第56話

 ご飯のあと、ゆっくりとお風呂につかりながら自分の手を見る。


 ……この手が、マスターの手を握っちゃったんだなぁ。


 今まで『握られた』ことはあったけど、『握った』ことはなかった。


 どうしてあんなこと、しちゃったのかな。


 自分が『知らない自分』に変わっていくようで、少し怖い。


 でも『その先』を見たくて、ドキドキしてる自分もいる。


 手をつなぐ先って、なんだろう?


 ――もっと知りたかったら、ふっかぁ~い仲になるしかないんじゃない?


 早苗さなえ! こんなところまで割り込んでこなくていいから!


 私はお湯をバチャバチャいわせて顔を洗い、ふぅと一息ついた。


 結婚か。マスターと結婚したら、私はどうなっちゃうんだろう。


 マスターは『人間と同じ愛』だって言ってた。


 でもその意味も、子供の私にはよくわからない。


 お風呂上りに、マスターに聞いてみようかな。


 ……いけない、少しのぼせてきた。



 私はお風呂から上がり、髪を乾かしてから自分の部屋に戻った。





****


 ベッドサイドのスマホを手に取り、マスターへのメッセージ画面を開く。


 思えば、メッセージを送るのはこれが初めてだ。



朝陽あさひ:ねぇ、『人間の愛』と――



 そこまで打ったところで、指が止まった。


 このメッセージ、送信したらどうなっちゃうんだろう。


 私とマスターの関係、変わっちゃうのかな。


 しばらく考えて、私は秀一さんへのメッセージ画面を開く。



朝陽あさひ:聞きたいことがあるんだけど。


秀一:言ってみろ。



 返事が来た。


 指が慎重に文字をタップしていく。



朝陽あさひ:『人間と同じ愛』って、何?


秀一:神の愛は『見守る愛』だ。


秀一:人の愛は『与える愛』と『求める愛』だ。


秀一:辰巳たつみの愛は、その全ての性質を持つ。



 ……さっぱり意味がわからない。



朝陽あさひ:わかるように教えて。


秀一:お前もいつか辰巳たつみを愛する日が来る。


秀一:その時お前は、辰巳たつみと同じ愛を持つだろう。



 むーん、やっぱりわからない。


 ――メッセージが届いた。



秀一:今は気にするな。そのうちわかる。


朝陽あさひ:ありがと。



 私はスマホを枕元に置いて、布団に潜り込む。


 私がマスターを愛する日、かぁ。


 愛って、どんな気持ちなのかなぁ。


 この胸の中にある気持ちとは、別物なのかなぁ?


 考え事をしていた私は、いつしかゆっくりと眠りに落ちていった。





****


 朝の通学路、いつものように青い着流しのマスターと会う。


 う、なんか気まずい……。


 うつむき気味に近づいて行くと、マスターが私に青い巾着袋を差し出す。


「はい、お弁当。

 今はきちんと食べて、倒れないようにね。

 辛いときは、いつでもバイトを休んでいいから」


 思わず顔を上げて、マスターを見上げる。


「――大丈夫! 休まなくても平気だよ!」


 マスターがニコリと微笑んだ。


「そう? でも、無理はしないでね」


 ひらひらと手を振りながら立ち去るマスターの背中を、私はぼんやりと眺めていた。





****


 お昼休み、お弁当を食べながら早苗さなえたちに相談する。


「愛って何だろう?」


 早苗さなえ歩美あゆみが、ペットボトルのお茶でむせていた。


「――朝陽あさひ、あんた何か悪いものでも食べた?!」


「何を思い悩んでるかと思えば……」


 私は唇を尖らせて告げる。


「しょうがないじゃん、気になったんだから。

 二人は答えを知ってるの?」


 早苗さなえがため息交じりで告げる。


「知ってるわけないじゃん。私らにはまだ早いもん」


 歩美あゆみがフフンと笑って告げる。


「少しくらいなら教えてあげましょうか?」


「――ホント?!」


 私の勢いに少し引き気味の歩美あゆみが、小さくうなずいた。


「『相手に何かをしてあげたい』って思ったら、それが愛よ」


 早苗さなえがニヤニヤと笑って告げる。


「まーた大人ぶって。

 聞きかじった知識で愛を語ってると、恥をかくよ?」


 ――それって、『与える愛』ってことかな。


「じゃあ、『求める愛』ってなんだろう?」


 急に顔を真っ赤にした歩美あゆみが、プイッと横を向いた。


「そういうのは、マスターにでも聞いて!」


 ……なんで恥ずかしがってるの?



 結局、早苗さなえたちからはそれ以上聞き出すことができなかった。





****


 『カフェ・ド・ビジュー・セレニテ』に入り、カウンターのマスターと目が合う。


 マスターは嬉しそうに私を見つめて微笑んだ。


「おはよう、朝陽あさひ


「おはようございます……」


 そっと青い巾着袋をカウンターの上に置き、「ごちそうさま」と告げる。


 マスターはそれを受け取ると、「うん、全部食べてくれたね」と微笑んだ。


 お弁当箱を洗い始めたマスターに、私は尋ねる。


「ねぇマスター、私とマスターが『結婚する』って、どういうこと?」


「前に『神と巫女が婚姻する』という話はしたよね。

 覚えてるかな?」


 私は黙ってうなずいた。


 生涯を神にささげ、神に尽くして終わる。


 それが『神と巫女の婚姻』。


 マスターが私を見て告げる。


「基本的には、それと変わらないよ。

 朝陽あさひが居なくなるまで、僕がそばにいる。

 ――でも僕は、人のように愛を交わすこともできる」


「それって、どういうこと?」


 マスターが優しい眼差しで私を見た。


朝陽あさひと僕の間に、子供を作ることができるんだ」


 ――それはまさかっ?!


 思わず熱くなった顔を、両手で覆い隠してしまった。


 頭から湯気を出す私に、マスターが告げる。


「僕のように『愛が変質した神』は、半神の子供を残した。

 これは古い神話で逸話が残されているね」


 私はおそるおそるマスターに尋ねる。


「マスターは……その……子供、欲しいの?」


「それはいつか、朝陽あさひが欲しいと思った時に与えるだけだよ。

 朝陽あさひが欲しくないなら、僕も欲しいと思わない。

 最後まで一緒にいてくれれば、僕はそれだけで満足なんだ」


「……着替えてきます」


 私は顔を隠しながら、スタッフルームへ移動した。





****


 火照った顔で着替えていると、早苗さなえが横から告げてくる。


「高校卒業したら結婚出産でお母さんか。

 忙しそうだけど、頑張ってね」


「――なんでそういう話になるのかな?!」


「だってさっき、そういう話をしてたじゃん。

 いいよねー、マスターの子供なら、間違いなく美形だよ」


 歩美あゆみはもう着替え終わって、ロッカーの扉を閉めた。


「在学中の『おめでた婚』は止めておきなさい?

 さすがに潮原しおはらにいずらくなるわよ?」


「――子供産まないから!

 なんでそう話が飛躍するの?!」


「神様が夫とか、一生安泰じゃない?

 財部たからべさんや浜崎家が支援してくれるから、生活が破綻することもない。

 バラ色の人生じゃないの」


 そんなこと言われても、結婚もわからないのに子供とか言われても……。


 私がうつむいていると、早苗さなえが小さく息をついた。


「別に、『すぐに子供が欲しい』って言われてる訳じゃないよ?

 高校卒業で結婚して、二十歳ぐらいになってから産めばいいじゃん。

 そのくらいで子供を産む人、そんなに珍しくないよ」


 歩美あゆみが「私は先に行くわね」とスタッフルームを出ていった。


 おっと、早く着替えないと。


 早苗さなえ歩美あゆみの後を追うように「先に行くね」とスタッフルームを出ていき、一人きりになる。


 思わず手が止まり、自分の将来を考えてしまった。


 大学に行かずにマスターと結婚して、このお店で働いて行く自分。


 それはなんとなく想像がついた。


 でもきっとお母さんは『大学くらい出ておきなさい』って言う気がした。


 大学を出た私の前には、結婚するか就職するかの二択が待っている。


 私は、どちらを選ぶのかな……。


 外から早苗さなえが「朝陽あさひー? どうしたのー?」と尋ねてきた。


 おっといけない、仕事仕事!


 あわてた私は手早く着替えを済ませて、スタッフルームを飛び出した。

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