01 経緯

 大津見咲弥は二十二歳、生物学上の分類は女で、やたらとマイペースな性格をしている他には特筆するべき個性も何もない、至極凡庸な人間だと自認していた。

 美人と称されることは多いが、残念と称されることはもっと多い。

 そしてどちらにせよ、咲弥にとっては関心の外である。咲弥は何より、他者からの評価というものに重きを置けない性分であったのだ。


 いっぽう咲弥の両親というのはきわめて厳格な人柄で、社会的な成功と洗練された生活と、それにまつわる他者からの評価というものを何より重視していた。

 それに感化された弟などは順当にエリート街道を突き進んでいたのだが、咲弥はそういった事柄にもまったく関心を持てなかった。それで、両親の厳しい目をこそこそとかいくぐりながら、ひとりのほほんと生きてきたのだった。


 そんな咲弥にとって唯一の生き甲斐は、キャンプである。

 十歳の頃に祖父から手ほどきを受けて以来、咲弥はキャンプの楽しさにどっぷり浸かることになったのだ。


 小学校を卒業するまでは長期休暇のたびに電車とバスで三時間かかる祖父のもとに通いつめ、デュオキャンプを楽しんだ。

 中学校にあがってからは自転車で近場のキャンプ場まで出向き、高校からは原付バイク、十八歳になってからは中古の軽ワゴン車と、移動手段をグレードアップさせるとともにキャンプギアの充実をはかり、どんどんキャンプにのめりこんでいった。咲弥の青春はキャンプと資金集めのアルバイトがすべてであったと言っても決して過言ではなかった。


 そんな咲弥の人生に暗雲が垂れこめたのは、二十歳の頃である。

 咲弥は一生フリーのアルバイターでもかまわなかったのだが、厳格なる両親がそんな気ままな生活を許すはずがなく、高校の卒業後はウェブデザインの専門学校に入り、そちらの卒業後にはそこそこ名の通った会社に就職することになったのだ。


 入社当初は、それでも問題なく過ごせていた。会社はそれなりに忙しかったが土日の休みは確保できたので、週末には滞りなくキャンプを楽しむこともできたのだ。アルバイト時代よりは収入もいいし、いずれは有給も取れるようになるはずであるし、そんなに悪いことばかりではないかなと思えるほどであった。


 そうしてゴールデンウイークには田舎の祖父のもとを訪れて、二人で存分にキャンプを楽しみ――それから会社に出勤してみると、現場の主任が行方をくらませていた。

 咲弥も前々から主任の生ける屍のような顔色を心配していたのだが、どうやら彼女は退職願も出さずに失踪してしまったようであった。


 それからは、もう地獄の日々である。

 これまで主任が一身に背負わされていた苦労が、均等に配分されることになったのだ。

 咲弥などは入社二ヶ月目の新米社員であったにも拘わらず、身に余る大きな仕事を次から次へと丸投げされてしまったのだった。


 毎日の残業と休日出勤が当たり前の話となり、現場の社員が馬車馬のように働いても仕事が尽きることはなかった。そうして毎週のお楽しみであったキャンプが隔週となり、月イチとなり、隔月となり、ついにはシーズン中に一回行けるかどうかという有り様に成り果てて――咲弥は、肉体以上に心を削られることになってしまった。


 それでも咲弥が退職しなかったのは、親の目をはばかってのことである。

 三年も待たずに転職なんてとんでもない、というのが両親の揺るぎない美意識と価値観であったのだ。

 なおかつ咲弥は幼少の頃から親を失望させ続けてきたという負い目があったため、なかなか真っ向から歯向かう心持ちになれなかったのだった。


 そうして咲弥は「三年間だけ頑張ろう」という指針を打ち立てて、会社の仕事に没頭した。三年後にはまた存分にキャンプを楽しめるのだという思いだけが、咲弥の心のよすがであった。


 それから時間は、ナメクジが這いずるようにのろのろと過ぎていき――入社二年目の年明けに、祖父が倒れたという一報が届けられた。


 祖父とは一昨年のゴールデンウィーク以来、会っていなかった。時おり電話をかけることはあったが、あんまりへたばった声を聞かせたくなかったので、それも疎遠になりつつあったのだ。

 そんな矢先にやってきた、凶報である。

 咲弥は死に物狂いで仕事の山を片付けて週末の休みを確保し、祖父が入院した病院に駆けつけることになった。


「なんだ、ひどい顔色だな。きちんと食べているのか?」


 それが、病室における祖父の第一声であった。

 ベージュ色の病院着で白いベッドに横たわった祖父は、存外に元気そうである。それで咲弥はその場にへたりこみそうになるのを懸命にこらえながら、安堵の思いを噛みしめることになった。


「じっちゃんは元気そうだねぇ。いきなり倒れたとか聞かされて、びっくりしちゃったよ」


「うむ。わしはもともと、心臓が悪かったからな。それでも七十まで生きられたのだから、もう十分だ」


「なに言ってんのさぁ。仕事のほうが落ち着いたら、またじっちゃんとキャンプを楽しむつもりだったんだからね。百まで生きて、一緒に楽しもうよ」


 咲弥がそのように言いつのると、祖父はもともと眠たげな目を細めて「そうだな」と微笑んだ。


「そういえば、お前さんに渡したいものがあったのだ。そこの引き出しを開けてくれるか?」


 咲弥がベッドテーブルの引き出しを開けると、そこには奇妙なペンダントがぽつんと置かれていた。

 紐の部分は黒いレザーで、トップには炎を封じ込めたかのような真紅の飾りがつけられている。爬虫類の鱗みたいなデザインであったが、こんな巨大な鱗を持つ生き物はこの世に存在しないのではないかと思われた。


「そいつは、魔除けのお守りだ。お前さんがキャンプに出向くときは、そいつをつけていくといい」


「へえ。じっちゃんがそんなゲン担ぎをするなんて、珍しいね」


 祖父からプレゼントをもらったのは、中学時代におさがりのキャンプギアをいただいて以来となる。

 多忙な日々で心が摩耗していた咲弥は、うっかり涙をこぼしてしまいそうだった。


「ありがとね。でも、キャンプに行くときは、じっちゃんも一緒だよ?」


 祖父はまた眠たげな目を細めて、「そうだな」と微笑んだ。

 そして――その三日後に、祖父は他界してしまったのだった。


                 ◇


「――で、じっちゃんは田舎の家とこの山を遺産として、あたしに残してくれたわけだよ」


 咲弥がそのように締めくくると、ドラゴンは「なるほど」とうなずいた。


「おおよそは、トシゾウから聞いていた話と一致する。無事に其方と巡りあえたことを、トシゾウの魂に感謝するとしよう」


 歳三とは、祖父のファーストネームである。

 ワークキャップをかぶっていた咲弥はそれを外してから、自分の頭を引っかき回した。


「やっぱりキミは、じっちゃんと顔見知りだったわけね。こいつのおかげで、なんとなく察してたけどさ」


 咲弥は防寒ジャケットの襟もとから、真紅の鱗のペンダントを引っ張り出した。

 ドラゴンは、悠揚せまらず「うむ」と首肯する。


「我の鱗を身につけていれば、他なる魔物に襲われる心配もない。それで親愛の証として、トシゾウに贈ることになったのだ」


「……他なる魔物?」


「うむ。この山にも、いくらかの魔物が暮らしているのでな」


 咲弥は頭をかきながら、周囲に視線を巡らせた。

 すっかり宵闇に包まれているので、あまり判然としなかったが――明らかに、これまでと様相が異なっている。空き地を取り囲む木々はうねうねとした奇怪なシルエットを描き、その隙間には正体の知れない人魂のようなものが行き交っていた。


 耳をすませば人とも獣ともつかない不気味なうなり声が響き、鼻には南国の果実を思わせる甘い香りがねっとりと忍び込んできて――心なし、ただでさえ低かった気温がさらに下がったように感じられた。


「……キミが現れるまでは、こんな感じじゃなかったと思うんだけど」


「うむ。そちらの世界の住人は、我が許可を与えた者しかこちらの世界の要素を感知できないのだ。……今この山は、二つの世界が同期しているのでな」


「なるほど、わからん」と溜息をついてから、咲弥は上目づかいにドラゴンの顔を見た。


「まあとりあえず、キミはじっちゃんにプレゼントを贈るような間柄だったわけね。それでその……じっちゃんのことは……」


「うむ。トシゾウとは、別れの挨拶を済ませている。……トシゾウは、まことに気の毒なことであったな」


 ドラゴンは深い悲しみをこらえているような眼差しで、咲弥の視線を受け止めた。


「我もトシゾウにあらゆる治癒の術式を施したのだが、生来の病魔を和らげることはかなわなかった。力及ばず、無念の限りである」


「ああ、うん。そんな風に言ってもらえるだけで、じっちゃんも喜んでると思うよ」


 鼻の奥がつんと痛くなった咲弥は、それを振り払うために頭をもたげた。


「それじゃあお次は、そっちが説明してもらえるかなぁ? キミはどこからやってきたの? 二つの世界って、どういうこと? じっちゃんとは、どういうご関係?」


「うむ。その前に、ひとつ確認させてもらいたいのだが……どうして其方は、これほど早々に参ずることができたのであろうか?」


 その言葉に、咲弥は首を傾げることになった。


「早々にって? もうじっちゃんの葬式から、ひと月ぐらいは経ってるよね。相続の手続きってあれこれややこしいから、こんなに時間がかかっちゃったんだよ」


「しかし、其方がやってくるのは数年後か、あるいは数十年後になるやもしれんと聞いていた。それがわずかひと月でやってきた理由を聞かせてもらいたく思う」


「……それって、そんなに重要なこと?」


「うむ。トシゾウの見込みが外れていたのなら、その理由は知っておきたく思うのだ」


 ドラゴンの黄金色の瞳には、きわめて真摯な光が宿されている。

 咲弥はひとつ溜息をついてから、説明した。


「まあ、あたしにとっても予定外だったことは認めるよ。実はあたし、じっちゃんの葬式の喪主を受け持ったんだけど……あ、喪主ってわかる?」


「うむ。弔いの儀式の取り仕切り役であるな」


「そう、それそれ。で、喪主を務めるからには、数日ばかり仕事を休むしかなかったんだけど――」


 咲弥は無理を言って、会社を欠勤した。そうして祖父を見送ったのち、重い足を引きずって出勤してみると――会社の社長が「こんな忙しい時期にくたばるとは、まったくはた迷惑なじいさんだな」と暴言を吐きかけてきたのだ。


「だからまあ、その場で退職願を書き殴って、馬鹿社長の顔面に叩きつけてきたわけだよ」


「なるほど……それは、怒りを禁じ得んな。我も思わず、火炎の息吹を吐いてしまいそうだ」


「そうしたら、あたしが灰と化すだけだねぇ」


「うむ。よって、懸命に自制している」


 咲弥が見上げると、ドラゴンの目にはいくぶん楽しげな光が灯されていた。どうやら、冗談口の類いであったようである。


「しかし、其方は気の合わない親との和を保つために、私心を排して過酷な労働に従事していたのであろう? そちらに問題は生じなかったのであろうか?」


「えー? じっちゃんは、そんなことまでバラしてたのぉ? 案外、口が軽いんだなぁ」


「否。こちらもわけあって、仔細を聞いておく必要があったのだ。トシゾウは、決して其方の存在を軽んじてはいなかった。それだけは、信じてもらいたい」


 ドラゴンの瞳が、にわかに真剣な光を帯びる。

 咲弥は「ああそう」と、もういっぺん頭をかき回した。


「まあ別に、隠すような話じゃないけど……お察しの通り、あたしが勝手に仕事をやめたもんだから、親どもは怒髪天を衝いてらっしゃったよ。じっちゃんの遺産も相続放棄させようと躍起になってたから、余計にね」


「なに? それは、如何なる話であろうか?」


「えーっとね。じっちゃんは亡くなる前に持ってる畑をみーんな売っぱらったから、家と山の他にもけっこうな遺産を遺してくれたんだよ。でも、家とか山とかって所有してるだけで税金がかかるからさ。数十年単位で考えると、決してお得なだけの話ではないし……そもそも両親は大の田舎嫌いだったから、そんなもんは絶対に相続するなっていうスタンスだったわけよ」


 ドラゴンはいっそう真剣な眼差しで、ぐっと身を乗り出してくる。

 その綺麗な黄金色の瞳を見つめ返しながら、咲弥は言いつのった。


「でもさ、あたしだって頭にきてたんだよ。いくらじっちゃんと折り合いが悪かったからって、入院にも葬式にもノータッチなんて、ありえないっしょ? それでまあ、家庭内に大戦争が勃発いたしまして……あたしは家族と縁切りして、じっちゃんの家に引っ越してきたってわけ」


「では其方は、トシゾウの家に移り住んだのであろうか?」


 ドラゴンの目が、びっくりしたように見開かれる。

 それが妙に愛くるしく思えて、咲弥はつい笑ってしまった。


「うん。あれこれ面倒な手続きにひと区切りついたから、今日の昼過ぎに引っ越してきたんだよ。で、しんぼうたまらなくなって、この山にまで出向いてきたの。何せこっちは、半年以上もキャンプを我慢してた身だからさぁ」


「そうか……そういうわけであったのだな」


 ドラゴンは大きく見開いていた目を細めて、また微笑むような仕草を見せた。


「相分かった。立ち入った話まで聞きほじってしまって、申し訳なかったな。読心の術をかけることは容易かったが、其方の口から事情を聞かせてほしかったのだ」


「なんか怖いことをさらっと言われた気がするけど、納得してもらえたんなら何よりだよ。……じゃ、そっちの話を聞かせてもらえる?」


「うむ。もちろん、すべてを語って聞かせたく思うが――」


 と、ドラゴンは大きな体を小さく揺すった。何かに恥じらっているような挙動である。


「ただ……其方と相対していると、我は空腹感をかきたてられてならんのだ」


「えええええ? この流れで、あたし食べられちゃうのぉ?」


「否。我は人間の作る料理というものを、こよなく好ましく思っているのだ。トシゾウからも、何度となく馳走してもらったので……その孫娘たる其方と相対していると、どうにも期待の思いを抑えられなくなってしまうのだ」


「あらそう」と、咲弥は脱力した。


「まあ今日はひとりで宴のつもりだったから、食材はがっぽり積んできたけど……でも、さすがにキミの巨大な胃袋を満たせるほどではないかなぁ」


「大事ない。魔族にとっての食事というものは、心を満たすための行いであるのだ。生存に必要な魔力は大地や大気から摂取しているため、物質としての食事は人間と同程度で事足りる」


「ふーん。だったらまあ、何とかなるか。実はあたしも、腹ぺこだったからさぁ。すっかり暗くなっちゃったし、とりあえず準備を始めますか」


「ありがたい。其方の温情に、心から感謝を捧げよう」


 そのように言い放つなり、ドラゴンの巨体が真紅の輝きに包まれた。

 咲弥は「どひゃー」と言いながら、目もとを手で覆う。それから、そろそろと手をどけてみると――体長五メートル強であったドラゴンの姿が、シベリアンハスキーていどのサイズに縮んでいた。


「わー、なになに? いきなりかわゆくなっちゃってぇ」


「人間の食事というものは、食感が重要であろう? 本来の大きさではその食感を正しく味わうことも難しいため、食事の際にはこの姿を取ることにしている」


 サイズが縮んでも、そのダンディな声音や立ち居振る舞いに変わりはなかった。

 咲弥は「そっか」と、また笑ってしまう。


「じゃ、こっちも準備を始めるよぉ。お口に合えば幸いだねぇ」

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