11・ずっと一緒で、気付かなかった(2話)
ずっと一緒で、気付かなかった
兄が、恋人と別れたらしい。
兄・ノブは現在35歳、恋人・ノリちゃんは私・サヤカの同級生で30歳だ。幼馴染みだから知り合ってから随分と長い付き合いで、男女交際を始めてからも15年という夫婦みたいなカップルだった。
私は高校から隣県に出ており、2人がどんな付き合いをしているかは知らなかった。
それ以前に5つも離れた兄だから、話も合わないし遊んでもらえないしで幼少期からあまり懐いていなかったらしい。なので大きくなってからも同じで、何かについて2人で語ったり取り組んだりという作業をしたことがない。
つまりは青年期に入ってからの兄の人格というものに詳しくない。
ノリちゃんはうちの斜め向かいに住んでいて、小さい頃から兄のことが好きだったそうだ。私の家に遊びに来ては兄に構って邪険に扱われたりして、それでも想いを募らせてついに実らせた一途な子だった。
ちなみに、兄はイケメンとか呼べるほどの超絶美男子ではない。ただひょろっと背が高くて頭が良くて、まぁ並よりは男前なのかなと…贔屓目に見ればそんな感じだ。
一方のノリちゃんは大人しい可愛い系で、モテるタイプだけど兄への操を立てて告白は全て断っていた。
ちょっとSっ気のある兄と甲斐甲斐しいノリちゃん、私の印象ではそんなところだ。
進学して就職していよいよ結婚か、というところでの破局。
私は専門を出た後に地元へ戻っており、実家近くに部屋を借りて彼氏と同棲している。
ノリちゃんとも連絡を取れないこともないのだが、野次馬みたいに思われたら嫌なので黙っている。
仲の良さそうに見えていた2人、それなりにケンカや行き違いもあったのだろう。
私がそのニュースを知ったのは母からのリークだ。
ノリちゃんと一緒に住んでいたはずの兄から突然「実家に帰りたい」との打診があり、そこで「ノリが出て行った」と漏らしたことから発覚したのだそうだ。
兄はアパートは引き払って実家に戻り、そこから会社に行っているらしい。母は兄をずっと住まわせる気は無いそうで、さっさと出て行かせると言っていたがどうなのか。
そんなある休日のこと、私は用事があってひとり実家を訪ねていた。
「ただいまー……あ、ただいま」
「おう、おかえり」
「母さんは?」
「サヤカが帰って来るからって団子買いに行った。さっきだよ」
ダイニングには兄がいて、遅めの朝食なのかグラノーラをガツガツ食べている。
何だか気まずいな、他人でもそうだろうが血縁者だからこそ妙な壁と空気感がある。
早めに用事を済ませて帰りたいが、たまにしか会わない母にも顔を見せておきたいので待つことにした。
母はきっと、私のお気に入りの団子屋さんまで買いに行ってくれているのだと思う。私も自力で買いに行ける店なのだが、好物を食べさせたいという親心なのだろうから甘えることにした。
「……」
「……」
リビングダイニングには兄の食器の音が響いて、大変居た堪れない。
とはいえテレビを点けるのも、間が保たなかったことを示すようで失礼な気がする。
兄妹なのだから気にしなくて良いのだろうが、他人行儀というかほぼ他人くらいの認識なので仕方ない。
「(きゃいきゃい話す兄妹じゃないからねー…親しみが失せてるというか、絶妙に遠い親戚くらいな…)」
「あのさ、」
「わっ…え、何?」
兄からの声掛けに、私は露骨に驚いてしまう。
気を遣っていることを気付かれたくないのだが察されたのだろうか。
それはさておき私の心情など関係ない兄はぶっきらぼうに、
「ノリから、何か聞いてないか?」
と元カノの名前を出した。
「…へ…?いや、聞いてないけど」
「そう…あのさ、俺たち、別れたんだよ、ノリが出て行ったんだ」
「あ、そーなんだー…」
私は咄嗟に、知らないふりをしてしまう。
別れてからまだひと月足らずだと思うのだが、私はだいぶん序盤に知らされていたことになる。純粋な驚きは沈静化していたから、ビッグニュースにも関わらず演技臭くなってしまった。
「その…突然。だから、何か…理由が知りたくてさ」
「ほー…」
別れたことは受け止めているが、ノリちゃんが出て行った経緯は私も多少は興味がある。これは素直に反応出来た。
「他に好きな奴が出来たのか、引っ越さなきゃいけない事情が出来たのか、分からない」
「引き留めなかったの?」
「俺の仕事中に出て行ったんだよ。置き手紙だけ残して」
「ふーん…実家には行ってみた?」
「まさか。そんな近くに…居るのかな」
兄はそれなりに落ち込んでいるようだが、ノリちゃんと別れたことを真剣に受け止めていないようにも見える。もしかしてノリちゃんがフラッと帰って来ると信じていたりして。
「私、行って来ようか。おばちゃんは居るかもしれないし、何か知れるかも」
「いや、別れたこと知らないかもしれない」
「知れたら儲けものじゃん。塩対応されても、私が非常識な奴って思われるだけだしさ」
「う、うん…」
まだ母の帰宅には時間があるだろうし、私は斜め向かいのノリちゃん実家に突撃することにした。見事な野次馬だが、帰省したついでの世間話なら許されるかと…好奇心に負けた。
・
「こんにちは、おばちゃん」
「久しぶりね、上がって上がって」
インターホンを鳴らすとノリちゃんのママが出て来て、快く迎え入れてくれた。
玄関には若向けな靴が、これはノリちゃんのものではなかろうか。
「おばちゃん、ノリちゃん帰って来てるの?」
私が問えば、ノリちゃんママは
「そうなのよ、ノブくんと…その、別れて、一時的に帰省してるの」
と困り眉で答える。
ここで私ははたと、「娘が別れた恋人の妹」である私の立場を思い出す。
私は全く第三者の気分で来たが、もし破局の原因が兄にあるのだとすれば、私はノリちゃんママからしても敵の一味ということになろう。
第三者から当事者側の人間にジョブチェンジすれば、出されたお茶も素直に飲んで良いものだろうかと…今さら戸惑ってしまった。
「さ、飲んで。ノリも降りて来るわ」
「あ、あの、おばちゃん、私、ノリちゃんと兄さんが別れた理由を知らなくて、知ってる?」
ヒソヒソ声を抑えて尋ねると、ノリちゃんママはポカンとなりさらに眉尻が下がる。
「聞いてないの?」
「兄さんは、『分からない』って。『ノリが出て行った』しか言わないの。ノリちゃんの行き先も分かんないって言うし、だから個人的興味もあって来ちゃった」
「あら、そうなの…まぁ…男女間のことだから周りがとやかく言えないんだけどね、ノリは愛想尽かしたのよ。ノブくんに」
「あいそ、」
「詳しいことは本人から聞いたら?」
トントンと階段の床板を叩く音がして、ノリちゃんが降りて来ることが分かる。
兄に非がある別れ方をしたらしい、これは完全に私はノリちゃんの敵だ。知らずに乗り込んでしまった自分を悔いる。
ノリちゃんはどんな反応をするだろう、泣かれて塩を撒かれて追い出されるだろうか。
出歯亀根性がさもしかったなぁ、罵倒を受け止める心の準備をしていると、
「サヤちゃん、久しぶり!」
と予想外に明るいノリちゃんの声が降り注いだ。
私は無意識に頭を下げていたようだ。
「ノリちゃん、久しぶり…あの、この度は、うちの兄が」
「いいの、何、そんなこと話しに来たのぉ?」
空元気とか当て付けではなさそう、ノリちゃんの素の朗らかな態度だ。
「いや、用事があって帰省したんだけど、あの、2人が別れたってさっき知って、そのー」
「ノブくん、家に居るの?」
「うん、一時的に住み着いてる。それで、『ノリが出て行った』って言うからなんでか聞いたら『理由が分からない』の一点張りで。違うの、ゴネてるとかじゃなくてね、失踪したみたいな言い方だったから私も気になっちゃって」
「あはは、ノブくん、分かってないんだ」
ノリちゃんはあっけらかんと、笑い飛ばす。
飛び出したとか失踪したとかではないのだな、きっとノリちゃんは兄を捨てた、置き去りにしたのだ。
「兄さんは、ノリちゃんが出て行くに当たって『他に好きな男が出来た』か『引っ越す事情が出来た』の二択を挙げてた。でも違うんだよね?」
「違うよ、可笑しいね、ノブくんは自分に非があると思ってないんだ…馬鹿だね」
我が兄のことを悪し様に言われても、ピンと来ないくらいに我々の兄妹愛は薄い。
なので、もう少し踏み込んで知的好奇心を満たしてみることにした。
「具体的に、いやざっくりでも良いんだけど、別れた理由は何?」
「んー、いっぱいあるけど…聞く?」
「う、ん…」
ノリちゃんは部屋の隅に目線を移して、少し考え込みまた私を見つめ話し出す。
「元々、私が押して付き合い出したから、私に対して横柄な態度が多かったのね。私は尽くしたいタイプだったから亭主関白でも構わなかったんだけど、にしても年々態度が大きくなってた。年上だし引っ張って行ってくれるところが好きだったんだけど、社会人になると色んな人を見るじゃない?そしたら『この人、威張ってるだけだな』って覚醒しちゃった感じ」
「ほー…」
「料理も掃除もゴミ出しすら私の仕事で、脱いだ靴下とかもそのまんま。最初はお世話するのが楽しかったけど…段々と目が覚めたの。ノブくんは私が好きで身の回りのことしてくれるって思い込んでるから、何もおかしいとは疑ってもないと思う。だから、『ある日突然出て行った』としか考えられないのね」
「確かに、うちは父さんも家事は母さんに任せっきりだから、兄さんもそれに倣ってるのかも」
「上の世代の人はそうだよね、うちもそう。でもさ、うちはお父さんがお母さんに労いの言葉をかけてるし、お財布もお母さんに任せてる。でもさ、ノブくんは…」
「まさか」
「そう、家賃も食費も光熱費も折半だった。そのくせ、ご飯は私より食べるし節電なんてしてくれないし。私もお給料は貰ってる方だから負担とまではならなかったけど、これもじわじわ不満が積もり積もっちゃった感じ」
申し訳なさに、背筋が丸まり頭が下がる。自分の兄がそこまでダメ男だったとは。
一方の言い分を信じるのは良くないが、きっと真実だ。兄はズボラで片付けが苦手、それは数分の帰省でも窺い知れていた。食器棚の扉は兄が使ったであろう部分が開きっぱなしになっていたし、溢したグラノーラが皿の周りに落ちていた。たぶん、食べ終わっても片付けないだろうし牛乳も放置されているだろう。
「そっか…それはさ、指摘しなかったの?」
「うん、最近はしてたんだけどね、直す気が無いみたいだし、『お世話させてやってるんだ』って顔するのが無性に腹立たしくてね。あと、私の仕事を貶されたりもムカついた。水面下で準備して、少しずつ引っ越しの用意してたんだ。私が甘やかしたからこうなっちゃったのかな、と思うとそっちのお母さんにも申し訳ないね」
「いやいや、本人の性格だと思うわ。うちの母さんは口酸っぱく注意するタイプだもん。私も兄さんも、分け隔てなく『自分のことは自分で』って言われて育ったよ」
「そっか…でも、私と暮らし出して増長したのかな…私が何も出来ないダメ男にしちゃったのかも」
「ノリちゃんに好かれてると思って、愛を過信しちゃったんだね」
「そうなんだろーねー…ふふ、もうどうでも良いけど。私ね、県外に出るんだ。新しい支店が出来るからそっちに異動。また連絡するね」
「うん…あの、兄さんがもしストーカーとかしたら、迷わず通報しちゃって良いからね」
「あははっ、そんな行動力あるのかな、あの人に…永遠に『なんでだろう』って悩んでれば良いのに」
それから兄のことや自分の近況報告をしたりして、楽しい時間は過ぎた。
ノリちゃんママはお昼の支度をするからと奥へ下がり、私もそろそろお暇するかとお茶を飲み切る。
「……」
母親の気配が遠くなると、ノリちゃんは前屈みになって小声で、
「ノブくんさ、夜も勘違いばっかりしてたの。女性知識に偏りがあって…それも別れた要因だよ」
と教えてくれた。
「あ、そうなんだ」
兄の性事情など関心は無いが、他人のエッチなトピックとしてなら聞けなくもない。私はノリちゃんの隣に移動して、さらに声を潜める。
「んで、勘違いとは?」
「AVを鵜呑みにしてるっていうのかな、速いし強いし痛い」
「あぁ~…」
「自分が満足したらそれで終わり、みたいな。そのくせ、私には喘ぐように命令するの。だから凄い演技が上手くなっちゃった。あとね、……、」
達せないのをノリちゃんのせいにしたり、体型を崩すなと厳しく言ったり。舐めさせるくせに、自分は「汚い」と舐めなかったり。避妊を嫌がるくせに、いざ生理周期の乱れで遅れると「誰の子だよ」と疑ったり。
とことん自分本位な兄の姿に、呆れるを通り越して嫌悪を覚える。
「ノブくんさ、何が悪いか分からずにこれからも生きて行くんだよ。それが私の仕返しってところかな、当のノブくんは私に悪意は無かったんだけどね」
「でも、家事分担とか手伝いとか、エッチだって、考え直す機会はあったはずだよ。だから、ノリちゃんが兄さんをダメにしたとかでは…そんなに背負い込まなくて良いと思う」
「もちろん、だから捨てたんだしね。これから婚活して、早めに子供も産みたいなぁ」
「そう、頑張って」
台所から「サヤカちゃんも食べて行く?」と聞かれたが、断って席を立つ。
もう母もお団子を持って帰っていることだろう。
玄関まで送ってくれたノリちゃんは最後まで穏やかで、「またね」と手を振ってくれた。
こんな良い子を手離して馬鹿な兄…家で顔を合わせるのが億劫である。
・
「ただいま」
「おかえり、どうだった、実家にノリ居た⁉︎」
兄は待ち構えていたように私を質問責めにする。
「何も」と言いたいが、1時間は戻らなかったからそれは通用しそうにない。
「……」
ノリちゃんは、「サヤちゃんがノブくんに何を伝えても私は構わないよ。私が嫌だったことを知ってショック受けてたら、その顔撮影してまた送ってよ」と笑っていた。
自分の何がいけなかったか、何がパートナーを傷つけたのか、兄は知るべきだと思う。
黙ってダイニングへ進むと、案の定テーブルには食べ終えた食器と牛乳パックが置きっぱなしだった。
「兄さん、これ片付けないの?」
「え、母さんが後でやるだろ」
いつも言われているだろうに、馬耳東風とはこういうことなのか。
「…自分でやったら?」
「なんで?俺は…いや、もう家長じゃなかった」
同棲中は「俺が家長だから」と家事をスルーしてたんだな、家賃も生活費も折半だったくせに何が長だ。
兄はしぶしぶ皿をシンクへ置いた。納得はいってないようだが、実行するだけマシなのか。
兄は一時的に実家暮らしに戻るにあたり、いくらかは生活費を渡しているとは思う。
それに見合う以上の面倒を母に掛けねば良いなぁと、汚れたテーブルと乾いて固まった牛乳の溢し跡を見下ろす。
「それで、ノリのこと、何か分かったのか?」
「んー?んー…分かったけど、分からないと思うよ」
「は?何言ってんの」
「理由は分かったよ、でも、兄さんには分からないと思う」
兄は困惑して、しかしそれ以上食い下がっては来なかった。目を泳がせただ黙って、ぼうっと座っていた。
しばらくするとお団子とお弁当の袋を手にした母が帰って来たので、用事を済ませてから皆で頂いた。
食事中も兄は大人しく、黙々とお弁当を平らげて器を空にする。食後に出されたお茶を飲んで、少し表情が緩んだように見えた。
母が給仕してくれるのは、この家が母のものであり家全体が母のテリトリーだからだ。お客さまをもてなしているのと同じ、さらに言えば下手に食器を漁られて
でも、これも兄は「女はしてくれるものだ」とか思っているのかもしれない。
「ごちそうさま…じゃ、そろそろ」
私はゴミを分別して、湯呑みをシンクへ移動させる。
母は
「これ、旦那さんと食べな」
と、お団子とファイルに挟んだ婚姻届を渡してくれた。
私は婚姻届の証人を母にお願いしており、昼食前に記入してもらい父の仏壇に供えていたのだ。
「うん、ありがとう」
「しっかりね、お幸せに」
見送りの時も兄は静かで、玄関口でチラとノリちゃんの家を確認しているように見えた。
もしかしたら母に注意されて家事面は改善されるかもしれないが…それがノリちゃんに伝わることはないと思う。
そしてノリちゃんは吹っ切れたようにさっぱりしていたが、兄とのことを考えると私もあまり関わらない方が良いのかなと…残念だがそう思った。
また数年後とか、お互い結婚して子持ちになって、実家で偶然ばったり会うくらいで良いのかも。
兄にノリちゃんの気持ちは伝えない。ノリちゃんに兄の反応も伝えない。
身内のこととはいえ、好奇心で他人の恋愛に勝手に介入して端なかった。
「じゃあね」
少し遠回りになるけれど、ノリちゃんの家とは反対側に足を向けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます