第11話

 三井さんが席から立ち上がった。


「ごちそうさん。美味しかったよ」


 レジの前に移動する三井さんを、早苗さなえ歩美あゆみは避けるように後ずさった。


 それを見た三井さんが、楽しそうに笑い声をあげる。


「ハハハ! 早く慣れられると良いね、お嬢さんたち。

 また飲みに来るよ」


 早苗さなえたちは、何も言わずにおずおずとうなずいていた。


 レジカウンターに入ったマスターが、カタカタとキーを叩いていく。


 三井さんからも見えない『何か』がレジの中に吸い込まれ、「ごちそうさん」とマスターに告げて、三井さんは店を出ていった。


 三井さんの姿がすっかり見えなくなってから、早苗さなえ歩美あゆみがへなへなと床にくずおれた。


「なんだったの、あれ……」


「わかんない……」


 私は二人に手を差し伸べながら告げる。


「ふたりとも大丈夫?」


 早苗さなえが涙目で私を見上げた。


「なんで朝陽あさひは平気なの?!」


「んー、何度か接客してたら慣れちゃった」


 歩美あゆみも涙目になっていた。


「慣れられるの?!」


「怖がる必要が無いってわかったら大丈夫だよ。

 困った時はマスターが間に入ってくれるし」


 二人が私の手を握って立ち上がる――まだ手が震えてるな。


 マスターがカウンターの中に入り、何かを作っていた。


 そしてコトリとカップを三つ出してくる。


「ミルクティーだよ。

 気分を落ち着けてくれる飲み物だ。

 それを飲んで、一休みしていなさい」


 私たちはカウンター席に座り、ゆっくりとミルクティーを口に含んだ。


 ――あっまい! とろける濃厚な甘さが、ココアみたい!


 ふわりと鼻をくすぐるこの匂い……これはハチミツ?


「マスター、これハチミツが入ってるの?」


 マスターがクスリと笑った。


「ハニーミルクティーだよ。

 大騒ぎして、少し疲れただろう?

 次のお客さんは夜まで来ないと思うから、今のうちにね」


 私はコクコクとハニーミルクティーを味わいながら、早苗さなえたちの様子を窺ってみた。


 二人もミルクティーの香りで落ち着いたのか、手の震えが止まったみたい。


 時々「ほぅ」と小さく息をついて、ハニーミルクティーを味わっていた。





****


 カウンターから早苗さなえが奥のステンレス製の機械を見てマスターに尋ねる。


「これってエスプレッソマシンですか?」


「そうだよ?

 ブレンドとエスプレッソ、カプチーノを作れる機械だ。

 手でドリップするのは、ちょっとしたコツが要る。

 だけど機械なら失敗はしないし、君たちはこれを使うといいかもしれないね」


 私は疑問に思ってマスターに尋ねる。


「手で入れるコーヒーと、機械で入れるコーヒーで味が変わるの?」


「うちのコーヒーの味は、僕の込める神通力で変わるからね。

 手でじっくりドリップした方が味わい深くなるんだ。

 でもその機械にも神通力は通してあるから、だいたいのお客さんは満足してくれると思うよ」


 なるほど……そういう仕組みなのか。



 それからマスターは、お客様トイレの掃除の仕方を教えてくれた。


 ほうきで掃いて、ゴミを捨てたらモップで拭く。


 濡れてたら先にモップ掃除と、なんだかややこしい。


 ゴミはスタッフルームのゴミ箱を利用するらしい。


 集めたごみは袋を閉じて、そちらのごみ箱に捨てておけばいいと言われた。


「このゴミ箱の中身はどうするの?

 だってここ、幻の喫茶店でしょう?」


 ゴミ集積場に勝手に出してたら、怒られないのかな?


 マスターが楽しそうに目を細めた。


「ハハハ! ここは登記上、きちんと喫茶店として登録されている。

 税金も払ってるし、町内会費も払ってるよ?

 だからゴミを出しても大丈夫だ」


「幻の喫茶店なのに、そんなことができるの?」


 マスターがチャーミングなウィンクで応える。


「そこは『協力者』がいるからね。

 僕の代わりに手続きをしてくれる人が居るのさ。

 人の世に混じって生活してるあやかしも、結構いるんだよ?」


「ほぇ~~~~。なんだか『世界の裏側』を知った気分」


「ハハハ! 実はそういうことなんだ!

 この世は案外、『不思議で満ちている』ってね」


 歩美あゆみがマスターに尋ねる。


「税金も払ってるって、収入はどうしてるんですか?

 だってここ、こんなに暇じゃないですか」


 店長が妖艶な笑みで応える。


「そこは『大人の秘密』って奴さ。

 君たちが知るには、まだ早いかな」


 歩美あゆみは真っ赤になって黙り込んでしまった。





****


 一通りの研修が終わり、時計の針は午後七時を過ぎていた。


 ……そろそろかな?


 カウンター席でくつろいでいると、カランコロンとドアベルが鳴る。


 早苗さなえがドアに振り向いて「いらっしゃいませー!」と声を上げ、その表情のまま固まっていた。


 その様子に小首をかしげた歩美あゆみも、ドアを向いて表情が凍り付く。


 私もゆっくりと振り向き、笑顔で「いらっしゃいませ!」と告げ、入り口に向かった。


 入店してきたお客さんは全身がずぶ濡れ、長い髪で顔を隠した女性。


 うっすら透き通っているので、幽霊だろう。


「『カフェ・ド・ビジュー・セレニテ』へようこそ!

 一名様ですか?」


 無言でうなずく女性に手で席を示し、「こちらへどうぞ」と案内する。


 女性はびちゃり、びちゃりと音をさせて、床を濡らしながら歩いてきた。


 椅子に座る時も辺りに水がまき散らされ、床が水浸しだ。


「……ブレンドと、チーズケーキ」


「かしこまりました!

 ――マスター! ブレンドとチーズケーキお願いしまーす!」


 テキパキとお水を用意し、女性の前に置く。


 そのままカウンターに戻ると、早苗さなえ歩美あゆみは両手を合わせて震えてるみたいだった。


「……どうしたの? そんなに怖がって」


 早苗さなえが震える声で告げる。


「だ、だ、だって! あれって、幽霊じゃないの?!」


「幽霊だよ?」


「なんで濡れてるの?!」


 私は小首をかしげた。


「さぁ? ――マスター、あのお客さんはなんで濡れてるんですか?」


 マスターが困ったような笑みで応える。


「そういうお客さんのプライバシーに関することは、言わない主義なんだ。ごめんね」


 わたしはちょっと考えてから尋ねる。


「じゃあ、濡れた床はどうするんです?」


「すぐに乾くから大丈夫。

 気になるなら、モップで拭きとってあげて」


 そっか、乾くのか。


 でも試しに、モップで拭きとってみよう!


 私は入り口からお客さんの近くまでを、丁寧にモップで水気を拭きとっていった。


 お客さんがぼそりと告げる。


「……ごめんなさいね、濡らしてしまって」


「大丈夫です! これも仕事ですから!」


 ニコニコと応えると、お客さんもニコリと微笑んでくれた。


 モップを片付けてからカウンターに戻ると、コーヒーとケーキが用意されていた。


 マスターが告げる。


「それじゃ清水しみずさん、今度は君ね」


「――幽霊の接客ですかぁ?!」


 マスターが穏やかに早苗さなえを見つめた。


「これに対応できないなら、バイトは諦めてもらうよ?

 無理をする必要はないから、よく考えて」


 早苗さなえ歩美あゆみと私を見てから、深呼吸をした。


「――よし、女は度胸! やってやろうじゃない!」


 早苗さなえは震える手でトレイを用意し、コーヒーとケーキを乗せた。


 カタカタという音をさせながら、早苗さなえがゆっくりとお客さんに近づいて行く。


「ご、ご、ご、ごゆっくり……どうぞ」


 おそるおそるコーヒーとケーキを置いた早苗さなえが、あわてた様子でカウンターまでダッシュで戻ってきた。


 マスターが困った笑みでお客さんに告げる。


「ごめんね、土屋さん。

 今日入ったばかりの子なんだ。

 お詫びにブレンドのお替りは無料にするよ」


 濡れそぼったお客さん――土屋さんはゆっくりと首を横に振った。


「……構わないわ。

 私の見た目って、怖いでしょう?

 なんとか、したいんだけどね」


 なんだか悲哀を感じる様子で土屋さんは応えた。


 私はマスターに振り返って尋ねる。


「どういう意味?

 自力じゃ姿を変えられないってこと?」


 マスターが眉根を寄せて悩んでいた。


「う~ん、なんて言おうかな。

 ……未練がある幽霊はね、死んだ時の姿に固定されやすいんだ。

 未練が強ければ強いほど、『その瞬間』が焼き付いちゃってね」


 未練が強い幽霊……。


「土屋さんって、どんな幽霊なの?」


 言葉に悩んでいる様子のマスターに、土屋さんが声をかける。


「構わないわよ、言ってしまっても」


 マスターがふぅ、と小さく息をついた。


「土屋さんはね、海難事故で亡くなった人なんだ」


 私たちは、時間が止まったように硬直していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る