ずっと一緒で、気付かなかった
「…ノリ、大丈夫?」
母が心配そうに尋ねる。
「大丈夫。むしろ、スッキリしてる」
幼馴染みのサヤちゃんが帰って、母と昼食を摘む。
「お向かいだから、やっぱり会っちゃうわよねぇ」
「ふふ、本人は訪ねて来る勇気は無いみたいね」
斜め向かいには、元カレの実家がある。そこに、アパートを引き払った元カレも戻って来たようだ。
私は今夜のうちに新居へと戻る。
実家に置いていた荷物を取りに来ただけだったけど、短時間のうちに元カレの妹に会ってしまうなんて何の因果か。
ノブくんと暮らしていたアパートを飛び出してからひと月、契約してからはふた月になる。同棲中に契約して、家賃を払いながら少しずつ荷物を運び込んでいたのだ。
話し合いなんてしたって無駄、だから逃げるように引っ越した。
幼い頃から惚れていて、告白して付き合って。
お互い初めてで、当然結婚するものだと思っていた。
早くから相手が決まっていて、婚活する必要も無いし安心して仕事に注力することが出来た。
しかし20代も半ばになると、友人や同期が結婚し始めて、ふと「あれ、私ってノブくんと結婚して良いのかな」と考えるようになった。
片付けもしない、家事もしない、でも私を養えもしない。形ばかりの亭主関白。
私の体型や化粧や料理にケチを付けて、反論することが悪だという意識を植え付けた。誕生日の度に「ババアになって来たな」と言われ、「俺が捨てたら嫁の貰い手が無いんだからな」と繰り返され。
本人はそんな
この人を敬う理由が無いことに気付いて、しかしそこから長かった。人生の大半を懸けた恋愛が終わってしまうのが淋しくて、自分を形作る要素を失くしてしまうようで恐くて。
でも決定的だったのは、彼のあの言葉だった。
「は?誰の子だよ、俺はちゃんとゴムしてただろ!デキてたら堕ろせよ、俺は他人の子なんか育てねぇからな!」
ストレスからなのかホルモンバランスが崩れて、生理が遅れた時に言われた言葉だ。
サヤちゃんにも母親にもソフトにしか伝えてない。フルバージョンは口に出すときっと泣いてしまうから。
私は彼以外の男性を知らないし、浮気なんてする暇も無かった。謂れのない疑いを掛けられて、しかも僅かに可能性のある命を簡単に棄てるよう言い放つ…彼を覆うフィルターが、やっと剥がれた瞬間だった。
職場に転勤希望を打診したら、ちょうど新しい支店が出来るからとそちらを勧めてもらえた。
帰りに不動産屋に寄って手頃なアパートを探して即入居契約を交わし、休みや仕事終わりに部屋を整えていった。婦人科に行ってピルを処方してもらい、望まぬ妊娠をしないよう備えた。
そして離脱。
楽しい思い出は少なからずあったから、全てが無駄だったとは思わない。私の人生のほとんどを捧げたから。
自分を被害者とも思ってない。自分の意志で決めた交際だったし、求められることで自分の欲求も満たしていたし。
横暴になったノブくん、私より尽くしてくれる女を見つけることができるかしら。
私より貴方を愛してくれる女を探し出せるかしら。
誰と付き合ったって、「ノリは良い女だった」って美しい思い出と比べてしまうでしょ。
言いなりになって慕ってくれる、私みたいな彼女が出来ると良いね。
本当は、貴方が40代になってオジサンになって、婚活もままならなくなるまで待つっていうやり方もあったの。でもそうしたら私だって30代を通り過ぎてしまう。
報復のために人生を棒に振りたくない。そこまでしてあげる価値も貴方にはもう無いの。
私、幸せになりたいから、謎だけ残して何の解決策も用意せずサヨナラします。
本音を言えば、サヤちゃんにも会いたくなかったな。ノブくんの面影が強すぎて。
親友と呼べるくらいには仲良しだったけど、本心では「何しに来たの」と追い返したかった。
別れたこと自体は吹っ切れているからまるで有名人のゴシップみたいに笑って話せたけど。気まずくなりたくないから「ノブくんに出て行った理由を話して良いよ」とも言ったけど。
「(本当に、ノブくんの落胆顔が送られてくるかな)」
ノブくんの反応は、もうどうでも良い。私はサヤちゃんの連絡先も拒否設定にして、スマートフォンを眺める。
またいつか、お互い所帯持ちになって同窓会とかで再会したら…その時は「スマホ壊れちゃって連絡先消えちゃったの」とか言って誤魔化そう。
黒い画面に映る私は真顔で、でも憐れさなんて
母親に笑顔で
「もうここには帰らないから、新居に遊びに来てね」
と告げ、裏口から広い世界へ踏み出した。
おわり
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