第2話 雨夜の温もり
01 新生活
スマートフォンの目覚ましアラームによって、咲弥は起床した。
けたたましい電子音を停止させた咲弥は、布団の上に半身を起こしながら「うーん」と大きくのびをする。とたんに二月の冷気が押し寄せてきて、咲弥はぶるっと身を震わせた。
「おー、さむさむ。やっぱ、山間部は冷えるなぁ」
黒いスウェットの部屋着で寝ていた咲弥は毛布の上に掛けていた綿入りのどてらを着込み、ねぼけまなこで周囲を見回した。
ここは、祖父の家の客間である。
咲弥は祖父の家を裏山ごと相続した身であるが、かつて宿泊していた際にもこちらの客間をあてがわれていたので、ここを自分の寝室に定めたのだ。
畳敷きの八畳間で、衣装箪笥と三面鏡、座卓と座布団ぐらいしか調度は見当たらない。あとは咲弥が持ち込んだボストンバッグが部屋の隅に放り出されて、壁のハンガーに防寒ジャケットが吊るされているばかりであった。
しばらくぼんやりしたのち、咲弥はおもむろにどてらのぼわぼわとした袖に鼻を当てる。
そこから嗅ぎ取れるのは、防虫剤である樟脳の香りだ。
そこに祖父の面影を見出した咲弥は、ひとりで「えへへ」と笑い声をこぼした。
客間を出て自前のスリッパに足を突っ込んだ咲弥は、長い廊下を踏み越えて仏間に向かう。
六畳間の仏間には立派な仏壇が設えられており、祖父と祖母の遺影と位牌が置かれていた。
咲弥は、生前の祖母と会ったことがない。
祖母は若くして亡くなったという話であったので、遺影もせいぜい四十歳ぐらいの年頃に見える。とても柔和そうなご婦人であった。
いっぽう祖父は、ごく近年の姿である。
これはキャンプ中に、咲弥がスマートフォンのカメラで撮影した画像であるのだ。灰色の髪と髭を生やして、いつも眠たげな目つきをした、咲弥が知る通りの祖父の姿であった。
(じっちゃん。立派な家と山をありがとう。あたしの寿命が尽きるまで、大事に使わせていただくからね)
咲弥は火を灯した線香を香炉に立てて、手を合わせた。
(あと……ドラゴンくんとも、仲良くなれたよ。最後にいいお友達ができて、よかったね)
咲弥は祖父母の姿を目に焼きつけてから、身を起こした。
次に向かうは、洗面台である。祖父の家はどこもかしこも古びた和風建築の平屋であったが、水場にはきちんと温水の機能がついている。それをありがたく思いながら顔を洗った咲弥は、鏡に映る自分の姿と相対した。
祖父とは、まったく似ていない。
似ているのは、寝起きでなくとも眠たげな目つきだけだ。
無精にのばしたセミロングの髪は寝ぐせで大変な有り様になっており、まだ存分に寝ぼけた顔をしている。
ただ、目の下からは隈が消え、やつれていた頬には肉がつき、髪や肌にも艶と潤いが蘇り――この二年弱で刻みつけられた疲弊の陰は、綺麗さっぱり消えてなくなっていた。
(やっぱ人間、重要なのは睡眠と栄養だよなぁ)
会社の主任が失踪して以来、咲弥の平均睡眠時間は四時間を切っていた。
食生活も乱れに乱れて、カップラーメンと栄養ドリンクでしのぐ日々であったのだ。それでは疲弊が溜まるのも当然の話であった。
(あとは何より、心の充足だよなぁ。キャンプを楽しめない人生なんて、地獄そのものだもんなぁ。今からあの生活に戻れって言われても、逆立ちしたって無理そうだ)
咲弥がこちらの家に移り住んだのは三日前の話であり、つまりはドラゴンとのデュオキャンプを楽しんだのもその日となる。
数ヶ月ぶりに楽しんだキャンプの余韻と、さらなる楽しさを求める気持ちが、咲弥の中でうねうねとのたうっていた。
(急くな急くな。今日の午後には、またがっつり楽しめるんだからさ)
咲弥はぺたぺたとスリッパを鳴らして、お次は台所に向かった。
キッチンではなく、台所という名称に相応しい様相である。咲弥はとてつもなく旧式の冷蔵庫から牛乳のパックを取り出して、アルミの行平鍋に適量を注いだのち、タンパク質が分離しないように弱火にかけた。
祖父はもともと電子レンジを所有していなかったし、咲弥が以前に使っていた品は中古で動作が不安定であったため、転居を機に廃棄してしまったのだ。
まあ、咲弥も自宅では料理に力を入れない生活スタイルであるため、さして不便はない。
それでも半日分のカロリーを摂取するべく、咲弥は冷蔵庫から食材を引っ張り出した。
(うーん。めんどいから、野菜は午後にまとめて摂取させていただこう)
咲弥はテーブルに置きざりであったホットサンドメーカーを取り上げた。
これももともとは、キャンプギアとして購入した品である。留め具を外せば二枚の小さなフライパンとして活用できる優れものだ。フッ素加工で洗浄が手軽なのも高ポイントであった。
そちらの片面に八枚切りの食パンを置き、スライスチーズと安物のハムを重ねてケチャップを塗りたくり、ミルでブラックペッパーを挽く。さらに新たな食パンを重ねて器具を閉じ、掛け金をかけて、ガスコンロの火にかけた。
その頃には牛乳もほどよく温まっていたので、キャンプでも愛用しているチタンのマグカップに移す。どうせキャンプで使用した食器は台所で洗うことになるので、自宅でも思うさま活用していた。
人肌よりわずかに温かいていどの牛乳を口に運びつつ、ホットサンドメーカーをひっくり返す。それから壁掛けの時計に目をやると、アナログの針は十時十五分を指していた。この後は午後からキャンプに向かうまで食事をとるつもりもなかったので、ちょっと早めのブランチである。
やがて焼きあがったホットサンドを食して、食器の後片付けを完了させたところで、のどかなチャイムの音色が来客を告げてくる。
咲弥が「ほいほい」と玄関口に向かうと、小さな段ボール箱を掲げた運送屋の男性が待ち受けていた。
「あれ? ご主人はご不在ですか?」
きっと祖父の生前も、こちらの人物がこの地区を担当していたのだろう。
咲弥は頭の寝ぐせを撫でつけながら、「いえいえ」と答えた。
「祖父は他界して、あたしがこの家に住むことになったんです。またお世話になることもあるかと思うんで、どうぞよろしくです」
「あ、そうだったんですか……それはご愁傷様です。生前は、大変お世話になりました」
その人物は、わざわざ帽子を取って一礼してくれた。
祖父は人づきあいが薄かったが、祖父を知る人間はたいてい敬意を払ってくれるのだ。その枠から外れるのは、咲弥を除く肉親ぐらいのものであった。
そうして荷物を受け取った咲弥は、起床してから初めて居間に腰を落ち着ける。
いずれの部屋にも大きな違いはなかったが、テレビとこたつが完備されているのはこちらの居間のみであった。
咲弥は電源を入れていないこたつに足を突っ込み、段ボール箱を開封する。
そこに封入されていたのは、通信機器を接続するためのホームルーターに他ならなかった。
説明書を熟読し、ホームルーターの電源をコンセントに差し込む。そうして然るべき設定を施したのち、咲弥はノートパソコンの電源を入れた。
「おー、通った通った。こんな田舎でも回線を開けるなんて、ありがたいこったねぇ」
思わず独り言をこぼしながら、咲弥はスマートフォンのほうでメッセージをしたためた。
『無事開通っす。よろしくお願いするっす』
そんな文面を届けると、すぐさま返事がやってきた。
あちらは勤務中のはずであるが、個人用のスマートフォンをいじることも許されているようである。
『おー、おめでとう! じゃ、来月から仕事をふっちゃっていいのかな?』
『お願いするっす。マジで感謝っす』
『いやいや! サクちゃんは、同じ修羅場をくぐりぬけた同志だからねー! ま、あたしはひと足早く逃げちゃったけどさ!』
メッセージの相手は、かつての勤務先の先輩にあたる女性であった。
彼女は咲弥よりも半年ほど早く退職して、またウェブデザイン系の会社に勤務しているのだ。そうして咲弥の内情を知ると、在宅でアルバイトをしてみないかと持ち掛けてきたのだった。
『あの鉄火場で二年近くも踏ん張ったんなら、それ相応のスキルが身についただろうからね! あたしが辞めた後はサクちゃんもいっそう地獄だったんだろうから、ちょっとでも罪ほろぼしさせてよー!』
そんな言葉をいただいて、咲弥は日銭稼ぎの手段を得ることになったのだ。
そのために、祖父の家で通信の環境を整える必要が生じたのだった。
『実は今からでも仕事は回せるんだけど、予定通り来月からでいいのかな?』
『うっす。今月いっぱいは、骨休めっす』
『りょうかーい! じゃ、来月からよろしくねー!』
元の会社では死んだ魚のような目つきをしていた人物であるが、この文面から匂いたつのが本来の姿であるのだろう。咲弥とて、会社を辞めてからのひと月ほどで、ようやく本来の自分を取り戻せたような心地であったのだった。
その後は、役所や遺言執行者などと細々とした連絡を取る。
これだけ大きな遺産を相続するというのは、やはり大ごとであったのだ。さらには転居にまつわる名義変更なども含めて、咲弥はずっと忙殺されていたのだった。
しかし、それで祖父の家と山を相続できるなら安いものである。
咲弥は気楽なスローライフを楽しむのと同時に、祖父が大切にしていた家と山を最後まで守り抜こうという所存であった。
(しかも山には、ドラゴンくんが住んでたんだもんなぁ。守り甲斐も倍増だよなぁ)
そうしてすべての雑事を片付けた頃には、午後の二時を過ぎていた。
しかし、本日の雑事はこれにて完了である。咲弥は意気揚々と、まずは風呂場に向かうことにした。昨日は横着して、入浴せずに就寝してしまったのだ。
お湯をわかすのは不経済だし面倒であったので、シャワーで手早く身を清める。そして、下着の上から防寒用のインナーウェアの上下、外着のスウェットとワークパンツを着込んだならば、客間に戻って厚手の靴下と防寒ジャケットを着用した。
ドライヤーで乾かしたセミロングの髪は適当にアップに結いあげて、ワークキャップをかぶる。そして、三面鏡の引き出しに保管していたペンダントを首に引っ掛けて、燃えるように輝く鱗をジャケットの内側に仕舞い込んだ。
(うし。お次は――)
咲弥は台所に舞い戻り、ウォータージャグに水を汲み、コンテナボックスおよびクーラーボックスに食材と食器を詰め込んだ。
それらを三往復で玄関口まで運んだならば、あらためて火の元と戸締りを確認し、玄関のガラス戸を引き開ける。
二月の外気は冷たかったが、キャンプに向ける熱情の前には何ほどのことでもなかった。
大きくて古びた家屋の前には、砂利の前庭が広々と広がっている。
そこで出番を待っていた中古の黄色い軽ワゴン車に荷物を詰め込んだのち、咲弥は母屋の脇にある物置小屋を目指した。そちらには、山ほどの薪と炭が収納されているのだ。
(……じっちゃんも、まだまだキャンプを楽しむつもりだったんだろうなぁ)
咲弥はその場で、再び手を合わせた。
(大事に使わせてもらいます。じっちゃんも、こっちの騒ぎを肴に楽しんでね)
咲弥は必要な分だけ炭を取り分けて、薪のひと束とともに車へと運び込んだ。
そうして、いざ出発――というタイミングで、クラクションの音が響きわたる。
咲弥がそちらを振り返ると、年季の入った軽トラックが砂利の坂道をのぼってきた。
「おや。咲弥ちゃんは、またキャンプかい? ほんに、歳三さんと一緒だねぇ」
それは隣の家に住む、田辺ハツというご老人であった。
まあ、隣と言っても徒歩では数分がかりであるため、来訪時はいつも軽トラックであるのだ。
こちらのご老人は祖父と同い年であり、背丈は低いがとても矍鑠としている。
彼女は生前の祖母と大の親友で、その関係から祖父とも温かな交流を結んでいたようであった。
「ダイコンがとれたんで、おすそわけよ。不細工だけど、味はいいからね」
「わー、どうもすんません。こっちはなんもお返しできないのに、いいんですか?」
「ええのええの。そっちのお山から山菜やら茸やらいただいとるんだから、こっちがお返しよ」
田辺ご老人は、皺くちゃの顔でくしゃっと笑った。
「熊やら猪やらは出んはずだけど、気ぃつけてね。夜は、冷えっから」
「ありがとうございます。なんかあったら、お返ししますねぇ」
「ええのええの」と手を振って、ご老人は早々に立ち去っていく。
それを見送る格好で、咲弥は祖父の生まれ育った地を見下ろした。
祖父の家は高台にあるので、村落の様相を一望できる。
広大なる畑と田んぼに、点在するいくつかの家屋――それ以外には何もない、僻地である。
車で十五分ほど南に下ると駐在所や郵便局などがある町に出て、さらに十五分ほど下るとようやく国道に行き当たる。バスが通るのはそちらの町までで、咲弥がこちらの軽ワゴン車を入手するまではいつも祖父が町まで迎えに来てくれたのだった。
そうして背後を振り返ると、平屋の家屋の向こう側には連綿と稜線が続いている。
正式な名前は存在しないが、地元の人間はこちらの山を「七首山」と呼んでいた。おそらくは、七つに分かれた峰からの呼称であろう。標高はせいぜい七百メートルていどであるが、とにかく横に広いのだ。
これほど広大なる山が個人の持ち物であるというのは、なかなか信じ難いところであったし――その所有権が自分に託されたなどというのは、なおさら実感を持ちにくいものであった。
しかし咲弥は、それでまったくかまわないと考えている。
咲弥はあくまで、祖父の家と山を守ろうという心意気であったのだ。
あとはその片隅を拝借してキャンプ生活を楽しませてもらえれば、他に望むものはなかった。
(ほんでもって、やっぱり外観はこれまで通りだなぁ)
この雄大なる山々が、現在は異界の山と重なり合っているのだという。
しかし、ドラゴンからそれを知覚する許しを与えられた咲弥でも、山中に踏み込むまではそれを認識できないという話であったのだった。
(まあ、何がどうでもかまわないけどさ)
咲弥はザルいっぱいにいただいたダイコンを玄関口に片付け、その内の一本だけを握りしめつつ軽ワゴン車に乗り込んで、エンジンをかけた。
ついに、本年二度目のキャンプである。
咲弥の胸は、これ以上もなく高鳴っていた。
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