12・元気に、切り替えて、清算します!(2話)

元気に、切り替えて、清算します!

 家に帰ると、彼氏と知らない女が裸で繋がっていた。

「ち、違うんだ、これは」

「あの、」

「誤解だ、おい、」

「待って下さい、」

浮気カップル共は口々に弁解をさえずって、やかましい。

 部屋の隅に設置したベッドに乗っていた2人、私からは彼の無防備な尻が一番に視界に入っていた。

 私といえば妙に落ち着いていて、「ooh!スタンダード浮気スタイル!」と脳内ジョン(仮名)が私の代わりに感嘆する。冷静で、慌てふためきもせず、でも徐々に膝がガクガク震えているのを感じていた。

 とりあえず裸を見たくないので、目を背ける。


 ちなみにここは私のワンルームマンションで、彼氏とは同棲している訳ではない。合鍵を渡して不在時でも好きに使わせていたが、こんなことに利用されていたとは知らなかった。

「(どうしようかな…別れるのは決定だけど、ベッドとか買い取ってくれるのかな…)」

 修羅場になると、関係無いことを考えてしまう。

 部屋の入り口の壁にもたれて、ため息をついた。


「なぁ、誤解なんだ」

裸の彼氏は、情けなくまだごちゃごちゃ言っている。

「…何が誤解?」

「いや、その」

「きちんと説明して?何がどう誤解なのか。浮気じゃないってことなんでしょ?」

「あの、浮気なんだけど、本気じゃなくて、遊びで、」

汚物はもごもごと、どうでも良いことを喚く。

 女は私の布団で体を隠して、気まずそうにしていた。

「(てか、服着ろよ……あ、踏んでた)」

玄関を入ってそこからプレイが始まっていたのだろう、私の足の下には女物の服が敷かれている。

 点々と2人分の衣類がベッドまで続いて、私のお気に入りのルームランプの上に下着が掛けられていた。

「(殴りてぇー)」

 私は近くに落ちている衣類を握れるだけ握って、脇の下に挟んで逃亡を阻止した。彼と別れることは決定事項だが、諸々の賠償の話を付けねばならない。

「えーと、とりあえず…ここであんたらが使ったものは弁償してもらうね。処分代も。公正証書でも作ろうか」

「ま、待ってくれよ、金の問題なのか⁉︎」

「え、他に何の問題なの?私、もうあんたとは別れるし、私の新しい生活に必要なものを買わなきゃいけないんですけど。ハウスクリーニング代も追加するね、新しい家具が来るまでのホテル代も。鍵も交換するからそれもだし…ちょっと、メモするね」

「待てって‼︎」

彼氏だった男が、モノを揺らして立ち上がる。

 パンツくらい穿けよ、との思いを込めて嘲笑してやった。

「私が『どうして浮気したの』なんて尋ねると思った?今さらそこを掘り下げても無意味だよ、もう別れるんだし。思う存分遊べば良いじゃん?私は浮気する男は要らないよ」

 我ながらクール、脳内ジョン(仮名)もビックリの塩対応。

 この男の脳内には「俺を取り合ってケンカはやめてくれ…」なんて思考が蔓延はびこっているのだろうか。

「…そういう、冷たいところが可愛げ無くて嫌だったんだよ」

「あーそう、私もさっきあんたのこと嫌いになったからおあいこだね。てかその嫌な女の家で浮気すんなよ」

「お前が早く帰って来るからだろ」

「関係無くない?私の家に私がいつ帰ろうと問題無いっしょ」

 確かに最近残業続きで、彼が夕飯を準備して待っていてくれる日もあった。『早く帰る』と連絡したのに残業になった日もあった。

 だから今日も大丈夫だと思ったのだろうが…こんな博打を打たなくても良いのに。せめて自分の家かホテルに行けばバレなかったろうに。

「……」

「もしかして、私にバレるかどうかのスリルを味わってたとか?いい加減にしてよね…とにかく、ベッドは買い替えるから逃げないでね、請求書を後で送るわ。逃げたら会社宛に内容証明送るし」

「……」

すっかり静かになった彼は、立ったまま後退りしてベッドへと力無く腰掛ける。

 こんな奴の生尻が触れた布団も、当然買い替えである。


 私はスマートフォンのメモに弁償してもらいたい物を書き出して、一応現状がどんなものか記録を残そうとカメラを起動した。

 そして

「証拠撮っとくから、局部は隠してね」

と前置きしてシャッターボタンを押す。

「きゃっ」

女は頭まで布団を被り、彼は彼女を守るように覆い被さった。

 おかげで尻がまともに写ってしまったが…まぁ仕方ない。

「よし、じゃあ出て行ってね」

「……」


 おふたりは渋々服を着て、しかし衣類が足りず彼が「あの」と発言する。

「ん?」

「それ、お前が持ってる」

「あー、はいはい、どーぞ」

 私は脇の下に挟んでいた衣類をポンと投げて、あたふた拾うふたりを見下ろした。

「(あっけない…しかし面倒だな…)」

私はもう、近所の家具屋さんに新しいベッドを買いに行く手間や搬入日のスケジュールなどを考え始める。

 引っ越して新居に搬入してもらうというのも手だろう、しかし浮気原因で転居まで費用を負担してもらえるだろうか。


 ぼんやりしていると、着替え終わった2人が私の前に並んで立った。

 そして

「ごめん、でもお前のそういうドライなところが嫌だったんだ」

と最後っ屁をかまして来やがった。

 そんな女と好んで付き合っていた奴がよく言う。そんな女が自分の前では甘い顔をするのが「優越感あって嬉しい」と言っていたくせに。

「はいはい」

「チッ」

 彼は私の横を通り抜けて、玄関で靴を履き始める。

 女は彼を目で追って、私に深々礼をして玄関へ向かい出て行った。


「(釈然としない…未練は無いけど)」

 あの女は、どう言われてここに入ったのだろう。玄関には私の靴が置いてあるし、日傘や帽子に違和感を覚えなかったのか。インテリアに女性らしさは表れてはないが、浴室や洗面所を見れば男の部屋には見えなかったはずだ。

 でも頭を下げたから反省はしているのだろう、彼女に関してはもう責めない。


「……やだなぁ」

 ふんわりと漂う情事の残り香。引きつりながらゴミ箱を覗けば、既にふたつ丸まったティッシュが落ちている。

「何時からヤってたんだよ…!」

 なんか彼の体液が臭う気がする、オエェとえずきながら雑誌でフタをした。


 その日はホテルに泊まり、まったりしながら報復活動を始めた。と言っても、至極当然の弁償をさせるだけなのだが。

 まずハウスクリーニングの相場を検索、これは案外お安い。

 しかし綺麗にしたところで住めるかな、と単身の引越しプランも調べた。

「ほうほう」

 要らないものを全て捨てて新居に行くのも良いかも、不用品改修業者と引越しの合わせ技でいくのもスッキリして良い。

「新居契約、回収業者、引越しの順か。いや、新しい家具を見に行くのが先か……ふふ…」

なんでワクワクしてるんだろう、こういうところが可愛げが無かったのか。

 でも私を蔑ろにする男は要らないし、自分の気持ちに嘘はつけない。

 急いでまとめた荷物から明日着る服を出して吊るし、戦闘服ばりに整える。

「見てろよ…絶対に負けないからな」

 目頭が熱くなるのは私が弱いからじゃない。負けないぞという決意がメラメラ燃えているからだ。



 翌日、元気に出勤して普段通り仕事をした。

 昼休みには調べておいた不用品回収業者に電話して、訪問日を決めた。「見積もりをしなくて良いんですか?」と聞かれたが、引き取ってもらう物は全てリストアップしていたので淡々と告げて、車両の大きさも決めてもらった。

 そして作業中に気付いたのだが、回収してもらうとさほど大きな荷物は残らない。 

 これなら自力でいけるかな、ケチっても意味は無いが引越し業者は頼まないことにした。

 あとは新居探しと家具選びだ。次の休みにまとめて済ませよう。


 私は元々、計画を立てたり準備をしたりするのが楽しくて好きなタイプだ。彼とのデートプランも、積極的に計画しては私が率先して連れ出していた。

「(いつも褒めてくれたのにね)」

 自分が楽が出来るから重宝していたのかな、たまには彼に計画して欲しかったけど結局してはくれなかった。


「部長、今度引っ越すんですけど、保証人とか頼んで良いですか?逃げませんから。あとオススメの地区とかあれば」

 上長に雑談を仕掛けては情報を貰って、居住地変更の申請書も印刷しておく。我ながら準備万端で、自分に惚れ惚れする。

 遂行したらパーティでもしようかな、休憩終わりまで家具屋のホームページを閲覧して時間を潰した。



 休日、前もって連絡しておいた不動産屋に向かう。

 ホームページで見た物件と、類似物件を併せて見せてもらい内見もして即新居を決定した。

 入居日と住所を確認、契約書類にサインをして家具屋へ移る。

 こちらもチェックしておいたものを見ては注文カードを手に取りカウンターへ、幸い在庫ありだったので入居日に搬入してもらうことにした。

「(家具屋なのに家電も揃っちゃった、ラッキー…次は今のアパートの管理会社ねー…)」

 サクサクと物事が進んでいき、恐いくらいだ。これが私の立ち直り方なのかな、我ながら頼もしい自分に惚れ惚れする。


 現在のアパートの管理会社に今月いっぱいで退去するよう電話して、諸々の手続きを確認した。

 新居へは1週間後に住めるので、ホテル住まいを満喫した後にチマチマ荷物を運び出す予定だ。

「……嫌だねー、汚ったない」

アパートで持ち出しの洋服を準備しつつ、ついつい本音が漏れる。

 彼と楽しい思い出もあったのに、あの情けない尻の絵面で塗り替えられてしまった。

 何度ここを使われたのか、そもそも何人の女を連れ込んだのかも聞いてはいない。

 彼は「違うんだ」の後にそれを説明するつもりだったのだろうか。何を言っても藪蛇にしかならないとは思うが。



 1週間後の休日、新しい部屋の鍵を貰って新居に足を踏み入れた。

 掃き出し窓を開けて風を入れれば、これまでとは違う街の匂いが吹き込んで来る。昼時だからか、どこからか醤油と出汁のいい匂いがする。

「良いね」


 家具屋さんが来るまでに荷解きを済ませて新しい家具家電のスペースを確保して、悠々と弁当を食べた。

 ホテル住まいもリッチな気分で楽しめたけど、自炊もしたいしアパートの方が落ち着きやすい。

 新しいベッドは以前のものよりワンランク上のものをチョイス、枕も大きくてフカフカのタイプにした。

 前とは違う柄のシーツ、前とは違う柄の布団、前とは違うカーテン、スリッパ、キッチンマット。


「気持ち良いなー…新しい布団…」

 新しいものに囲まれて眠る夜、親元を離れて初めてのひとり暮らしをした日のことを思い出した。自分の城ができたようで嬉しくて、でも静かな暗闇が酷く怖かった。朝になれば喧騒が帰ってくるけど、夜はその静けさがいやに不気味だったのを憶えている。

「フカフカだもん、全然怖くないもん…アイツの金で賄ってもらうんだもん…くそが、ばーか」

 この日、私は彼と別れて初めて、涙を流した。

「まだ、終わっでないんだがら…あの部屋が、まだ、のごっでんだがらぁ…」

 悔しいなぁ、酷いことをされたのに私がこんなに徒労して。

 アイツは今頃、あの女とよろしくしてるんだろうか。馬鹿みたいに尻を振って、せいせいしたとか思ってるんだろうか。

 月末、見てろよ…鼻を噛んで好きな音楽をかけて、そうしたらストンと眠りに落ちていた。



 月末のアパート引き払いの日。不要品の回収は朝イチで予約してあったので早くに現地集合した。

「これと、これ、それも」

「はい、了解っすー」

 回収業者さんは男性が2人、手際良く大型家電も運び出してくれる。

 ベッドの枠組みは適当にバラしたらそのまま車に載せて、マットレスもヨイショヨイショと縦に積まれる。ゴミで捨てられるものは回収日に出しておいたから大ぶりなものばかりだ。エアコンは元々付いていたものだからそのまま、炊飯器はお高いやつだったので新居に持って行った。

「(スッキリー…)」

 すっからかんになった部屋を見れば胸がすく。

 トラックの荷台に窮屈に押し曲がったマットレスは「ざまぁ」という気持ちになる。まぁベッドに罪は無かったので、リサイクルされて何かの形で手元に戻って来ればなんて心の中で情をかけてやった。


「ではこちら、領収書です」

「はい、ありがとうございます!」

 処分費用を現金で渡して、有り難く領収書を貰う。

 リサイクル代も込みだが、自力で洗濯機などは運べないので手間も加味すると安いくらいだ。

「……お、」

 アパートの駐車場を出て行くトラックと入れ違いで、管理会社の社用車が入って来る。

 いよいよ、この部屋ともおさらばだ。もうサッパリとした気分だから、涙は出ない。もしかしたらまた夜にグズグズ鼻を鳴らすかもしれないが…誰にも見られないからセーフだろう。


「忘れ物が無いか確認してもらって、鍵はここに置いておいて下さい」

「はい」

 管理会社のスタッフさんが空の部屋を見て回り、壁や床に目立った損傷が無いかチェックする。私は後を追いかけて、フムフムと愛想を振り撒いておいた。

「では、立ち会いして頂いてありがとうございました。以上で終了になります」

「お世話になりました」

 本当、ここは立地が便利だから重宝してた。

 住み慣れた我が家よさようなら、親しみある道を通って駅まで向かった。



 半月後。家賃が落ちる口座に、前のアパート関連の入出金があった。

「お、戻って来てる」

 最後の月の家賃はそのままだが、敷金が数千円だが還付されている。綺麗に使ったからご褒美だな、元々は自分が出したお金なのだがそれはさておき嬉しいものだ。

 これで、前の部屋に関わるお金が全て片付いた。

 私は溜めていたレシートや領収書をまとめて電卓を叩き、合計金額を割り出した。

「ほう」

 たぶん、彼のひと月分の手取りより少し多いくらいか。分割にするほどでもなく、親に泣いて頼むほどの額でもない。引越し業者は要らなかったからその分安くなっているし、光熱費は差し引いているのだからお値打ちだと思う。

 表計算ソフトを開いて、請求書のテンプレートを確認しつつポチポチ文字を入れていく。

 別紙には簡単な挨拶と振込先情報を入れて、プリントすればもう出来上がりだ。


「さて、どう渡そうかな」

 会社まで乗り込んでやっても良いが、それで彼が職を失ったりしたら寝覚が悪い。でも郵便にしたら「気付かなかった」としらばっくれるかもしれない。投函されたか確かめる術はあるけれど、「まだ開けてない」とかほざかれたら余計に連絡を取らなきゃいけなくなる。

「……よし、待ち伏せしよう」

 私は彼を会社の前で捕まえて、衆目の前で請求書を渡すことにした。



 決行当日。私は午前半休を取り、彼の出勤時を狙うことにした。

「この辺りにしましょうか」

「そうだね」

 休み申請をしたところ部長は「何かあった?」と心配そうにしてくれたので、簡単に計画をお話しさせてもらった。

 すると部長は「スリリングだねぇ」と何故か乗り気になり、同伴してくれることになった。

 ちなみに部長はアラフォーのお茶目な独身男性である。

「じゃあ、絶対に喋っちゃダメですからね」

「分かってるよ」

部長は普段よりもビシッとスーツを着込んで、いつもはトートなのに堅めなビジネスバッグを選んで手に提げる。

 その手首にはゴツめの高級時計がチラリ、少し机で打っただけで「ひゃー」と撫でるくらいに過保護に扱っている宝物らしい。部長としては、自分が同伴することで物々しさを醸せたらとの狙いがあったようだ。

 でももちろん威圧などしてはいけないし、脅したりもしてはいけない。だから口酸っぱく「黙ってて下さい」と何度も念押しした。


「…あ、来ました、行きましょう」

「はーい」

「おはようございます」

 元彼の姿が見えたので、社屋入り口の邪魔にならない位置で声を掛ける。

「おは…えっ、」

驚いた元彼は私を見て、そして後方に侍る部長に気付いて二度見していた。

「こちら、お別れ時にお伝えした件の請求書です。この度、やっと全てカタがつきましたので、お持ちしました。今、中身を確認して頂けますか?」

 他人行儀に仰々しく、しかし丁寧に封筒を渡す。

 怯えた元彼は周囲を気にしつつ便箋を開き、請求書の合計額を見て無表情になった。

「どうかされましたか?」

「え、いや…」

 3桁万円くらいを想像していたのだろうか。少し目が泳いでいるものの、口角が上向きになっている気がする。払えなくもない、支払い後に困窮する程でもない絶妙な額だったのだろう。

 でも、一括でこの額の買い物をするとなるとじっくり考えたくなる大金だ。ましてや、支払って見返りがある訳でもないから気が乗らなくて当然だ。賠償だし、表立って笑うことも出来ず戸惑っているのだろう。


「口座はそちらに書いてある通りです。では、期日までによろしくお願いします。もし支払いが不服でしたら仰って下さい。ご両親と職場の方にもご同席頂いて、広く意見を交わした後に然るべき対処を」

「分かった、分かったから…」

 次々に出勤して来る同僚や上司からの目が気になるのだろう、元彼は便箋を封筒に押し込んで

「払うから、もう来ないでくれ」

と社屋へ走って行った。


「…大丈夫?」

「そうですね…呆気ないもんですね」

「じゃなくて、君が大丈夫かって聞いたんだよ」

「大丈夫ですよ?ギャフンと言わせて気分が良いです」

「…じゃ、ブランチでもする?せっかくの午前休だし」

「なら、お昼まで待ってランチしましょうよ」


 その後、私と部長はお洒落なカフェで時間を潰してから会社のある駅まで戻った。

 そして馴染みのある洋食屋に入ってランチを食べて鋭気を養い…午後からはバリバリ働いた。



 その週の金曜日、口座に入金があったと銀行からのメール通知が入った。

 これで全てが終わった、その旨を部長に伝えて家でひとり祝杯をあげた。


 翌朝、ボーッとした頭で起き上がりインターネットバンキングの入出金明細を確認した。通知通り、私が請求した額がそのまま、元彼の名前で振り込まれている。

「…おわり、終わったんだ、おわり…」

へなへなと力が抜けて、私は膝から床に崩れ落ちた。

 脚の痛みと衝撃に悶えて、視界は揺れて立てない。

「なんだ…?なに…?」

 アルコールは抜けているだろうに顔がぽっぽと熱くて体は怠くて、目の奥が重くカーペットに頬を付けて固まった。

 やだ、死んじゃう…そこで私の意識はプツンと途絶えた。




 次に目を覚ましたのは見覚えのない天井の下で、目玉を動かすと母親がうつらうつら船を漕いでいた。

「おかーさん?」

「…⁉︎あんた、大丈夫なの?ナースコールして、先生呼ばなきゃ!」

「はい?はい…」

 看護師さんを呼んだらお医者さんも来てくれて、脈を測ったり心音を聴いたりと周りがバタバタ動き出す。

 話を聞けば、心労で弱っているところに感染症を貰い、いわゆる夏風邪で高熱を出していたとのことだ。

 意識を失ってからそう時間は経っておらず、午前中に倒れて今はその夕方らしい。今夜は入院して明日には退院できるそうなので、とりあえずゆっくりさせてもらうことにした。

 母には礼を言って私の家に泊まってもらうことにして、一旦帰らせる。


「(疲れてたんだな…点滴たっぷり……あれ、誰が救急車呼んでくれたんだろ?お母さんが偶然来たのかな)」

 尋ねようと思ったがスマートフォンが手の届く範囲に見えず、熱もあるので諦める。


 点滴のポタポタを眺めてはうとうとして、外はすっかり日が暮れた頃。

 コンコンとノックの音がして、

「起きた?大丈夫かな」

と部長が顔を覗かせる。

「部長…?」

「お母さん、お家に送って来たよ。ロビーで会ったから。近いけど慣れない土地で地図見ながらは無理だろうから」

「…ありがとうございます…あの、もしかして救急車呼んでくれたのって部長なんですか?」

「うん、早めに発見して良かったよね」

部長は傍の丸椅子に腰掛けて、スポーツドリンクを開封する。

 そして

「電話しても出ないから、気になったんだよ。元彼さんに何かされたのかなとか勘繰っちゃって。行ってみたら着信音は中から聞こえるし、大家さんに開けてもらったんだ。そしたら君が倒れてるから、救急車を呼んで緊急連絡先になってた親御さんの連絡先に電話してもらったんだ」

とあらましを教えてくれた。


 なるほど、経緯は分かった。

 しかし数点の疑問が残る。

「あの、何でうちの場所を?」

「何でって、住所変更して交通費申請出したじゃない。あの辺が良いよって紹介したの僕だから、ついまじまじ見ちゃったんだよね」

「…そもそも、どうして私に電話したんです?土曜日なのに」

「……振り込みあったって聞いてたから、その後が気になっちゃって…」

 この人、私に気があるのだろうか。

 明らかに職権濫用だし、電話してから家に来るまでの時間を考えると手元に住所情報を所持していた可能性が高い。

「(私の書類、写してたのかな…)」


 仄かなストーカーっぽさに引いていると、部長はひと息ついて口を開く。

「…君は、自分では気付いてなかったんだろうけど、引越し云々の時から表情が暗かった。浮き沈みというのかな、情緒が安定してなかったよ。急に静かになったり、妙に溌剌としていたり…仕事内容に関係なくだから気にしてたんだ。それで今週の元彼突撃ね、終わってからいやにハイだったし、僕だけじゃなくみんな心配してた」

「そうだったんですか…自分では普通に暮らせてるつもりでした」

「だろうね…それで、その…お金が振り込まれたって教えてくれた時も、変にギラギラしてて…燃え尽き症候群っていうのかな、やり切って、その…力尽きちゃうんじゃないかって、馬鹿な考えを起こしちゃいけないなって…生存確認というか、うん…」


 私は自棄になったつもりは無いけれど、振り込みを確認してすぐ倒れたのだから同じようなものかもしれない。

 感染症だから平日のどこかから潜伏していたのだろうが、あの瞬間「もう頑張らなくていい」と体がウイルスに負けたのか。

「…すみません、ご迷惑を」

「迷惑じゃない、心配だったんだよ…それだけ、じゃあね、また会社で」

「はい」

「月曜も休みにしておくから、ゆっくり休んで」

「はい…」


 上司の心配を色恋に勘違いしてしまい恥ずかしい。思考がとっ散らかって、正常な判断機能もどこかに飛んでしまったみたいだ。

「…ねむい…」

 新しい寝具も気持ちは良かったけど、安眠は出来てなかったのかもしれない。そういや食事量も減ってたような気がする、なのにやる気だけは湧いて体は動いていた。

 病院のベッドは家のよりフカフカではないが、数センチ下にしっかりとした鉄骨感があって頼もしい。ピンクの仕切りカーテン、水玉模様の天井、相変わらずスマートフォンの行方は分からないが触らなくても問題は無い。

 トイレも行かず、私は翌朝までぐっすり眠ることが出来た。



 日曜日に母に付き添われ無事退院し、月曜日は部長の言葉通り有り難くお休みさせて貰った。

 母が滞在中に作り置きをしておいてくれたので、それを大事に片付けながら火曜日に仕事へ復帰した。

「おはようございます」

「ん、おはよう。もう熱は良いの?」

「はい、おかげさまで…ありがとうございました」

 部長は「良かったね」と笑ってくれて、何だか周りも優しくて逆に申し訳ない。

 やっぱり心配をかけていたんだな、これから仕事で挽回せねば。


 彼氏の浮気が無ければ、こんな目に遭わなくて済んだのに。でも私が気付かなかったら騙されたまま結婚とかしてたかもしれない。

 ほぼ無料で引越し出来たし、一度生活をリセットしたのだと思えばそう悪くない。

 今回、ドライだと思っていた自分の弱いところも発見できた。案外デリケートで、溜め込んでしまう性格なのも分かった。平気なフリしても周りにはバレバレで、メンタルもフィジカルもそこまで丈夫じゃないことが分かった。同僚も上司も、気遣ってくれていることが分かった。

「(もっと、私も周りを見るようにしよう…あと、自分のことも)」

 この一連の騒動で、体重は5キロほど減っていた。毎日体重計には乗っていたのに、ホテル住まいと引っ越しのゴタゴタで習慣が途切れて気付かなかったのだ。

 投げやりに生きていた訳でもないのに、不要品と一緒に捨てたものもあったのだろう。


「おーい、ランチ行く?」

部長と、同僚たちが席を立ち私を見る。

 いつもはみんなバラバラなのに、これも私への労いなのかもしれない。

「…行きます、お腹空きました!」

 私はぐーぐー鳴るお腹を押さえ、勢い良く立ち上がるのだった。




おわり

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