【4】そんなこと知りたくなかった

 青空そらの小説は賛辞の言葉だけではなかった。アンチによる強烈な批判も多数あった。覚悟していたとはいえ、それは青空の精神を少しづつ削っていった。


 ――この小説書いた奴、アホじゃないの?

 ――そんなに資格が欲しければ専門学校行けば?

 ――Fラン大生が一流大生と同じ会社の面接受けるわけねーじゃん。

 ――底辺は現場作業のままで上層部に認められることなんかない。

 ――社会のために休まず働けよ。ソラーとかいう底辺。


 高校の時と同じように、ネット掲示板でも小説の内容が晒され、徹底的にバカにされている。アカウントも名前も高校のときとは別人物になった『ソラー』。本名からすればばこれ以上ない安易な名前なのだが、安易な故に却って本名を特定されないことは救いだった。


 ――――――――


 深夜にアルバイトが終わり、自転車で一時間の自宅に帰った。相変わらず両親は寝ていて、スマホのライトだけでそろり階段を上る。和室をリフォームした出来損ないの洋室に帰宅した青空は、リュックをベッドに降ろした。


 大学の教科書に混じるのは資格関係の参考書や問題集だ。危険物取扱者や衛生管理者といった現業系のものから、宅地建物取引主任者やファイナンシャルプランナーといった営業系の資格まで、幅広い本を買い足してきた。だがどの本も新品のように硬い形を維持したままで放置されている。


 資格がFラン大学を変える。嬉しそうな圭祐の顔が浮かんだ。だが一人では勉強は出来ないことを思い知った。何をどのように勉強すれば合格出来るのか解らない。資格を取るためには、資格専門の勉強を教えて貰わなければダメなんだ。


 動画サイトで見つけた資格試験の攻略は、素人が自己満足で作ったものか、資格学校の宣伝に過ぎない。本当に有用なものはお金をと引き換えだ。いまの青空たちが手に入れられるのは、高額な授業料と引き換えのFラン大卒という肩書きだけだ。そんな現状を変えたくて青空は今日もノートパソコンに向かい、キーを叩き続けている。


 彩音あやねの顔がちらついた。垢抜けない快晴と違い、彩音は本当にかわいい女子だ。なのに実学教育を形だけでしか知ろうとしない。もしボクが彼氏になれたら彼女を正しく導びこう。実学教育の、ボクの全てを理解してくれたときこそ、彼女はボクの理想の姿を見せてくれるかも知れない。それはどれだけ楽しいことかと、青空は妄想の理想に憧れた。


 ボクの小説が本になれば、彼女は驚くだろうか。


 ――――――――


 夕刻は混雑していただろう二両編成の電車も、夜十時を過ぎる頃にはロングシートには数人しか座っていなかった。市街地から出ると疎らな民家の灯と、時折過ぎるヘッドライトだけになる。一時間以上の長い乗車時間はテキストを開き目で内容を追うのにちょうど良かった。来週のレポート。グループワークの課題。そして前期試験。勉強することは幾らでもある。


 音が変わり、いつものように電車は県境のトンネルに入った。


 朝倉彩音あさくらあやねにワガママを通されたことが腹立たしかった。明日は飲酒行為を学校に報告しようと思った。それが特待生の使命だと信じていた。


 ――――――――


 街灯一つが照らす駐輪場が短いホームから見えた。数台の自転車から迷わずチェーンロックを外し、無人駅から少し走ると、黒い星明りの下に四階建ての公営住宅があった。狭い敷地で押した自転車が、階段の下の庇に停められる。カーテン越しに明かりが漏れる三階の部屋を目指し、砂埃の溜まる折り返しの階段をクモの巣を避けながら上る。踊り場で明滅する蛍光灯の下、鉄扉にカギを差し込んだ。


 もし下宿するなら進学なんて絶対叶わなかっただろう。


 ドアが軋み嫌な音が上がる。玄関で靴を脱ぐと左側の台所のテーブルには、ラップの掛かった皿がいくつか置いてあった。台所の奥の襖からテレビの音が漏れる。無視して右側の襖を開けると、六畳の北向きの和室だった。


 ベッドと机と本棚でぎゅうぎゅうの和室は、ここに引っ越した小学生の頃から、ずっと増えてきたもので溢れていた。大学入学時にノートパソコンを新しくしたり、高校までの教科書を押入にしまったが、褪せた空気は変わらなかった。


 家ではいつもパジャマに着替える。台所に行くが、奥の部屋の人はまだ気付いていないようだ。おかずを電子レンジで温めていると、その匂いでようやく姿を現した。


快晴はるかちゃん。帰ったなら言ってよ」


 見飽きた女性は母親だった。大学の人には絶対見られたくない、おしゃれの欠片もない、だらしない体形の中年丸出しの女性だ。快晴は彼女を無視してテーブルで食事を始めた。


「大学はどう? 楽しい」


 今日はシチューだ。いつも通り野菜がほとんどで、細切れの鶏むね肉が飾りのような貧相なシチュー。別の皿のサラダはいつも通りもやしだ。


「快晴ちゃんの大学、すごく広くてきれいね。また行ってみたいの。ねえ」


 食事が終わり流しで皿やスプーンを自分で洗う。


「ねえ快晴ちゃん」


 母親は後ろで何か言っているが、蛇口の音で聞こえなかった。


「お母さん何か悪いことした? ねえ」


 ねえ。


 ――ボーナスが出たの。日曜日にいっしょに出かけない?

 ――怒ってるなら教えて?

 ――話をして。お願い。お願いってば。


 快晴はおどおどする母親を睨み付けた。


 ついに一言も話さないまま自分の部屋の襖を閉じた。快晴はベッドにスマホを放り上げると学習机でノートパソコンと教科書を広げ、レポートを書き始めた。


「私を裏切った人は、もうお母さんじゃないから」


 ――お母さんは私を一人で育ててくれた。遅くまで仕事をして、それでも収入は少なかった。肉や魚のない生活が当たり前だった。焼肉屋でアルバイト始めて、賄いで端肉の牛肉を食べることはほんとうに幸せだった。


 ――ごく普通の高校に通い、成績は良くなかった。その成績が努力によって急速に上がり出したのは三年になってからだ。でも遅かった。いい大学への推薦を取るためには一年の頃からの評定値が大事で、推薦枠の増加で一般入試の定員は減少し、難易度は増すばかりだ。だから自宅から通えるこの私立大学、教養知識大学を選んだ。


 ――その頃から母親との不和が起こった。苦労を掛けたくなくてこの大学を選んだのに、今更になって私が一流大学に行けなかったことに嫌味を漏らしたのだ。


 ――あんな大学に通って恥ずかしい。

 ――三年のとき成績が良かったのは、まぐれだったのかしら。

 ――あの大学なら就職出来ても中小零細がいいところ。

 ――借金してでも県外の大学を受ければよかったのに。


 時折、自分の置かれた境遇を忘れ、無理無謀を撒き散らす母親。それが無意識の本心だと気付いてからは、彼女のことを徹底的に見下した。


 もう腹も立たない。卒業したら家を出る。一人暮らしのためには非正規や中小企業じゃだめで、高い給料が絶対に必要だ。だからいい成績で、いい評価で就活で優位に立たなければいけないんだ。

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