【10】やっと触れることが出来た

 頼ってくれることが嬉しかった。日の傾いた帰りの電車では、討論会の余韻に浸る暇もなく彼女とのSNSに没頭した。大学の街に帰ってきた青空そらは、駅前の地下駐輪場に駆け込み、すぐに自転車で全力で飛び出した。彼は路上駐車の車を避けようと車道の真ん中に飛び出す。クラクションを鳴らされても全く動じない。今日初めて、あの子が自分の住むアパートを教えてくれたからだ。


 木造アパート二階のドアの前で、息を整え堂々と振舞ってみせる。チャイムを押すと疲れた彩音あやねが、夕刻も過ぎ去ったのに、まだ薄暗い奥から出て来た。


「おじゃまします」

「ごめん。暗いよね」


 部屋に入った青空が躓きそうになる。


 それでも灯りをつけようとしない彩音が、重い足取りで案内したのは荒れた部屋だった。目が慣れると、弁当の殻やペットボトルや脱いだ服が散乱していた。室内干しのタコ足に下着が掛かっているのを、見ちゃいけないと青空は目を反らした。


 窓もカーテンも閉じられ、埃っぽく淀んだ空気。彩音は髪も服もよれよれで部屋と同様だった。言われるままフローリングの床の僅かな隙間に青空は座った。


「みんなもバイトをクビになった。次のバイトも見つからないって」


 彩音は力なくベッドに腰を落としていた。


「ここはまあまあ大きな街だよ。国道バイパスには人手不足の店がたくさんあるよ」

須崎すざきくんは本気で言ってるの?」


 彩音は無理に口を開いた。


「鼻で笑われた。あの大学の学生かって。こんな大学だから蔑まれて当たり前。こんな大学だから炎上しても誰も助けてくれない」


 同じ思いだと青空は言いたかった。


「一流大学の奴らは社会のルールを勝手に作っているから。あいつらはボクらのストレスから富を奪っているから。行き場所のないボクらの僅かなルール違反を、自分たちの基準で一方的に裁こうなんて、最悪の差別だ」


「もうこんなの嫌」


 彩音は履歴書の束を床から掴み取り、泣き叫び振り回し破り散らかした。


「落ち着いて。落ち着いて朝倉あさくらさん」

「どうすればいいの。どうすればいいの須崎くん」


 暴れる彩音の両手を青空は思わず取って、握っていた。


「今日ほかの大学に行ったんだ。千人以上の学生が集まるすごく大規模な討論会だった。そこで実学教育に反対する頭の固い教授を負かしたんだ」

「一回だけの成功が何の役に立つの。ソラーの小説は小説の中だけの出来事。須崎くんも本当は解ってるんだよね。小説で社会は変わらないことを」

「違うよ朝倉さん。変わらせるんだ。これから本当になるんだ」


 彩音の細い指を全力で抑えつけた。青空は未来を教えたくて声を大きくした。


「ボクは確信したんだ。実学教育は絶対に勝てる。教授たちがあれだけ反対するのは、自分たちが間違っているのを認めたくないからなんだ」

「でも、でも」

「ボクたちは絶対に勝てるんだ」


 ソラーの小説は現実なんだ。だから諦めないで。


 彩音の力が抜けてゆく。


「須崎くん痛いよ」

「ごめん」


 青空は慌てて両手を離した。彼女はまた力なくうなだれたが、もう自我の暴走は止まっていた。


「飲酒なんか大したことないよ。今までも未成年飲酒は何百回も炎上したよ。でも一か月もしないうちに全部収まってる。それに」


 青空はスマホを見せた。彩音が目を逸らす炎上騒ぎのSNSだった。


「いいから朝倉さん」


 ――この子かわいい。

 ――すごく明るくて活発そうだよね。

 ――こんな子がレストランとかいたら毎日通っちゃう。

 ――素直そうだから、女子にも人気あるはずだよ。

 ――友達になりたい。

 ――こんな子がFランなんてもったいないよ。


 薄目でタイムラインを追う彩音が驚いている。


「ね。アルバイトとかすぐに見つかるよ」


 青空に誘われ彩音も小さく笑った。


「わたしって人気あるんだ」

「自覚なかった?」

「……ちょっとは。ないわけでも」


 照れる彼女がたまらなく可愛くて、青空は安心していた。


「停学処分って言ってもたった二週間だよ。留年するわけないじゃないから」


 ――――――――


 夜も更ける頃には彼女はすっかり落ち着いていた。二人で割引になったコンビニ弁当を買い、少し片付けた部屋でいくつかアルバイト候補を探した。自転車の帰り道、静かな街灯の住宅地で青空が見上げると、無数の星が散っていた。

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