第10話 「おい、俺の目を見ろ」

 夕食を食べて二時間後、リリアンはベッドに潜り込んでいた。しばらく横になっても眠れなかったので、仕方なく寝床から這いずり出て本を読む。昼間の出来事で疲れきっていたので専門書を読む気にはなれない。大人しく家から持って来た薄い本を眺めることにした。

 3冊ほど男同士の情事を眺めたところで、リリアンはふと手を止める。

 ベッドサイドに置いてあった携帯が電話の着信を知らせていたのだ。彼女は少し迷ってから、結局本を置いて携帯電話を取る。通知は母親からだった。


「……もしもし」


 電話口から、聞き覚えのある早口が聞こえてくる。


『リリアン? 母さんだけど』


「うん。どうしたの?」


『ジュリアンが貴方に会いたがってるのよ』


「姉さんが?」


『そう。アメリカから帰ってきてるの。あなた、週末に帰ってこれない?』


 女は思わず目を伏せた。幼い頃からのクセだ。特に家族と話すときは顔をあげていられない。怒られそうな気がするから。


「……ちょっと忙しいから無理」


『貴方そんなこと言って、クリスマスも帰ってこなかったじゃない! ジュリアンはこんなことなかったのに……』


「うん。ごめんね。ドリーが熱だしちゃって、いつ治るかわかんないから今週はちょっと無理なの。今から様子見に行くから」


『ちょっとリリアン! まだ話は終ってないわよ!』


 電話口から聞こえる母親の声を無視して彼女は通話終了ボタンを押した。それから本をしまって、大きく背伸びをする。

 色々あってとても疲れているはずなのに、全く眠くならない。脳が興奮しているのか、緊張しているのか、眠っている間に誰かが部屋に侵入したらと思うと怖いのか――どうしても部屋の明かりを消す気になれなかった。

 従順している彼女の耳に、カタン、と小さな音が聞こえる。1階からだ。


「……っ!」


 大げさなほど肩を揺らして息をのんでしまう。

 昼間のこともあって、リリアンはまた話の通じないストーカーでも不法侵入したのではと考えた。しかしよくよく耳をすませてみると、トイレの水を流したような音がしてくる。隆弘かドリーが起きているのだろう。

 時計を見るとすでに12時を過ぎていた。彼女には他人の睡眠時間や生活リズムにどうこういう趣味はないのだが、今は物音が気になる。1階に様子を見に行くことにした。どうせこのまま部屋にいても眠れない。


 リビングに明かりがついていたので覗いてみると、起きていたのはきぐるみパジャマを着た西野隆弘だ。


「西野」


 リリアンが声をかけると、隆弘が顔をあげる。


「隆弘だ。名前で呼べって何回言えばわかる」


 彼はハードカバーの本を読んでいた。タイトルからして経済学の教材だろう。相変わらずタバコを2本咥えている。

 リリアンは、物音の正体を確認したからといって素直に部屋へ戻る気にはなれなかった。せっかくなので疑問に思っていたことを尋ねてみる。


「なんでタバコ2本も吸ってんの?」


 隆弘が本を読む手をとめ、タバコの煙を吐き出す。


「いや、別に」


 隆弘の口がヘの字に曲がっている。視線が女と本の間をいったりきたりしていた。どこか落ち着きがない。

 男の様子をしばらく観察していたリリアンは思う所があって


「あ」


 と声をあげた。


「もしかして機嫌悪いとタバコの本数増える系? そんな増えかた初めて見たぜ。身体に悪そー!」


 隆弘が拗ねたように顔をそらす。


「テメェの胡椒よりマシだぜ。あれ蓮の種みてぇじゃねぇか」


「私蓮コラ結構好きなんだよね。1回受けが蓮コラみたいになる病気のままセクロスするホモ本描いたら引かれたわ」


「おいなんだそりゃ」


「何人かには目覚めたっていわれたけど」


「俺にわかる言語で喋ってくれ」


「私のストレス発散法はホモ漫画描くことだよって話」


「馬鹿じゃねぇのか」


 リリアンが視線をテーブルに移した。可愛らしいカンガルーが表紙のノートと犬のアクセサリーがついたシャーペンが置いてある。ファンシーなお勉強セットの横には隆弘の読んでいるものとは別に分厚いハードカバーが置いてあった。核平和交渉に関する本のようで、他にも同じ題材のコラムが載った雑誌などが置いてある。

 リリアンはとりあえずハードカバーを手にとってパラパラと捲った。


「これも指定図書?」


隆弘は本から目を離さずに答える。


「そりゃ弁論部ユニオンの次の議題だ」


「ああ、ユニオン入ってるんだっけ」


 オックスフォード・ユニオンは在学生の3人に1人が所属していると言われる大型サークルだ。ミニ国会と言うにふさわしいホールで議論を行い、メンバーでなくても会を見学できる。


「私も1回友だちと見に行ったよー!」


「おう、どうだった?」


「人がいなくなったホールのど真ん中で与党と野党の代表同士が絡んでるとこ想像したらめっちゃ萌えた」


 隆弘が呆れたように顔をしかめる。


「見事にディペートには興味ねぇんだな。いっそ清々しいぜ」


「だってすごく本格的なんだもーん! 聞いてるうちにどっちが何しゃべってんのかわけわかんなくなってくるよ」


「別に堅苦しい議題ばっかりじゃねぇんだぜ。再来週には映画俳優がくる予定だし」


「マジで! 海賊兄ちゃんくるって聞いてたけどガチだったんだ!」 


「その呼び方だとのびるほうにならねぇか?」


 リリアンは隆弘の言葉を聞き流すことに決める。


「えーそれ見に行こうかなー」


「そうしとけ。金曜日の昼間だから間違えんなよ」


 女がハードカバーを持ったまま首を傾げた。


「ユニオンって毎週木曜日の夜じゃなかったっけ? 私が見学行ったときは夜の8時半から10時半だった気がすんだけど」


 隆弘は本を読む手を止めずに


「ああ」


 と言って、タバコの灰を灰皿へ落とす。


「木曜日はほぼ毎週やってるぜ。ただゲストの都合に合わせて他の日に開催するときもある」


「そうなんだ。そっか、ユニオンのゲストってすごい人呼ぶからスケジュール調整大変だもんねー」


「お前本当興味ねぇんだな」


「いやあ、医学生って思ったより忙しくてねぇ」


「ホモがどうのとか騒いでる奴のセリフとは思えねぇな」


 リリアンがハードカバーにざっと目を通してテーブルに置く。次に雑誌を手に取った。女の手放したハードカバーを隆弘が取る。


「あっと、もしかして私邪魔だったかな!」


 男がタバコを2本咥えたまま眉をひそめた。


「そんなんじゃねぇよ……お前ちょっと座れ」


「えー」


 軽くソファを叩かれたのでリリアンはあえて男の向かい側に腰を下ろす。


「もしかして眠れないの? 今日いろいろあったし」


 隆弘はリリアンの座った位置が気に入らないようだったが、すぐ無表情に戻り、本にしおりを挟んだ。


「いつもこれくらいの時間は起きてる。お前もだいたい起きてんだろ」


 さも当然のように指摘されてリリアンは思わず天井を見上げた。


「なんで知ってんだよ……」


「家がはす向かいだって言ってんだろ。論文の息抜きにベランダでタバコ吸ってると、お前の部屋の明かりが見えんだよ」


 リリアンが天井を見たままうなる。


「うぅー」


 隆弘が喉の奥で笑った。


「浮かない顔だな。努力を褒められんのは嫌いか?」


 台詞と顔だけは絵になるが、着ているのはクマのきぐるみパジャマだ。リリアンはギャップの固まりを直視して思わず目眩がした。


「……そんなこと努力じゃないだろ。私じゃなくたってやってる。現にお前だって、さっきいつもやってるっていってた」


 隆弘はしばらくリリアンを見ていたが、やがて盛大にため息をついてソファにもたれかかった。そのせいで背もたれにかかっていた毛布がズレる。きぐるみパジャマと同じものであろうクマが印刷されていた。


「おい、俺の目を見ろ」


「え?」


 リリアンが尋ね返したときにはすでに男の腕が伸びてきていて、顔を無理やり正面に据えられる。切れ長の、長いまつげに覆われた目が女を真っ直ぐに見据えていた。


「話するときは人の目ぇ見ろって言ったろ」


 美しいグリーンの中に映ったリリアンは酷く狼狽えていた。隆弘の手が顔から離れると、女は一瞬テーブルに目線を落し、それからゆっくりと顔をあげる。

 隆弘がまっすぐにリリアンを見ていた。


「……眠れねぇのか」


「いや、そういうわけじゃないよ。西野も言ったとおり、私だっていつもこのくらいの時間は起きてるし」


「隆弘だ。お前、ちょっとこっち来い」


「えーなんでだよー」


「いいからこっちこいつってんだろ」


 隆弘が突然ソファから立ち上がり、テーブルを乗り越えてリリアンの脇に腕を入れる。

 彼女は驚いて思わず声をあげた。


「おっ、わぁ!」


 男がリリアンの身体を抱え上げたのだ。彼女の身長は175cmだから、決して低いほうではない。体重だってそれなりにある。なのにギリシャ彫刻は軽々と女を抱き上げ、あまつさえテーブルを乗り越えて無理やり自分の横へ彼女を移動させてしまった。

 腕の中から落されたリリアンの身体が音をたててソファに沈む。


「うっぷす!」


「もうちょっと色気のある声が出せねぇのかお前は」


 憎まれ口をたたいた隆弘が女の隣に腰を下ろした。彼はフン、と鼻を鳴らしたあとタバコの吸い殻を灰皿に押しつけて消火する。

 そうしてソファの背もたれにかかっていた毛布を引っ張って自分の肩にかけた。リリアンの肩にあとの半分をかけて彼女の身体を抱き寄せる。

 予告無しに引っ張られた女は当然驚いて声をあげた。


「うわっ!」


 リリアンの身体が隆弘の横に収まる。男は彼女の驚きを無視して穏やかに目を瞑っていた。


「俺は寝る。テメェも寝ろ」


「部屋で寝るよぅ!」


 リリアンがバタバタと暴れてみても隆弘はびくともしない。彼女はしばらく口を尖らせていたが、結局男に抵抗するのはあきらめた。

 男の腕は女の肩に置かれたままで、ほんのりと暖かい。すぐ耳元で心臓の音が聞こえていた。部屋でベッドに潜り込んでいたときよりもすみやかに眠気がやってくる。

 リリアンは彼が明かりを消したのを切っ掛けに睡魔へ身を任せ、夢の世界へ旅立った。

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