第3話

 午後六時を過ぎ、外はすっかり暗くなっていた。


「あの、マスター? シフトって何時までなんですか?」


 マスターが眉をひそめて困っているようだった。


「平日はせいぜい四時間、遅くても午後八時くらいまでかな。

 休日は九時に入ってもらって、午後六時まで。

 なんせ君は、高校生だからね」


 あ、そういうルールがあるんだ?


「へぇ~、初めて知りました。

 高校生って細かく決められてるんですね」


「そうなんだよ。

 でも君には時々、夜の時間にも入ってもらえたら……って思ってる。

 それでも午後十時までが限界だけどね」


 私はきょとんとしてマスターを見つめた。


「どうして夜に入って欲しいんですか?」


「『夜にしか来れない客』が居るからだよ。

 日が出てるうちは、来店できないんだ」


 私は困惑して眉をひそめた。


「変なお客さんですね?

 なんで夜しか来れないんです?」


「うん、まぁ、人目があると外を出歩けないからね」


 どういう意味だろう……。


「でも今日はそういう客も来ないだろう。

 まだ君は試用期間で、雇用契約書にサインしてないからね。

 来たくても来れないはずだ」


 ますます意味がわからない……。


 クスクスと笑うマスターが、カウンター席に座る私の前にコーヒーが入ったカップを置いた。


「はい、これはご褒美。

 初日お疲れ様。

 これを飲んだら、駅まで送るよ」


 そう言うとマスターは、スタッフルームの中に消えていった。



 私はミルクとお砂糖を入れたコーヒーを一口飲んで、その香りに酔いしれていた。


 香ばしい香りと一緒に、ふくよかなコクが口に広がっていく。


 コーヒーって、こんなに美味しかったのかぁ。


 コクコクとコーヒーを味わっていると、カランコロンとドアベルが鳴った。


 『えっ』と思って振り向いてみると、そこには全身が透けて見えるサラリーマンが立っていた。


「きゃーーーーーー! マスター! おば、お化け!」


 私はあわててカウンター席から飛びのいて、スタッフルームに駆け込んだ。





****


 スタッフルームの中では、上半身裸のマスターが居た。


 思わずその筋肉美を堪能してしまう。


 細身に見えて、意外とがっしりしてるんだな……。


「……伊勢佐木いせざきさん? お化けって?」


 ハッと我に返り、必死にマスターに告げる。


「あの! サラリーマンのお化けが、お店に!」


 マスターは眉根を寄せて困惑してるみたいだった。


「もう来たのかな?

 試用期間中に来るだなんて、よっぽどのことだ。

 ちょっと伊勢佐木いせざきさん、お水だけ出してあげて」


「……はい?」


「だから、『店員としてお仕事しておいて』ってこと」


「なに言ってるんですか?! お化けですよ?!」


「でも、お客さんだよ?

 それなら店員がやることは接客だからね」


 そう言いながら、マスターは青い着物を羽織って帯で結んでいた。


 なんでそんなに余裕なの?!


 動けない私を見て、マスターがふぅ、と小さく息をついた。


「わかった、僕が接客するから、そばで見ておいて。行くよ」


 そういうと、マスターはスラックスの上に着物を羽織った状態でスタッフルームから出ていった。


 取り残されても怖い私は、マスターの背中に追いすがるようにスタッフルームをあとにした。





****


 マスターがお水を用意してトレイに乗せ、お化けが座る席へと運んでいく。


 その後ろに隠れながら、私は付いて行った。


「佐々木さん、どうしたの? 久しぶりじゃない」


 お化けが顔を上げ、マスターを見て微笑んだ。


「なんだか今日は、この店からコーヒーの香りがしたからね。

 新しい店員さんが来てくれたのかなって、居ても立ってもいられなくて」


 お化け――佐々木さんは、無害そうな笑顔で笑っていた。


 私はおずおずとマスターに尋ねる。


「あの……お知合いですか?」


「常連客の一人だよ。

 いつもはお盆の頃にしかやってこれないんだけどね。

 伊勢佐木いせざきさんが居たから、引き寄せられたかな」


 お盆って……それは幽霊なのでは?


 だけど佐々木さんは、体が透けてる以外は普通の人間と変わらないように見えた。


 お水を一口飲んだ佐々木さんと、思わず目が合う。


 どうしていいかわからず、愛想笑いでニコリと微笑む。


 佐々木さんも、ニコリと微笑んでくれた。


 マスターが私に告げる。


「じゃあ、ちょっとコーヒーを入れてくるから、それまで佐々木さんのそばにいてあげて」


「ええ?! 私を一人にするんですか?!」


「ハハハ! 店内にはちゃんといるから、安心して」


 安心しろって言われてもなぁ~?!


 佐々木さんが楽しそうに私に告げる。


「新しい店員さんは、随分と元気な子だね。

 これだけ元気な子なら、私も良い気分になれそうだ」


 私は何と言っていいかわからず、愛想笑いを浮かべながら、じわじわと後ずさっていた。


 幽霊なんて初めて見た……。


 普通に受け答え、できるものなんだなぁ。


 でも突然襲い掛かられたら――。


伊勢佐木いせざきさん?」


「きゃー!」


 背後からマスターに話しかけられ、思わず悲鳴が口に出た。


「あはは、大丈夫。

 このお店は、悪い『もの』は近寄れないから。

 安全なんだよ」


 そう言いながら、マスターは佐々木さんの前にコーヒーを置いた。


 佐々木さんは嬉しそうにコーヒーを一口飲み、二口飲み、感慨深げにため息をついた。


「はぁ。久しぶりだね、ここのコーヒーも」


 マスターが小さく息をついた。


「そんなにお墓参り、してもらってないのかい?」


「ハハハ、仕方がないよ。

 私が死んで、もう二十年が過ぎた。

 家族は今の生活に一生懸命で、足しげく墓に通うことなんてないさ」


 そう言いながらも、佐々木さんは美味しそうにコーヒーを飲んでいた。


「――ふぅ。ごちそうさま。

 店員さんのおかげで、今日はとても美味しいコーヒーが飲めた。

 これで最後にできそうだ」


 私は思わず尋ねてしまう。


「あの、最後……って?」


 マスターが私の背後から応える。


「佐々木さんの未練がなくなるって意味だよ」


 未練……?


 佐々木さんが立ち上がるのに合わせて、私はマスターの背中に隠れた。


 そのまま佐々木さんはレジに向かい、マスターがレジカウンターに入る。


 佐々木さんは財布を取り出すこともなく、レジの前に立ち尽くしていた。


 不思議に思ってると、マスターが昼間と違ったキーの叩き方をしていく。


 あれ? 教わったのと、値段が違う?


 マスターが決済キーを押すと、佐々木さんの体から『何か』、見えない『もの』がレジに吸い込まれて行った。


 佐々木さんの体がほとんど見えなくなるほど薄くなり、彼はニコリと微笑んだ。


『これでもう、未練はない。

 ありがとう店員さん。

 長い間ありがとう、マスター』


 そのまま佐々木さんは、ドアを開けて外へと出ていった。





****


 私は呆然としながら、一部始終を見ていた。


 幽霊の、お客さん?


「マスター、佐々木さんは最後、何をしたんですか?」


「お会計だよ? 見ていただろう?」


「お化けなのに、お金を払うんですか?

 でも、何も払ってませんでしたよね……」


「『人間じゃない』お客さんからは、別の物を頂くんだ。

 死んだ人からは、この世の未練をお代としてもらってる。

 そうして未練が無くなったお客さんは、この世から消えるんだよ」


「……消えちゃうんですか?」


「そうだよ?

 死んだ時に魂から分かれた『人間の名残』、それが君たちの言う『幽霊』だ。

 彼らは未練がある限り、地上に残り続ける。

 そんな彼らの未練を昇華させて、地上から解き放ってあげるんだ」


「じゃあ、魂はどうなるんですか?」


「うーん、それは僕にも分からないかな。

 どこか『高いところ』に登っていくみたいなんだけど。

 少なくとも、地上じゃない『どこか』だよ」


 私は聞いてるうちに怖くなって、マスターに尋ねる。


「このお店って、お化けも来るお店なんですか?」


 マスターが私にニコリと微笑んでうなずいた。


「ここは竜神が経営する、特別な店だからね。

 ――ああ言い忘れたけど、僕は竜神。神様だ」


「――は?」


 私は頭が真っ白になったまま、マスターの琥珀の瞳を見つめていた。

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