【2】勉強だけが唯一の希望
くすんだ住宅地の小さな木造戸建ては、屋根瓦も壁も汚れが染みついていた。摺りガラスの入った引き戸のレールは砂と埃まみれで、力を入れて開けてみる。
「ただいま」
玄関で脱いだ靴を揃え、
青空は二階の襖を開けた。畳の床にフローリングふうのシートを敷き詰めた自分の部屋だ。ガスの抜けたスプリング椅子の車輪を引き、ベタベタ貼ったシールが十年残る学習机でノートパソコンを開くと、彼は液晶画面に向き合った。
――――――――
――主人公は貧困家庭の出身だった。偏差値を向上させる塾や家庭教師は富裕層の特権で、推薦入試に有利なボランティア活動や留学は上級国民の日常だった。貧しい主人公の武器は何もなく、名前さえ書けば誰でも入学できる、いわゆるFラン大学しか選ぶことは出来なかった。
そんな大学を卒業したところで大企業への就職はなく、彼はほかのFラン大生と同じように下請け専門の中小企業に入社する。大企業の社員は一流大学を卒業したエリートばかりで、下請けの主人公を奴隷の如くこき使う。
家が貧しいばかりに受ける理不尽な境遇に主人公は絶望した。そして同時に、彼ら一流大卒の分析力や判断力は、親の金で手に入れたものばかりで、実際の頭脳や能力には差がないことを、実際に見て知っていた。
彼らエリートに勝つために寝る間も惜しんで勉強に明け暮れる主人公は、高度な知識や教養を身に着け、それを駆使して難しい仕事をこなしてゆく。やがてその努力は実を結び、実力でエリートの特権的世界に切り込んでゆく。
死と隣り合わせの職場で手に入れた日銭を散財する一人親方。高価なプレゼントを貢がせる夜の仕事。自分が勝ち組だと思っている連中は、エリートの作った社会で若さを搾取されていることに気付かない。ケガや加齢で失職し、ホームレスや犯罪者になるのがお似合いの末路だ。知識や教養をバカにする奴らは社会の底辺で泣き叫ぶだけだ。
そんな自業自得の底辺の頭を踏みつけ、エリートを倒し、主人公はそんな格差社会を颯爽と駆け抜けてゆく――。
――――――――
小説の投稿サイトはアマチュアもプロも関係なく様々なジャンルで人気を競い合い、多くの人気作が書籍化されていた。そんな場所で、青空も小説を少しづつ投稿していた。社会問題や経済問題をネットで調べ、高校生でありながら必死にまとめ上げた。大学や会社など、ネットの知識だけで書いた場面は拙いものの、貧困者の厳しい現実を描く様は話題を集め、最近は話題作としてランキングにも載るようになっていた。
ただし、それはいい意味ではなかった。
投稿サイトで本当に人気があるのは、現代の厳しい世相から現実逃避した小説ばかりだった。格差社会の負け組の主人公が理由も理屈もなく突然無敵になり、自分を虐めていた連中を面白おかしく殺したり、無数の異性に無条件で好かれたり、降って湧いたような地位や権力を手に入れる小説は、非正規や貧困やニートといった社会のクズだけでなく、その予備軍である底辺高校生にも大ヒットし、数多くの亜種が今日も生み出されていた。
努力を放棄し成功だけを求める気持ちの悪い連中は、青空の小説を
――努力が報われるのならブラック企業は存在しない。
――職人やキャバ嬢の何が悪い。
――小説の作者は本当は上級国民で差別主義者だろう。
――金持ちがネットで知ったかぶって。貧困は努力じゃ解決しないんだよ。
――現実を知らないこいつ、多分学生だろ。
小説投稿サイトの感想欄。小説を宣伝するためのSNS。どれも悪意のある書き込みが無数に投げ込まれていた。だが青空は自分が金持ちだと思われることが少し嬉しかった。課金で作られたニセモノではなく、努力の末に大成した本物だと扱われたかった。アンチの連中はただの嫉妬だと思われたかった。
「おまえら騙されるな。こいつの小説をよく読め。上級国民がこんなリアルな貧困階層を書けるわけないだろ。底辺特有の意地汚さや狭い視野。不都合な真実を否定する傲慢さは生粋のエリートには絶対に書けない。こいつは自分が社会のお荷物なのに、努力至上主義という願望を垂れ流して成功した気分になっているだけなんだ」
真実は青空の胸を抉った。
「……確かに、ボクの家は貧困家庭です」
「ほら見たことか。底辺がエリートの真似事なんかするな。僕らが貧しいのは社会が悪いからだ。お前の小説はそれを自己責任にすり替えようとしている」
「あなたたちみたいに努力を批判する連中こそ現実逃避の負け組です。ボクは金持ちなだけのエリートに勝ちます。勝って本当の成功者になります」
――こんな奴がいるとかあり得ない。
――死ねよ。みんなのために死んでくれ。
狂った読者から身を守ろうと、SNSも、小説本文にも個人情報を特定させるものを残さないよう青空は注意を払っていた。今まで数多くの一般人がSNSで炎上し、名前や住所や個人情報を特定され、学校や職場が無数の電話やメールで攻撃され、退学や退職で未来を絶たれた事件を知っていたからだ。
どんなに批判されても青空は小説を書くのを止めなかった。いい大学に入ってエリートになることが自分を変える唯一の方法だ。その考えが正しいことを証明したくて毎日勉強を続けた。学校で助けてくれたあの女子の顔が浮かんだ。今までずっと探していた、自分の考えに共感してくれる人だと青空は信じていた。
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