4・信頼を吹っ飛ばしたのはキミ

信頼を吹っ飛ばしたのはキミ

 ばちぃんと肉が破裂するような痛々しい音が骨伝いに響いて、瞬間脳が揺れた。

 頭に引っ張られて体も床に落ち、自分の身に何が起こったのか分からず息が上がる。


「なに…?」

「ごめんね」

謝罪の言葉を吐く割に、彼は申し訳なさそうな顔なんてこれっぽっちもしていない。

 それどころか私とは別の理由で息を荒げ、その頬を上気させている。

 彼は先ほど意図的に、私の頬を打ったのだ。


 ここは男女が仲良くするためのホテルで、私たちは恋人同士だ。おまけに私は成人しているし、互いに大学生で自分の意思でここへ入った。

 何のためかなんて質問は野暮だ。好き合っている二人なんだから睦み合うのに特別な理由なんて要らない。

 私は当然彼に抱かれるつもりだったから、前もってボディーケアもしたしバスルームで最後のチェックもして清潔にしようと考えていた。

 全てを整えてベッドの横に立った時…彼は「したいことがあるんですけど、良いですか?」と私へ尋ねた。

 まさかたれるなんて想像もしてないから、「ちょっと激しいのかな」なんて浮かれてしまい「良いよ」と答えた。

 そして目を閉じ彼が息を吸い込む音が聞こえて…私は床に崩れたという訳だ。


「痛かったですか?」

「痛い、よ…ひどい…」

「僕のこと、嫌いになりました?」

「なりそう…いったぁ…血ぃ出てない?」

「…案外平気なんですね」

 確かに、体こそ崩れはしたが涙は出ていない。悲しいとか苦しいとかよりも、物理的に衝撃を受けたことへの驚きが優っているみたいだ。

「平気じゃないよ…腫れちゃうじゃん…」

「…ごめんなさい…」


 私は現在、大学3年生だ。

 フィリピンとのハーフで、派手な濃い顔立ちに生まれた。それなりに可愛いし勝ち組な気はする。

 実際小さな頃からモテたしチヤホヤされることに慣れてはいる。やっかみを受けて虐められたこともあるけれど、大学生ともなれば分別も付いているし平和に暮らせている。

 そんな私の彼氏は他大学の歳下の男の子だ。

 彼は中性的な顔立ちがまるでお人形さんみたいに美麗で、長いまつ毛がファサファサなびくさまは女の私が羨むくらいに悩ましい。

 身長は私より少し高いくらい、ひょろっとしていていつもダボダボな服を好んで着ている。

 少し癖っ毛なのかパーマなのかフワフワした髪の毛が軽やかで、スーツ姿でもポップな印象を受けたのを憶えている。


 私が彼に出逢ったのは今年の5月。大学の枠を超えたサークル活動でのことだった。

 初めての集まりでひと目見た瞬間に恋に落ちた…大袈裟だけどそれくらいドキッとして目が離せなくなった。

 今時のイケメンで、でも若者らしく初々しくて、ふわふわの前髪を指で伸ばす仕草が可愛らしくて気に掛かった。チャラついてなくてむしろ人付き合いが苦手そうな感じ、ゆったりマイペースな子なのだと思った。

 週2ペースの活動をしていくうちに仲良くなって連絡先を交換して、夏休みの終わりに私の方から告白して交際がスタートした。


 私のこれまでの彼氏遍歴はそこそこの人数なのだが、趣味が悪いのか見る目が無いのかダメ男の割合が高かったように思う。

 とはいえ弱冠二十歳の私が交際するのは同世代の男子ばかり、未熟なのは当然と言えば当然だ。

 まぁ浮気性とか著しくモラルが欠けてたり口が悪かったり…親しくなってそんな素を知ってしまいこちらからお別れしている。

 今の彼は穏やかだし言葉遣いも丁寧だし大丈夫…だと期待していた。


 それで今日のホテルインな訳だが、出鼻を挫くどころかビンタされて私のテンションはだだ下がりである。

「謝るくらいならしないでよ」

「だから一応、前もって聞いたじゃないですか」

「殴るとは聞いてないでしょ!聞いてたら断ってたよ!」

「そうですか…あの、泣いたりしないんですね」

「は⁉︎泣かせたいわけ⁉︎」

 自分で言うのもなんだが、私は細かいことは気にしないというかだいぶん大雑把な性格である。

 それどころか不精の域まで行っており、人に会わないならば1日ノーメイクパジャマで過ごせるタイプだったりする。素材の良さに助けられてモテはするけど、ざっくばらんな本性を出すにつれて異性が離れて行くという残念ガールな一面もある。

 悲しいかな、ダメ男側に完全に非がある訳ではないのだ。

 なので彼の前で見せていたいじらしくか弱いキャラは作り込んだ設定みたいなもので、「私は女優よ」くらいのテンションの演技である。

 彼はモテそうな見た目の割に女性と付き合ったことがないという、初心うぶなところも可愛くて心惹かれた。

 私の方が年上だし本性通り姉御肌を売りにしても良かったのだろうけど、彼のあまりの王子さまっぷりに私もお姫さまになってみたくなったのだ。『見た目の割にウブな恋』って萌えるエピソードじゃない、そんな目論みが私の原動力となっていた。

 しかしそのキャラも打たれた拍子に飛んで行って、まるっきり素の状態で彼を睨み付けている。


「信じらんない…暴行だよ?」

「すみません…僕、先輩の泣くところ見たくて」

「恐いこと言わないでよ!何なのそれ⁉︎」

「綺麗な人が泣くところ、見るの好きなんです」

「……はぁ?」

 躙り寄って来る彼と距離を取りたいが、バスローブの紐を押さえられて叶わない。

 何をしてくるか分からない恐怖、私は痛みには耐性がある方なのだが体格差のある男とまともに組み合っても勝てる見込みは薄い。

 私は裸にバスローブだし、廊下に飛び出してもきっと無人だろうから助かるまでに時間がかかる。扉は施錠されているかもしれないし、まごついている間に追撃されるのも御免だ。

 説得にて解決できればそれが一番良いのだが…ともかく刺激しないように話をしてみることにした。

「その…Sってこと?」

「どうなんでしょう…僕ね、この風貌なんで昔からモテるんですよ。僕の見た目がタイプだって女の子に」

「……」

「でもなんか違うっていうか…尻尾振って来られると追い払いたくなっちゃうっていうか」

 それ、釣った魚に餌をやらないってやつなのか、いやそれよりもっとタチが悪い気がする。よくあるダメ男エピソードのやつじゃん、こりゃまたハズレだと恋心が渇いていく。

 上手にこの場を切り抜けて、円満と言わずともなるべく穏便にお別れしたい。

「…ふーん、へぇー、そぉー…」

「そもそもが人付き合いが苦手で。でも大学生になって、さらに女の子たちからチヤホヤされて…もう疲れちゃって。そしたら先輩が告白してくれて。先輩みたいな綺麗な人がいたら、そこから奪おうなんて自信のある子はいないから…」

「断る手間が省けた?」

「そう、そんな感じです。でも…好意を向けられるばっかりなのはやっぱり苦手だなって思ってて。先輩好みの男を演じても良いんですけど、いい加減疲れて来てて…ほら、先輩って映えとか気にするでしょう?僕もアクセサリーくらいにしか見てない気がするから、いっそ僕にも利が無いと不公平な気がしてきてて」


 つまり私は魔除けならぬ女除けとしての機能を期待されていたらしい。それでまぁやることやっておこうと、かねてよりの性癖を試してみたと。

 しかし私は泣きもせず睨み返してきたから本音を暴露というわけか。

 セフレどころかどう扱っても良いサンドバッグみたいに認定されたのは癪だ。浮かれていたのが馬鹿みたいで情けなくもある。

「……」

 一矢報いてやりたいけれど…彼のバスローブのはだけた胸元の奥、鍛えた胸筋が見えた。ひょろひょろの男子なら力尽くで行ける気がしたのだが、体格差があれば勝ち目は少ない。

 やはり穏便に済ませるしかないのだ。長く関わりたくないから警察沙汰も御免である。


「腫れてきましたね、ごめんなさい」

彼は備え付けの冷蔵庫を開いて、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。

 これで冷やせということだろう、黙って私へ差し出す。

 この人は何が目的なんだろう。事態は切迫していると思うのだが、どうも追撃をしてくるようには見えず気が緩む。

 殴った後に優しくなるDVの典型的なやつなのだろうか。それとも少なからず後悔しているのだろうか。


 まずまずの距離を取った私は頬を冷やしつつ、

「…あんたがしたんじゃん…実際どうなの、涙目になった私は?」

と問いかけた。

「…拍子抜けですね。もっとピーピー泣くかと思ってました」

「残念でした…その方が興奮した?」

「どうなんでしょう…先輩って、流行とか追うしミーハーじゃないですか、温室育ちで自我の無さそうな量産型かと思ってて…茫然自失とかそれくらいなるかと想像してました」

「あっそう…ご期待に添えた?」

じんじんする頬に当てたペットボトルを揺らしては冷やし、やさぐれ感を隠しもせず睨みつける。

 素性を見透かされた恥ずかしさもあるけれど、だからといって力で暴くなんて許されない。

 もう好かれようなんて思わないから、愛嬌を振り撒くのももったいない。

「…先輩、本当はサバサバ系?」

「さぁね、大雑把系だよ」

「ふーん、なら絶対、そっちの方が良いですよ。かわい子ぶってるより好感持てます」

「あーそう、ありがとぉー」


 もうこれは実質別れ話だろう。もはやバスローブで居るのも恥ずかしいから服を着たい。

 なのに、彼は私が脱ぎ落とした服をホイホイ拾ってニタニタ笑い始めた。

「先輩、ついでだから最後までシましょうよ」

「はぁ?嫌よ、もうあんたとは…付き合っていけない。それ返して」

「ビンタしちゃったし通報するでしょ?だったら最後までシちゃっても同じですよね」

「同じじゃないし!ていうか通報なんてしないよ、面倒は御免だもん!だから何もせず帰ろ、」

この辺りで、やっと私にも危機感がじわじわ湧いてきた。

 泣かせたくてビンタする奴はきっともっと手酷いことをするだろう。力任せにされてはさすがに私も泣いてしまう。

 私の悲鳴をコイツの興奮材料にしてたまるか、しかし脱ぎ去られたバスローブの下から現れたゴリゴリの筋肉に血の気が引いた。

 がっつり鍛えられた肢体は努力の賜物だろう。普段のオーバーサイズの服はそれを隠すためだったに違いない。どうして隠すかって、己のイメージを保つためか女を油断させるためかのどちらかだろう。

 本気でネジが飛んでる奴なんじゃないの、一歩こちらに近付かれただけでぞわぞわ悪寒が走って肝が引き締まる。

「ねぇ、危ないことしないで、手が出るから」

「僕は叩かれても構いませんけど」

「あーそう、じゃあやられたらやり返すからね、正当防衛だからね!」

これを宣言しておかねばならない、これは私の身を守るための保険である。

「(…過剰防衛になると…面倒、マジ面倒!)」

 コイツがただのもやしっ子ならなぁなぁでも勝ち目はあったはず。しかし意図的に増やした男性の筋力には全力で向かわねばこちらの身が危ない。


「(負けたら襲われる、勝ったら破門…どっちも面倒…穏便に、穏便に……あ、来る!)」

「先輩、こっち、来て」

「いやっ……ふっ!」

掴まれそうになった手首を払い、バスローブを正して脚を開く。

 もうやるしかないのだ。

 処女でもないし今さら惜しむ体でもないけれど、どうせ抱かれるなら心から私を好いてくれた人に捧げたい。

「なん…」

 存外に強い力に驚いたのか、彼は分かりやすく意地悪な顔をしてまたこちらへと迫って来た。

「来ないで、本気出すよ、」

「何言ってんですか…ほら、楽しいことしましょ」

「あーもう、もう!正当防衛だからね‼︎」


 どうなったって知るもんか。

 組もうと伸びてきた腕を手の甲で払い、「セイッ」と彼の鍛えた腹部へ正拳を1発入れた。

「…あっ…⁉︎」

 予想通り、力は強いが取っ組み合いは慣れていないのだろう。

 か弱い女の子ばかり相手にしていたなら、当然こんな反撃を喰らうこと自体も初めてだったかもしれない。

 彼は膝から床に崩れてケホケホ咳く。

「言っとくけど、これ正当防衛だから。暴行されそうになったからやり返しただけだから」

「っ…てぇ……先輩…何、何かやってるの?」

「空手を少々、ね」

「早く言ってよ…ケホ…」

 可愛い女の子ぶってたんだから言えなかった。こんな形で披露するなんてことも全く想定外だし。

 空手は幼少期から近所の道場に通っていて、実は黒帯保持者である。筋が良かったのかメキメキと上達するのが楽しくて、けれど手足に筋肉が付き過ぎたために最近はトレーニングも控えめにしていた。

 格闘技経験の無い相手となら戦えばおそらく勝てるのだ。しかしやり過ぎと見なされればこちらが悪者になってしまう。相手が強い場合だってそう、全力で潰せばこれも過剰に傷付けてしまうことになる。

 そしてそれで勝てれば良い方で、相手が私を上回る火事場の馬鹿力を発揮してしまえば…私は心身を傷付けられた上に過剰防衛で処分されるという良いとこ無しの結果が待っている。道場も破門だろう、近所からの目も厳しくなるし本当に良い事が無い。

 あくまで正当防衛の圏内で、あるいは受け流してこの場を収めたい。

 最初のビンタは予想外過ぎて動けなかったけれど、相手の本性が知れたのならもう次は喰らわない。

「言ってたら襲わなかった?クズだね」

「いってぇ……前に『格闘技とかコワーい』とか言ってたじゃん…」

「猫被ってたの!……反撃は?する?」

「しませんよ、勝てません」

「弱いのね…その筋肉はお飾り?」

 彼はすっかり戦意を喪失したようだったが、私はまだファイティングポーズは解かない。不意打ちでビンタするクソ野郎なのだから、油断させておいて襲われないとも限らないし。

「弱いから鍛えてるんですよ…あー、痛ぇ…先輩、可愛くて強いのか…羨ましー」

「何言ってんの?」

「顔だけじゃないんですね、って褒めてるんです」

「失礼ね」

 どうやら彼の中で私はキャピってるだけの人生イージーモード女子扱いだったようだ。可愛さで確かに得はしているかもしれないが、それだけで就職や出世ができる世の中ではないから勉強しているんじゃないか。

 イケメン彼氏ができたからと浮かれて馬鹿みたいだ。もういっそコイツをボコボコにして悪女にでもなってやろうか。


「なーんか…良かったなぁ、付き合ったのが先輩で」

「もう別れようと思ってるけど…なんで?」

「さっきの1発、だいぶんキました…芯に」

「今さら良いこと言っても無駄だからね」

「分かってますよ…すみません、…僕、本当は嘘なんです。モテてきたっての」

彼もいい加減恥ずかしくなったのか、バスローブを着直してソファーに腰掛けた。

「え、嘘なの?」

「はい、僕、大学デビュー組なんです。県北の、卒業時には同級生が半分になってるみたいな底辺高校出身で…モサい青春時代を過ごしまして」

「…イケメンなのに?」

「垢抜けるために努力したんです。姿勢から肌から髪型から…幸いにも顔の作りは今風なのでいじってません。体も鍛えて…リア充ライフを楽しもうと思ったんですよ」

「へぇ~…」

「でも滲み出る地味臭というか、陰気さっていうか…出来るだけ前髪伸ばして目線を隠したりして……その、コミュニケーションが下手で…」

「ほぉ~…」

 どうせそれも嘘なんじゃないの、突然の身の上話に私も混乱する。

 とりあえず服を返して欲しい。指差して「それ、それ、」とジェスチャーすれば案外簡単に彼は渡してくれた。

「……」

 あくまで視線を離さず服を着るも、彼からはやはり敵意みたいなものが感じられない。

 もしかして肋骨が折れたりしたのかな、まずいなぁと冷や汗が滲む。

「あの…唐突な思い出話も良いんだけどさ、どこか悪いの?ほら、さっきのでマジ折れたとか」

「いいえ、キレイに鳩尾みぞおちに入りましたから、折れてはないと思います。動けますし」

「そりゃ良かった…」


 完全に服を着た私は手持ち無沙汰で、しかし彼を置いて出て行っては後味の悪い結果になりそうで帰るに帰れない。

 抜け殻のような彼は、自棄になり世を儚まんばかりに呆けている。罪の意識にさいなまれて、また罰を恐れて…なんてことがあるかもしれない。

 かく言う私の方はもう気持ちは落ち着いていて、着替えを済ませたと同時にファイティングポーズも解いていた。一定の間合いさえ取っておけば、手でも脚でも咄嗟の攻撃は防げると思う。


「あのさ、いつもその…こんな風に暴力してるの?」

「いいえ、女性どころか人に手を上げたことも無いです…見て下さいよ、こんな…先輩の重さが手に残ってて…はは…」

そう言う彼は背中を丸めて、私を叩いた手を揉んではぶるぶる震えていた。

 重量が揃っていれば踏みとどまれたかもしれないが、そもそも体格差もあるし筋力差もあるしで私は倒れた訳だ。彼からすればえらく簡単に吹っ飛んだように感じただろう。

 それくらい基礎的な力の差があるのだから、本来なら加減というものをしなければならないのだ。

「…そうなんだ」

「先輩が初めての彼女ですよ、ホテルも初めてですし。言ったでしょ、モテたこと無いって」

「…え、じゃあ…その、エッチの経験も無いの?」

「当然そうですよ、童貞です」

何故だか誇らしげに、彼はふふんと笑う。

「何なの、その虚勢」

「虚勢ですよ、それ以上でも以下でもありません。カマしてやろうと思っただけです」

「はぁ……経験無し童貞ならさぁ、ほら、もっとさ、人を選ぶというかさ、」

 語弊があるかもしれないが、彼には『分相応』という言葉を教えてあげたかった。派手なら派手な、地味なら地味な。見た目で全ては決まらないけれどある程度キャラクターによって住み分けがされているのだから、自分の居る区域の中で彼女を選ぶべきではないのか…と私は言いたいのだ。

 私はビジュアルも明るい性格も手伝って、高校のクラスの序列で言うところの一軍メンバーであった。

 それを本人が言うところのモサい男子が狙いに来るというのは、成功して金星ではあるがチャレンジが過ぎるだろう。

 今の見た目だから自信を持っているにしても、深い付き合いになれば殻が剥がれるだろうし微妙な価値観の差などが露呈してやっていけない気がする。

 決して、決して彼やその周辺の人を貶すつもりは無いけれど、高飛車に見えてしまっても疑問なのだから聞いておきたい。

「えぇ、そうですね」

「もっと大人しそうなさ、女の子も沢山いるじゃん」

「……だから、他大学の先輩で練習を積んでから身近な大人しそうな子と付き合おうと思って」

「……歯ぁ食い縛れ」

「待って、やだ、先輩‼︎冗談‼︎」

 笑えない冗談は聞くだけ無駄だった。まぁそれが本音ならある意味スッキリするが。

 遊びの相手なら充分だけど結婚までは考えてないみたいなことでしょう、若いくせに計算高くて嫌になる。

 まぁ女だって同じことを思うかもね、恋人にしたいタイプと結婚したいタイプは違うと思うし。でも使い捨てられる当事者になるなんて不本意だし腹が立つ。

「笑えないよ」

「だって先輩と僕なんて本来つり合わないですもん!先輩だって僕と添い遂げる気なんて無かったでしょ?せいぜい若いうちに良い思いして、適齢期になったら堅実な年上の金持ちと結婚する気だったでしょ」

「そんなとこまで考えてないよ。まだ二十歳なんだから」

「…僕は自分に自信が無いから、同じ考えだろう先輩と付き合ったんです。違うんならごめんなさい、失礼でした」

「失礼過ぎて…もう呆れちゃった」

 女除けのために高嶺の花を捕まえて、力で屈服させて体を奪い…適当に経験を積んだらサヨナラして相応な女子を捕まえると。

 実際、彼の思考と部分的に同じことをする人はいるとは思う。遊びと結婚は別、というやつだ。

 けれどここまでてんこ盛りで来られるとお腹いっぱいというか…若いから今後彼の考えは正せるだろうけど、それを私がしてやる義理は無い。女の頬を張るような男はどうしようもないし、自分の拙さに開き直る奴に付き合ってられない。

「君の計画はおかしいよ。未熟な若者だから、とかで済ませられない。…背伸びせずに自分に見合った子と付き合いなよ。私も猫被ってたことはごめんだけどさ…暴力もだけどさ、思想が危ない人はパートナーにはできない」

「…はい」

「別れよう、気を付けて帰ってね」


 彼の返事を待たずに、私はバッグを掴み部屋を出た。

 休憩代の半額は置いていった方がスマートだったろうか。でもこれ以上の会話をしてはいられなかった。

「(…つかれた)」


 二人で来た道を、独りで帰る。

 頬は痛くないけど熱が残っている感じ、診断書を取るべきかなと思ったり。

 駅の電灯の下で写真だけ撮ってはみたものの、明るさが足りずいまいち本来の状態が写り込まない。

 もう忘れてしまえということかしら、自撮りを繰り返すのも変なので諦めることにした。

 どうせサークルでしか会わないのだし、もう向こうも話し掛けては来ないだろう。

 交際期間が短くて助かったな、しかしサークル仲間に別れた報告をしたら周りに気を遣わせてしまうだろうか。まったく浮かれて吹聴した自分が愚かしい。過去に戻れるものなら告白する前まで戻って説得を試みる。

 まぁ恋する自分は「そいつ、DV男だよ」なんて進言されても信じはしないだろうから同じことか。

 ふわふわイケメンはマッチョな危険思想家だなんて、予想できないし想像できないし。

「(あーあ……むなしー…)」

 『イケメン彼氏にホテルでビンタされた』なんて引きのあるエピソード、これを笑いながら話せるのは何年後のことだろうか。

 叩かれたのは頬だけど、彼から受けた人格攻撃がじわじわ効いていて胸が痛い。ミーハーとか自我の無い量産型とか言われた気がする。

 そう見せていたし作っていたのだから言い得てはいるけども…「空っぽだからどう扱っても良い」と軽んじられたのが地味に苦しい。

 せっかくできた彼氏だから離さないように可愛く振る舞っただけなのに、誰でも良いどころか踏み台にされかけて。

 これからは素の自分を異性にも見せていこうかな、そしてありのままを受け入れてくれる感性の似たパートナーを探そう。


「(これでよし、)」

メッセージアプリで彼をブロックして、今朝までほのぼのしていたトークルームを削除した。

 もしも私が大人しそうな見た目で実際大人しかったら本命にしてくれたのだろうか。

 あのビンタで床に倒れてしくしく泣いて、そのまま抱かれて彼の男らしさにキュンとしたのだろうか。

「(いや、ないない。叩かれてキュンとはなんないって。計画が杜撰ずさん過ぎるのよ…未熟、お粗末、童貞ドリーム)」

 僅かに残る未練を打ち消すのはやはり頬の熱、自分の判断は間違ってないのだと胸を張る。


 この日は少し気分が落ちてしまったけれど、お風呂に入って家族とご飯を食べれば回復した。

 力任せのビンタは肌の奥までは届いていなかったようで、夜には腫れもすっかり消えていたし家族にも怪しまれなかった。

 対して私の腰を入れた正拳突きは彼の臓まで揺さぶったろうから、アザになっているかもしれない。

「(正当防衛、だもん)」


 もう要らないことを考えないよう、いつもよりも早めに就寝した。



 翌日、放課後。

 3コマ目の授業を終えた私がサークルの拠点であるクラブハウスへ向かうと、あっさりばったり彼と出会でくわしてしまった。


「あ」

「…こんにちはぁ」

「こ、んにちは…あ、あの、先輩、」

彼は昨日までの威勢が嘘のように挙動不審で、明らかに怯えている。

 無抵抗の相手を殴ったりしないよ、あんたみたいに…なんて思いつつよそよそしく澄まして「うん?」と応えた。

「…昨日は、すみませんでした」

「忘れよ、もう考えたくないの」

「……僕、あの後いろいろ考えて…もっと先輩のこと好きになっちゃって」

「ハァ?」

 もう包み隠す必要が無いから素のリアクションを取れば、彼は唇を震わせて目を輝かせる。

 何か目覚めさせちゃったの?マゾヒストに鞍替えしたってこと?解説を聞くのが怖くて私も唇が震えてしまう。

「あんな風に…腹を割って話せる女の人、初めてだったので…僕、先輩のこと本気になっちゃいました」

「それきっとショックでおかしくなっちゃったんだよ。吊り橋的なやつ、痛みで改心するとか良くないよ!」

 体罰を伴ったしつけじゃあるまいし。私は彼の性根を正したくて突いた訳ではない。あくまで身を守っただけ、あの拳に悪を浄化するような念も込めてはいない。

「何だって良いですよ、大学デビュー失敗でも良い、偽証モテ男は返上します。僕のこと殴っても良いですから…先輩、」

「キモいキモいキモい、近寄んな」

 さすがに明るいうちから暴行はされないと思ったけれど、しつこく手を掴まれたためにかいなを返してぶんと横へ振る。

「わぁっ」

「離してっ……っと、」

 このまま走って逃げるべやと廊下に顔を向ければ、他のサークルメンバーたちがぽつぽつと集まり始めていた。

 これ私が悪くなるパターンのやつ?まずいと動きを止めたら彼はすかさず

「お気になさらず!ちょっとした痴話喧嘩ですから!」

と高らかに宣言しやがった。

 特別親しい友人には既に「別れたけど気を遣わないで」と伝えてあったのに。この様子では「なーんだ、大げさに騒いで元サヤかぁ」と丸ごと惚気にされてしまう。

「ちょっと、違う!」

「先輩は照れ屋なんですから」

「黙って…」

「ラブラブでーっす」

「うるさいっ」

 否定すればするだけ真実味は増すばかり。

 それどころか「二人ともキャラ違わね?」なんてギャラリーから聞こえてくる始末だ。

 こうなりゃ在学中の彼氏作りは諦めるか。かわい子ぶりっ子より気さくな女がモテるんでしょう、分かってるけど王子様と結ばれたかったのに。

 なぁなぁで済ませる?彼はこの先更生する?不確定な未来と自己保身を天秤にかける。

 ひとまずこの場を治めてじっくり話し合おうか、でもそれでは昨日と同じ展開になる。


 ちっちゃなプライドを守っちゃおうかな、バッグを床に下ろして脚を開いた。

「ふっ!」

「…‼︎」

不穏な既視感に、彼の顔が強張る。

 私のファイティングポーズに慄いた彼は、反射的に腹を押さえて後ずさった。


 「なに?なに?」とギャラリーがざわつき始める。

 痴話ではなくガチ喧嘩か、女子の細い掠れた悲鳴も聞こえた。

 私もそんな女子でいたかったな、彼から目を離さず息を吐き拳を握る。

 分かりやすく威嚇してあげる、

「セイッ‼︎」

と大きく叫べばそれだけで彼は尻餅をついてしまった。

 昨日の衝撃が甦ったのだろう、手を出してないのに相手を倒すなんて達人になったみたいで気持ち良い。


「おい、なに、どしたの」

サークルの代表が私たちの間に割って入る。

 先日まで私に向けられていた視線とは打って変わって、変質者でも見るような目をしていた。

 グッバイ、私の青春。

「あの、私、もうコイツとは別れてるの。ホテルに行ったら殴られて…殴り返しちゃったの。もう別れてるの、だからその…知っておいて!」

私はそうよく分からない宣言をして、バッグを拾い駆けた。


 キャラ崩壊だわ、暴力女だわ、もうサークルも辞めちゃおう。

 とっとと駅まで走って、すぐの電車に飛び乗った。

 今頃、彼は責められているだろうか。

 あんな告白を聞かされてサークルメンバーも困惑したに違いない。


『♪~』


 私の素の性格を知る友人から『大丈夫?』とメッセージが入る。


『言ったとおりもう別れてんの。どう思われてもいい。辞めるかも』


 投げやりに送信すれば、友人からは以外やポジティブな言葉が返ってきた。


『あの子必死に取りつくろってたけど、周りの目を気にして逃げちゃったよ。あっちの方が辞めるかも』


 逃亡したのか、まさか私を追ったのではあるまいかと周りを見回した。

 とはいえ数本後の便に乗るだろうから平気か、自宅の最寄駅で降りて足早に帰宅する。


 家に着くまでに、彼から電話着信が山のように来た。

 チャットアプリではブロックしたが、滅多に使わない電話の方は拒否設定するのを失念していたのだ。

 逃げて一旦落ち着いて、私にコンタクトを取ることにしたのだろう。

 その目的はおそらく弁解とか取りなしとか復縁要請だったりして…掛かっては切り、掛かっては切りを繰り返して合間で拒否することに成功した。


 その夜の友人からの情報によると、彼はサークル脱退を決めて代表に申し入れたらしい。

 グループチャットではやんわりとそのことに触れるだけ、恋愛のいざこざで活動を辞めることに批判的なメンバーもいたようだ。

 そしてその矛先は私にも向いている訳で、「くっついても別れても周りが気まずいだろうが」といった旨を遠回しに告げられた。



 そしてその後。

 真面目に活動していたが、異性への干渉が好ましくないと陰口を叩かれるようになり、私もサークルを辞めた。

 就職活動も始まるしちょうど良かったなんて自分を慰めて、穏やかに生活している。

 恋愛はあれからからっきしで、まぁ学生の本分は勉学だしなんて誤魔化しながら自分磨きに取り組んでいる。


 年度が変わって初夏の候…下校しようと思ったら校門の前で懐かしの彼が待ち伏せていた。

「先輩、お久しぶりです」

「うわっ…なに?」

あれほど好きだった顔も、不審者だと思えば途端いやらしく感じる。

「きちんと謝りたかったんです。本当に、すみませんでした」

彼はきちんと両足を揃えて、頭を下げた。

 しばらく見ないうちに大人になったのか、彼はジャストサイズの長袖Tシャツが様になっている。

「もう良いよ」

「あの、それで…これ、」

彼はゴソゴソと、手提げからクリアファイルを取り出して掲げる。

 署名か何かかな、

「なに?」

と尋ねると

「形成外科の診療明細です。骨、折れてたみたいで」

と言われあの日の光景が蘇った。

「えっ」

「正確には深いヒビなんですけど。直後から痛くはあったんですけど、打撲だと思ってて。翌日のあのサークルの日も結構辛くて、歩くのも痛くて。それで、威嚇されて尻もち付いたじゃないですか、あの衝撃で完全に逝っちゃったみたいで。病院に行ったんです。そしたらほぼ折れてるよって…」

「あ、それで連絡……ご、ごめん‼︎あの、治療費、」

「いえ、そういうのは大丈夫なんで」

「…そ、それで、それを見せてどうしろっての」

 まさかそれを盾に何か要求して来るんじゃないの、学生生活や就職活動など先々の見通しに暗雲が掛かる。

 逮捕とかされる?土下座で許してくれるかな?髪の生え際から汗がじわじわ吹き出した。

 けれど彼はすぐにファイルを仕舞い込む。

「安心して下さい。脅したりしません、なんなら先に手を出したのは僕なんで…脅すつもりなら、お金払って診断書貰ってますよ。ただ先輩に殴られて、僕は痛い目に遭いましたっていう…その、スッキリしないかなって」

「する、けど」

「僕、元々が虚弱なんで完治まですごく時間掛かっちゃって…改めてお詫びに来たかったんですけど、行こうと思ったら痛んで…その、ビビっちゃって、すぐ来れませんでした。……すみませんでした。色々と履き違えてて…陽キャの先輩に惚れられてるっていい気になってました。もし先輩が被害届を出すなら、きちんと償います」

「い、良いって!ほら、何の傷にもなってないし!」

 そもそもがあの件からは半年以上の月日が経過している。当日中に腫れも引いたのだから何の証拠も残っていない。

「そうですか…すみませんでした。あの…お、お元気で」

彼はホッと息をついて、まだ痛むのか手で腹を押さえる。

 これでやっと彼の中で区切りが付くのだろう、芯から悪い子ではないのかもしれない。でも私が共に歩きたい男性ではなかった。

「……うん、お互いに、素のまま付き合えるパートナーが見つかると良いね」

「僕は、先輩以上に魅力のある女性を知らないので…長くかかるかもしれません」

 あら、ワンチャン狙ってる?でももう彼の言葉は私に刺さらない。

「あはっ…忘れよう、元気でね」


 駅までの道のりは同じだけれど、共に歩む義理も無し。さくさく走るように足を進めて、彼の気配を振り切った。

 それから、私は短い区間だがひと駅分歩いた。やっぱり駅で鉢合わせると気まずいし、別れの挨拶をした相手にもう一度会っても対応に困る。

 友達には戻れない。

 そもそも大学が違うし生活圏も違うのだから、ここを乗り切れば滅多に遭遇しないはずだ。


「(痛かったろうなぁ)」

 私も同様の怪我はしたことがあるので、痛みや不便さに共感はできる。

 尻もちを付いて、痛みに慄いて、サークル仲間から「暴力…?」といぶかしがられ、さぞかしみっともない姿を晒したことだろう。

 女の私に殴り返され、動けなくなって、結果重傷で…私から訴えられる恐怖にも怯えて過ごしたかもしれない。

 暴力の情報は彼の大学側にも流れたかもしれないし、友人から遠巻きにされてぼっちになっていたりするかも。


「(しかし…やり過ぎた?)」

 私がやられたことに対して、彼への跳ね返りが大き過ぎた気がする。

 私は頬が痛んだのとサークルを追われたくらいで、大した痛手は無かったし。調子に乗った代償か、そもそもが暴行だから妥当なのか。


「(…スッキリ、も…そんなにしないなぁ)」

 忘れかけていた記憶を掘り起こされても、気分は良くなかった。彼が憂き目に遭っただろうと想像しても感情が動かなかった。

 ただワイドショーで有名人の不祥事ニュースを耳にした時みたいに、「へぇ」という感嘆にも満たない息が心中で漏れるくらいだった。

 これが情が切れたということかな、彼の事はまたしばらくは記憶の闇に葬っておきたい。


「(ざまぁ、ちょっとだけ)」

 忘れようと思っては、一歩進むごとにまた思い返す。これから先も、キッカケがある度に回想してしまうのだろう。

 そしてあの日までの、イケメンな彼と交際した事実は美しき思い出として心に残っている。


「(でも…叩かれて、今日までの彼の顔は…浮かばないや)」

 さっきまで会っていたのに、もうその光景はおぼろげだ。脳が、彼を記憶したくないと頑張っているのかもしれない。


「(また、鍛え直そうかな)」


 心身共に強い女になろう、そう思いつつ次の駅を目指すのだった。




おわり

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