第55話
静かなジャズに混じって、耳に雨音が届き始めた。
外を見ると、少しずつ雨脚が強まってるみたいだ。
「あれー? 雨の予報なんてあったっけ?」
「もしかしてマスター、何か怒ってる?」
マスターがクスリと笑った。
「この雨は……彼女かな?」
カランコロンとドアベルが鳴り、お客さんが姿を現した。
長い黒髪と白いワンピースを着た女性だ。
私はカウンター席から飛び降りて、エントランスに向かう。
「いらっしゃいませ!
『カフェ・ド・ビジュー・セレニテ』へようこそ!
一名様ですか?」
お客さんがニコリと微笑んで応える。
「ええ、そうよ?
――
元気してた?」
マスターの声が聞こえる。
「久しぶり、浅田さん。
またカウンターかな?」
「ええ、もちろん――ブレンド、お願いできる?」
「喜んで」
女性――浅田さんは私の横を通り過ぎてカウンター席に座った。
「あら、可愛らしい店員さんね。
「当店自慢のアルバイトだよ。
みんなよく働いてくれるんだ」
浅田さんがクスリと笑みをこぼした。
「誰が
――そのフォトスタンドの子?」
「さぁ、どうだろう? 当ててみるかい?」
こ、これは?! 大人の会話な雰囲気?!
私たちは口を挟めないまま、すごすごとカウンターの隅に移動した。
マスターが浅田さんの前にコーヒーを置いた。
「今日はどうしたんだい?
いつもなら、もう少し後になるかと思ってたんだけど」
「
「光栄だね。それじゃあ――このクッキーはサービスだ。
ゆっくり楽しんでいって」
「ええ、そうするわ」
しとしとと雨音がする中、なぜかしっとりとした大人の会話が展開されていた。
「何者なの?! あの浅田さんって!」
「知らないよ! マスターに聞いて!」
「聞ける空気じゃないでしょ!」
その後も私たちは、ムーディな空気に押されながらひそひそ話を繰り返した。
****
私たちが見守る中、マスターは静かにお皿を拭いていた。
浅田さんもクッキーを砕いて口に含んでは、コーヒーと一緒に味わっていく。
ジャズの音色と雨の音色が合わさって、アンニュイな店内の空気が近寄りがたさを醸し出していた。
どうする?! 『浅田さんとどういう関係ですか?!』って、聞く?!
一応、私はマスターの恋人なんだし!
聞く権利はあると思うんだけど?!
浅田さんがぽつりと告げる。
「ねぇ
「そんなことはないさ。
今も君は、眩しいくらいチャーミングだ。
それを理解できない相手が悪いんだよ」
ふぅ、と浅田さんがため息をついた。
「それじゃあまるで、『私に男を見る目がない』って言ってるみたいよ?」
「僕を魅力的だと思えるなら、それは杞憂ってものだよ。
浅田さんの趣味は、問題なんてないさ」
浅田さんがクスリと笑った。
「相変わらず、自信過剰なのね」
「事実だから、仕方がないかな」
――こんなマスター、見たことないんだけど?!
コーヒーを飲み終わった浅田さんが席を立った。
「ごちそうさま。
今日も愚痴につき合ってくれてありがとう」
マスターがニコリと微笑んだ。
「君の愚痴くらい、いつでもつきあうよ」
マスターがレジカウンターに入り、ポンポンとキーを叩いて行く。
会計を済ませた浅田さんは、マスターの頬に口づけをして帰っていった。
浅田さんが帰ったあと、私は猛然とマスターに尋ねる。
「今の何?! 浅田さんって、何者なの?!」
マスターが困ったような笑みで応える。
「彼女は『雨女』――当然、『あやかし』だよ。
僕とは昔からよく一緒にいた人なんだ。
雨女は、竜神と縁が深い『あやかし』なんだよ」
「だからって、ほ、ほ、ほっぺにキスとか!」
マスターがおしぼりで頬を拭きながら応える。
「あれは彼女なりの『親愛の現れ』だよ。
彼女、ちょっと湿っぽい人なんだ」
外を見ると、夕日の中で雨粒がキラキラと光っていた。
「マスター、もしかして二股?」
「まさか! 僕の心は
断言されてしまった私は、真っ赤になりながらそれ以上、何も言えなかった。
****
午後八時になり、マスターが告げる。
「みんなお疲れ。もう上がって良いよ」
「はーい」
スタッフルームに駆け込み、
「今日は色んなことがあり過ぎだよー」
「浅田さんにはちょっとびっくりしたわね」
私は思わず突っ込む。
「ちょっとどころじゃないよ?!
恋人の立場が危うくなったんだからね?!
それになに、あのマスターの言動!
あんなマスター知らないんだけど!」
「そりゃあマスターは大人だもん。
子供の
もっと知りたかったら、ふっかぁ~い仲になるしかないんじゃない?」
――深い仲って?!
私が顔を火照らせていると、
「キスもできないお子様には、遠い話でしょうね」
「余計なお世話だよ!」
私たちはゆっくりと着替えながら、荷物を持ってスタッフルームを出た。
****
潮騒が響く暗い夜道を、着流し姿のマスターと歩く。
私の右手が、自然とマスターの左手に伸びていった。
マスターは振り返りもせずに、私の手を握り返してくれる。
私はその手のぬくもりを感じながら、いつもよりゆっくり歩いていた。
突然カシャッという音と一緒にフラッシュがたかれた。
びっくりしてそちらを見ると、
「激写! 夜道で手をつなぐ恋人!」
「ちょっと! 何してるの?!」
「あら、可愛らしくていいじゃない。
嫉妬に駆られて、いつもはしてないスキンシップに手を伸ばす。
素直でいいことだと思うわよ?」
「そんなんじゃないってば!」
マスターが穏やかに告げる。
「ほらほら、住宅街だから騒がないで」
ぐぬぬっ! 言い返したいけど言葉が見つからない!
「
「なんでそういうことするかな?!」
「ほら、『健全なお付き合いをしてる』って証拠に」
「しなくていいよ?!」
ピロン、という音が聞こえて、
「帰宅してからのおったのっしみー」
家に帰るのが! 怖い!
商店街を通り過ぎ、駅前でマスターが告げる。
「はしゃぎすぎて、転ばないようにね」
「う……はーい」
私たちはマスターに手を振って、改札を通った。
****
「ただいまー」
帰宅してダイニングに荷物を置いて、椅子に座り込んだ。
お母さんがリビングからこちらに来て告げる。
「早く着替えてらっしゃい。
その間にご飯、温めておくから」
「はーい」
着替え終えて晩ご飯を食べている私に、お母さんが告げる。
「ところでさっき、
ビクッと私の体が震えた。
おそるおそる上目遣いでお母さんを見る。
お母さんはため息をついて私に告げる。
「こういうの、よくないと思うの」
――手をつなぐのも駄目なの?!
お母さんがスマホの画面を見せてくれた。
そこには――私がバックオープンのワンピースを試着して、赤くなってる姿が映っていた。
「あなたはまだ十五歳なんだし、肌の露出は控えなさい?」
「はい……」
――
私は一安心しながら、美味しい晩ご飯を口に運んだ。
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