第25話

 健二さんが震える声で告げる。


「お前、しゃべれたのか?」


 マスターが微笑みながら応える。


「最初から話していたよ?

 健二は子供の頃から、僕の声を聞くことができなかったね。

 僕を見ることもできない健二は、僕を知らずに育ってきた。

 だから驚くのも無理はないと、理解してあげよう」


 私は横からマスターに尋ねる。


「子供の頃から見てたんですか?」


「ああ、そうだよ?

 健二が生まれた時もそばにいたし、初めて立った時もそばにいた。

 その頃はここを開く前で、割と暇してたからね。

 健二が宿題を忘れて廊下に立たされていた時も、隣で一緒に立ってあげたものさ」


 孝弘さんがポカーンと口を開けていた。


「親父、宿題を忘れたことなんてあったのかよ……」


 健二さんが恥ずかしそうに声を上げる。


「うるさい! あんなもの、小学二年の一回だけだ!

 ――なんで貴様がそれを知っている?!

 親父にすら教えたことが無いのに!」


 マスターが妖艶な笑みを浮かべて応える。


「健二が十歳になるまで、僕は分身のひとつを健二のそばに置いていた。

 だからそれまでのことなら、大抵のことは知っているよ。

 健二が学校で先生のことを『お母さん』と言ってしまったのもね」


 健二さんの顔が真っ赤に染まっていた。


 あー、いるよね。小学校に上がってすぐだと、間違えちゃう子。


 男の子に多かったような気がする。


「ねぇマスター、なんで『十歳まで』なの?」


かんなぎの力は、十歳まで大きく成長を続ける。

 巫力ふりょくが育てば、僕を見ることができるんじゃないかと思ってね」


 健二さんが真っ赤な顔でマスターを睨み付けて告げる。


「貴様、何者だ」


 マスターは妖艶な笑みのまま応える。


小金井こがねい辰巳たつみ――この喫茶店『カフェ・ド・ビジュー・セレニテ』のマスターだよ。

 君たちの氏神であり、竜神であり、この神社の祭神でもある。

 ここは僕が神社に作り出した幻の店。

 存在すれども実在はしない、『幻の喫茶店』さ」


「神だと?! 証拠を見せてみろ!

 まさか、そのカラーコンタクトが神の印だとでも言うつもりか?!」


 マスターがふぅ、と小さく息をついた。


「まだ頑張るのかい?

 健二は昔から強情だったけど、年を取ってからはそれが増したね。

 ――じゃあ、これならどうかな?」


 ニコニコと微笑むマスターが、静かに健二さんを見つめていた。


 きょとんとした健二さんが口を開く。


「貴様、何がしたいんだ?」

「貴様、何がしたいんだ?」


 健二さんと同じタイミングで、マスターが同じ言葉を告げた。


 呆然とする健二さんが、再び口を開く。


「まさか、それで神の印のつもりか?」

「まさか、それで神の印のつもりか?」


 二人の声が、また同時に響いた。


 真っ赤になった健二さんが、口を開く――よりも早くマスターが告げる。


「そんな奇術で俺を騙せると思ってるのか」


 あっけに取られた様子の健二さんに、マスターが続ける。


「こいつ、俺の考えが読めるのか?」


「馬鹿な、そんなことあるわけが」


「やめろ、俺の考えを読むんじゃない」


「やめろやめろやめろ、俺をその目で見るな」


 健二さんが両腕で隠れるように身を縮めて叫ぶ。


「もうやめてくれ! わかったから! 認める! あんたが神だと認める!」


 息を荒げた健二さんの肩を、浜崎のお爺さんが叩いた。


「ハッハッハ! 良かったな、健二。穏便な方法で。

 辰巳たつみがその気だったなら、お前が隠している『絶対に知られたくない秘密』も簡単に暴かれていたぞ?

 こんな大勢の客の前で、そんな醜態をさらさずに済んだな」


 マスターが穏やかな声で告げる。


「コーヒーでも飲んで落ち着くといい。

 今の健二は朝陽あさひさんと同じ味覚になっているからね。

 とても美味しいコーヒーを味わえるはずだ」


 そう言ったマスターが、トレイからケーキを健二さんと浜崎のお爺さんの前に置いた。


 お爺さんが瞳を輝かせながら告げる。


「どれ、噂のケーキとやらを味わうとしようか。

 ――おお?! これは、本当にショートケーキなのか?!」


 一口食べただけで、浜崎のお爺さんは感激で体を震わせていた。


 それを見た健二さんも、おそるおそるケーキにフォークを入れる。


 ゆっくりとケーキを口に運んだ健二さんが、目を見開いて絶句していた。


「……なんだ、これは」


 私がニコリと微笑んで応える。


「見ての通り、ショートケーキですよ?

 お守りが無いと、味気なく感じるらしいです。

 私はいつも、その味しか感じないのでわからないですけど」


 健二さんが、今度はコーヒーにゆっくりと口をつけた。


 口に含んだ瞬間、目を固くつぶって体を震わせている。


 健二さんがコーヒーを飲み込むと、深いため息をついた。


「……これがコーヒーだと? 今まで飲んだことがない飲み物だぞ」


「そうなんですか? でも、甘くて美味しいですよね!」


 マスターが楽しそうな声で告げる。


「ストレートも飲んでみるかい?

 そちらの味も、格別な味わいになってるよ?」


「……いや、いい。

 それはまた、次の機会にとっておく」


 ――『次の機会』?!


 健二さんが小さく息をついて、店内を見回していた。


 来店客のあやかしたちは、それぞれのメニューを楽しみながら健二さんを見守っていた。


「こんな世界があったんだな。

 それも、こんな身近に」


 その顔はさっきまでと違う。


 意地を張ってた人は、もういなかった。


 同じ人とは思えないほど、力が抜けた穏やかな表情だ。


 浜崎のお爺さんが楽し気に告げる。


「どうだ、世界が変わっただろう?

 お前が今まで見て来ていた世界が、どれほど小さく狭かったことか。

 ――これはどんな物事でも同じだ。

 見える範囲でわかることなど、それほど多くはない。

 見えないことを感じられるようになれ。

 思いを馳せ、そこにあるものを感じ取るんだ」


 健二さんは穏やかな顔でケーキを楽しみ、コーヒーを味わっていた。


「親父はこの世界を守るために、神社を守ってきたのか」


「そういうことだ。

 いつか潮原しおはらの住民にも、この味を提供できたらな。

 それが叶わぬ望みだとわかっていても、願わずにはいられないよ」



 ケーキとコーヒーを味わい終わった健二さんが、浜崎のお爺さんに告げる。


「この店のことはわかった。

 俺にできることなら、今後の支援を約束する。

 ――だが金曜日の様子じゃ、我が社が潰れるのも時間の問題だ。

 いつまで神社を維持できるか、それは約束できない」


 背後から透き通った声が聞こえる。


「あら、それは大丈夫よ」


 カツカツとローファーで近づいてくるのは――財部たからべさんだ。


 健二さんの目が財部たからべさんを見る。


「あんたは?」


 財部たからべさんがにんまりと微笑んだ。


財部たからべですわ。

 あなたには弁財天と言えば、少しはわかるかしら。

 金曜日はちょっと相場を操作させてもらったの」


 健二さんが苦笑を浮かべて応える。


「今さら弁財天程度で驚きはしないが。

 そういえば、弁財天は財運の神でもあったな」


「ええそう、その通りよ?

 健二を動揺させるために、ちょっといたずらさせてもらったの。

 でも安心して?

 月曜日には、元通りにしておくから」


「ははは、さらっととんでもないことを言ってのける。

 株式相場や先物相場を、元に戻すと言ったのか」


「そうよ? その程度はなんてことはないわ。

 ――もっとも、こんな力の使い方は今回だけ。

 伊勢佐木いせざきさんの力を借りて、ようやく実現できたこと。

 同じことをまたやれるとは思わないでね」


 私は微笑む財部たからべさんの顔を見て尋ねる。


「そんなに力を使ったんですか?

 それに私、マスターに力を貸しただけですよ?」


 財部たからべさんは私にウィンクを飛ばして応える。


「あなたの血の力で、今の辰巳たつみは大きく力を増してるの。

 今の私も辰巳たつみから直接、力の供給を受けてるわ。

 だけど維持できても月曜日くらいまで、それが限界よ」


「そんなに頑張ってくれたんですか? なんで?」


 助けてくれる理由なんて、全然思い当たらないのに。


「だって伊勢佐木いせざきさん、『神社を守りたかったら嫁に来い』なんて言われたんでしょ?

 そんなの私は納得できないわ。

 時代錯誤も甚だしい、とんでもない話よ。

 それをぶち壊すためなら、いくらでも助けてあげる」


 ――この人、思ったより優しい?!


 そういえば、マスターも『根はやさしい人』って言ってたっけ。


 私は財部たからべさんの優しい微笑みを見ながら、胸が熱くなっていた。

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