快晴《かいせい》のユートピア

プロローグ 手からこぼれた浅き夢

【１】否定される努力

　休み時間の教室は騒がしかった。ペットボトルや紙くずが床で飛び、男子も女子も走り回っている。机の上にはお菓子と落書きだらけのノート。教科書も問題集もロッカーで眠ったままだ。

　男子の一人がスマホの動画撮影を教室の真ん中で起動させた。

「おいおい。撮ってるのかよ」

「えー髪直さないと」

　戸惑うクラスメイトにも構わず男子はカメラを向け続ける。

「うぇーい」

　カメラを前におどける男子に、集団でポーズを決める女子。画角の中は騒がしくて仕方ない。その中でただ一人、自分の机で俯いたまま教科書を立てる男子、須崎（すざき）　青空（そら）がいた。だが、呟きながらアンダーラインの場所を覚えようとする青空の眼前に、突然スマホのレンズが現れた。

「邪魔するな」

　そのレンズに青空は教科書で顔を隠した。

「こいつ勉強なんかしてやがる」

「頭おかしいよ須崎は」

「勉強のフリしてヤバい本とか見てるんじゃね」

　教科書をひょいと奪われると、青空が驚き固まった。それが面白くて周囲は爆笑した。勉強することが高校生の当たり前なのに、それを妨害することが信じられなくて青空は声を強めた。

「返して！　返して」

「ここに無意味な勉強してる人がいまーす」

「返して！　返して」

　立ち上がり教科書に手を伸ばすが、男子はスマホを向けたまま巧みにかわす。

「お前ほんとに間抜けだな」

「そんなに勉強してるのになんでこの高校に来てるの」

「あ、それ言っちゃう？」

「真面目系クズってやつだね。勉強してる自分に酔ってるんだよ」

　青空は我慢ならなかった。

「クズはお前らの方だろうが」

　青空は空中を逃げる教科書に翻弄され、画面には泣きそうな顔がアップになる。

「ほれ！　受け取れよ」

　男子は教科書を天井に放り上げた。飛び上がる青空だが、机に体をぶつけ転倒し、教科書は床に落ちた。またしても周囲の笑いが誘われ、青空は嗚咽を漏らした。

「お前ら。お前ら」

　ぐしゃぐしゃになった教科書を抱えると、まだレンズを向けたままの男子を彼は睨み付けた。

「お前らみたいな奴らが高卒で非正規や貧困ニートになるんだ」

「この底辺高校でよく言うよ。須崎」

「ボクは違う！　一流大学に合格して、一流企業に就職してお前らみたいな底辺を見下すんだ。絶対に」

「こんな高校にしか行けなかったお前がよく言うよ」

　男子が青空の教科書をもう一度叩き落し、凄んで襟首を掴んできた。

「俺は高校を卒業したらすぐに就職する。職人とかホストとか稼げる仕事がたくさんあるからな。独立すれば年収一千万とかすぐだ」

「その通り。給料に学歴なんか関係ない」

「私もキャバとかパパ活で稼ぐんだ」

　後ろで男子女子の声援が響き、男はにやけた。

「お前の行ける大学なんかどうせＦランだろ？　名前さえ書けば誰でも入れる大学」

「知ってる。Ｆラン大学って高卒で就職出来ないアホどもが集まってるんでしょ」

「卒業生は非正規とかニートとか犯罪者ばっかりって聞いたぞ」

「やーいＦラン」

　囃し立てる好奇の視線は青空を吊し上げた。

「ちょっとやめなよ」

　そこに女子の声が入った。

　ここでは珍しいノーメイクで、制服も硬く着こなした地味で真面目な女子だった。男子はレンズを女子の方に向けた。

「なんだお前邪魔するのか」

「陰キャのくせに」

「ウザいんだよねえ」

　激しいブーイングにも彼女はお構いなしだった。

「弱いものいじめなんかやめようよ。あなたが撮ってるその動画、流出したら就職出来なくなるよ」

「これは個人で楽しむだけだ」

「炎上したら大変なことになるから。みんなも気を付けた方がいいよ」

　女子に諭され、男子は舌打ちして青空を突き飛ばした。

「ちょっと謝りなさいよ」

　女子はすぐ青空に駆け寄った。

「大丈夫」

「う、うん」

　悔しさで起き上がれない青空の手を女子は優しく取ってくれた。

「ありがとう」

「あんな奴らに負けないで、がんばってね」

　女子はそう言って自分の席に帰っていった。

　ドアが動くと教師が入ってきた。推薦入試に必要な評定値を決める期末テスト。それなのに、クラスのほとんどが全く準備をしていないのは、就職や専門学校希望者ばかりだからだ。この高校の進学希望者は僅か数人で、それも自らＦラン大学を選んでいた。

「ボクはそうはなりたくない。だから毎日勉強をしてきた」

　期末テストが始まった。

　あれだけ勉強してきたのに、その出題は知識の外だった。あちこちの机の中でスマホのバイブが振動する。こいつらの無気力に押し潰されまいと青空は顔を上げた。窓の外では、爽やかなはずの秋を曇天が塗りつぶし、季節の移行を強制していた。

　――――――――

「見てみて。『いいね』の数」

「あの投稿が良かったんだよ」

　テストが回収されると誰もがスマホを取り出し、バイブの答え合わせをする。こいつらにとっての最重要課題は、ＳＮＳのアクセス数やフォロワーの数ばかりだ。

「帰りにカラオケ行こうよ」

「お腹空いた」

　この高校は、解像度の低い将来に安易な希望を抱く連中のたまり場だ。彼らは継続して努力することを知らない。卒業後には人生の答え合わせで嘆くことになるだろう。青空は薄く笑った。

　あれだけいじられていた青空なのに、放課後になると誰からも忘れられていた。あの女子も帰ってしまった。