02 設営

 母屋の裏手に回り込むと、山林に林道が開かれている。

 母屋が目隠しとなっているため、何も知らない旅行者やキャンパーがこちらの林道にうっかり迷い込むことはないだろう。なおかつ、こちらの山に車で踏み込むには、この林道を使うしかなかったのだった。


 これはいったいいつの時代に切り開かれたものであるのか、ぎりぎり車が一台通れるていどの隘路である。頭上にはブナや楡の枝葉が覆い被さって、木漏れ日が幾何学模様を描いていた。


 そちらの林道を時速三十キロの安全運転で五分ほど進むと、急に勾配がきつくなってくる。周囲の様相に大きな変化はないが、林道から山道に切り替わったのだ。

 そしてさらに、十分ほどが経過すると――ふいに、緑が深くなった。


(なるほど。ここからかぁ)


 緑が深くなったのは、異界とシンクロした領域に踏み入ったためである。

 木々の密集具合にそこまでの差は感じられなかったが、明らかに二月の本州には不似合いな原色の花や、妙に鮮やかなエメラルドグリーンの蔓草などが目につくようになっていた。


 咲弥は二日前にも、逆の進路から同じ光景を目にしている。

 ドラゴンとキャンプ料理を楽しみ、テントで就寝し、翌朝に山を下りたとき、異界の要素がふっと消え去るのを感知したのだ。

 とりあえず、二つの世界の山が融合しているのは、一合目あたりからであるようであった。


(これならまあ、田辺のばっちゃんたちも心配ないか)


 こちらの山村に住まう人々は、麓の山林で山菜や茸を収穫しているのだ。

 もちろん異界と融合している領域にまで足を踏み込んでも、咲弥以外の人間は何も感知することができないわけであるが――異界の住人たちのほうは、こちらの人間を感知できるのである。


「その点に関しては、トシゾウからも懸念を伝えられていた。よって、トシゾウが使用する道の他は、結界を張ったのだ。そちらの道を使わずして、この山に足を踏み入れることはできん」


 三日前、ドラゴンはそのように語っていた。

 咲弥が心配するような話は、この二年弱ですっかり解決していたのである。


(安全の確保はもちろん、山菜採りだってこれまで通り楽しんでほしいもんな。さすがじっちゃんは、ぬかりがないや)


 そんな思いを噛みしめながら、咲弥はどんどん車を走らせた。

 三日前にキャンプを楽しんだ空き地も通り過ぎて、さらに山道をのぼっていく。この山道は三ヶ所のキャンプスポットに通じているので、本日は異なる場所を目指す所存であった。


 そうして目的地に到着したのは、家を出てから三十分ほどが経過したのちのことである。

 時速三十キロで三十分ということは十五キロほど走った計算になるが、山頂に向かって直進したわけでもないので、せいぜい三合目のあたりであろう。とにかくこちらの山は、広大であるのだ。そして、長年にわたって所有していた祖父とて、この山道沿いの場所ぐらいしか足を踏み入れたことはないはずであった。


 そちらのスポットは、直径十メートルぐらいの空き地になっている。

 何か見どころがあるわけでもないが、標高が上がれば上がるほど空気は澄みわたるように感じられた。

 足もとは、土の地面に点々と雑草が生い茂っている。

 咲弥が見る限り、おかしなものがひそんでいる様子はなかった。


(まあ、ドラゴンくんの鱗を持ってれば、おかしなもんは近づいてこないって話だったけど……わけのわからん植物が茂ってたら、それだけで落ち着かないしなぁ)


 そちらの空き地を取り囲む樹木にも、やはり見慣れない花が咲き乱れている。

 やたらと毒々しい色合いをしたハイビスカスのような大輪や、触手のような花糸を垂らした巨大チューリップや、色とりどりの花弁がねじれるように絡み合って万華鏡のごとき様相を呈している謎の植物や――さらには樹木そのものも、見慣れたブナや楡の間に黒々とした針葉樹や椰子の木のように節くれだった大樹などが入り混じっていた。


(これぐらいなら、異国情緒があっていいけどさ)


 それでも咲弥は周辺の樹木から二メートルぐらいの距離を取って、車をとめた。

 運転席を降りると、濃密なる花と緑の香りが鼻腔に忍び込んでくる。それもまた、未開のジャングルにでも踏み込んだような心地であったが――大自然の息吹であることに変わりはないので、咲弥のキャンプ気分が損なわれることはなかった。


(さて。ドラゴンくんが登場する前に、設営しとくか)


 鼻歌まじりに、咲弥は軽ワゴン車のリアゲートを開けた。

 後部の座席まで潰して確保したラゲッジスペースが、キャンプギアで埋め尽くされている。まずは地面にシートを敷いて、設営に必要な物資を引っ張り出した。


 テント、シュラフ、二種のフォームマット、タープ、ローチェア、ローテーブル、グリルスタンド、焚火台――そして、細々としたものが詰め込まれたコンテナボックスだ。調理関係のコンテナとクーラーボックスとウォータージャグを除いても、その質量であった。


 まずはテント用のグランドシートを敷いて、その上にインナーテントを設置する。インナーテントの四隅に二本のポールを湾曲させながら交差させて差し込み、あとはそのポールにテントを吊るすだけの簡単な仕組みだ。

 しかるのちに、ペグを打ち込んで固定して、フライシートを覆いかぶせて、フックとファスナーテープで固定すれば、テントの設営は完了であった。


 こちらのテントには、キャノピーと呼ばれる出入り口のひさし部分を屋根として活用できる機能が備わっている。キャノピーを手前側に広げてポールを立てれば、焚火台とテーブルを雨から守れるぐらいのスペースを確保できるのだ。テントの前室にチェアを置けば、それだけでソロキャンプには不自由がなかったのだった。


(でも、デュオキャンプだとそうはいかないもんな。三日前に雨が降らなかったのは、ラッキーだったよ)


 ということで、今回はキャノピーを活用せず、タープを張ることにした。

 タープとは、すなわち簡易的な屋根である。巨大なシートをポールとロープとペグで固定して、屋根とするのだ。遅いスタートであった三日前には、省略していた作業であった。


「よーし、完成」


 テントの入り口側にタープを張った咲弥は、その下に残りの物資を運び込んだ。

 大事な寝具であるシュラフとフォームマットはテントの内側に放り入れ、チェアとテーブルと焚火台を適切な場所に配置する。そうして荷物置きに使っていたシートも移動させて、調理関係の物資も運び込めば、設営は完了であった。


 時間を確認してみると、すでに午後の三時半を回っている。

 二月という時節を考えると、もう日が暮れるまでそれほどの猶予はなかった。


(だけどまあ、この前よりはゆっくりできるな)


 しかし咲弥はくつろぐ前に、バトニング――つまりは薪割りを済ませておくことにした。

 焚火台で使用するには、薪をさらに細かく割っておく必要があるのだ。


 咲弥が薪割りに使用するのは、調理でも使用しているブッシュクラフトナイフのみとなる。横向きの薪を土台として、立てた薪にナイフをあてがい、ハンマー代わりの薪で叩くのだ。咲弥が知る限り、もっともお手軽な薪割りの手法であった。


 黄色いグローブをはめた咲弥は、左手で支えたナイフの背に遠慮なく薪を叩きつけていく。ステンレスの刃が薪の内側にぐいぐいと食い入っていく感触は、いつでも咲弥に蛮なる喜びを与えてくれた。


 きちんとした土台や専用のハンマーを買いそろえれば、きっともっと効率はいいのだろう。また、咲弥がメインで使っているナイフは刃厚が二・五ミリであるため、もっと分厚いほうが薪割りに適している。それで咲弥は予備として刃厚四ミリのナイフも準備していたが、硬い広葉樹の薪でない限りはけっきょくメインのナイフを使い続けていた。


 もとより咲弥は調理と薪割りで兼用できるようにという思いで、刃厚二・五ミリのナイフを買い求めたのだ。

 しかし実際に使ってみると、調理で使うにはやや厚めであるし、薪割りで使うにはやや薄めである。

 これならば最初から、調理用と薪割り用で一本ずつそろえるべきであったのかもしれないが――さりとて、買い替えるほどの不自由さは感じていなかった。


(それにまあ、これだけ使ってれば愛着だって増すもんなぁ)


 これは咲弥が自力でキャンプを楽しみ始めた時分、中学一年生の頃に買い求めたナイフであった。

 キャンプ初心者には定番中の定番ブランドの品で、価格はなんと二千円台である。そのように安価なナイフがこうまで長持ちするなどとは、咲弥も想像していなかった。


 それに比べると、咲弥が現在装着しているグローブなどはナイフの三倍以上の価格であった。

 ナイフは安価でも上質なものが出回っているが、グローブで妥協するとのちのち不自由な目を見るという祖父の助言に基づいて奮発したのである。

 こちらも十年選手であり、購入当初はごわごわで固かった牛皮革の生地も今ではすっかり指先に馴染んでいた。


 いつかこれらのナイフやグローブが寿命を迎えても、きっと捨てる気にはなれないだろう。

 咲弥が道具に対してこのような愛着を抱くのも、キャンプギアに限られていた。


(まああの車も、可愛くてしかたないけど……あいつだって、あたしにとってはキャンプギアだからなぁ)


 そんな思いにひたりながら、咲弥は薪割りを完了させた。

 割った薪はシートに積み上げて、必要な分は焚火台に設置する。点火はお手軽に、着火剤で済ませることにした。咲弥はファイアースターターのキットも常備していたが、それを使用するかは気分次第である。


 着火剤は、巨大なマッチ棒のような形状をしている。柄の部分に植物性ワックスの燃焼剤が含まれているので、点火した着火剤の上に薪を積み上げれば、しっかり火を灯してくれるのだ。

 ただし焚火は放置していると、すぐに消えてしまいかねない。火吹き棒で空気を送ったり、火ばさみで薪を動かしたりして、火を育てるのである。その果てに、あの悦楽に満ちた時間が待っているわけであった。


 焚火台の下には、防熱シートが敷かれている。焚火の熱で地面に悪い影響を与えないための、配慮である。直火が許されているキャンプ場でなければ、そのように取り計らうのが原則であった。


(そういう話も、みんなじっちゃんが教えてくれたんだよなぁ)


 祖父は寡黙な人柄であったが、キャンプの話題では雄弁であったのだ。

 それは祖父が心からキャンプを楽しんでいた証拠であろうし――それと同時に、孫娘に正しいキャンプの知識を育んでもらいたいという思いであったのだろう。

 おかげで今、咲弥は思うさまキャンプを楽しむことができていた。


 焚火の炎が元気に燃えあがるのを見届けて、咲弥はチェアの背もたれに身を預ける。

 二月の外気は冷たいが、その冷たさも心地好い。

 焚火の炎がパチパチとはぜて、濃密なる花と緑の香りに煙の匂いも入り混じり――三日前と同じように、咲弥の心を深く満たした。


(あー……なごむなぁ……)


 咲弥がそのように考えたとき、タープのシートが大きくゆらめいた。

 次の瞬間、空き地の真ん中に巨大なドラゴンの姿が出現する。大きな翼をはためかせたドラゴンが、天空から舞い降りたのだ。

 その勇壮なる姿に向かって、咲弥はぐっとサムズアップしてみせた。


「グッドタイミングだねぇ、ドラゴンくん。キミに負けないぐらい首を長くして待ってたよぉ」


「うむ。そちらも息災なようで、何よりである」


 大きな翼を背中にたたみつつ、真紅のドラゴンは微笑むように目を細めた。

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