男は一段落ついたからか、タバコを取り出して火を付けた。
「まあ、ジャッキーの仲間がお前の居場所を特定しようとしたってのが妥当だな。手出しできるようだったら手出しするつもりだったのかもしれねぇし」
リリアンが俯いた。隆弘がいたから良いが、ひとりで帰っていたら今ごろどうなっていたのだろう。
男は俯くリリアンを横目に見て少し口をへの字に曲げる。それから困ったように頭を掻いた。
「あー……とにかく、一応はまいたからよかったじゃねぇか。ホテルから目立たねぇように送ってもらえば、居場所もごまかせるしよ」
「うん……」
女が頷くと、隆弘がタバコの煙と一緒にため息を吐き出した。安心したような表情だ。
リリアンは端正な横顔を見上げて、ニコリと笑う。
「ねえ西野」
「隆弘だ。なんだ」
「ありがとね。昨日も今日も」
男が照れくさそうに口を曲げ、タバコの煙を吐き出した。
「気にすんな」
彼らがホテルに入って警察に通報し、無事家に送り届けられたのは、それから20分後のことだった。
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