第六幕 紡がれ織られてきた秘密

(1)織物工場の女工

 食事時の『カメリア』は忙しい。しかし花墨にとっては、その忙しさがありがたかった。仕事に集中していたかったのだ。


 薬師寺家には『カメリア』から電話を入れ、誠子の無事を確認している。

 憑捜には結局は連絡したようだが、悧月が陰陽師の力を持つことは伏せられていた。さらに間に柊士郎が入っての連絡で、誠子も今は正常な様子なので、捕らわれてはいない。

 ただ、ショールの赤い刺繍はすでに何の力も持たなくなっている。他の事件で使われたショールは証拠として残ってはおらず、高鳥家を追及することはできなかった。


 また、花墨はある日の朝一で、帝国図書館に行った。『日本紳士録』で薬師寺家について調べたのだ。

 わかったことが、いくつかある。

『悧月』という字は、筆名である『鏡宮悧月』の時だけのものだった。彼の名を正式に書くと『薬師寺律基りつき』となる。

 薬師寺家は横須賀に屋敷を持つ名家で、華族の位を賜っていた。悧月には弟妹がおり、どうやら彼の言う通り、弟が家督を継ぐことになっているらしい。

 かつて土御門家の元で陰陽師として働いていたいくつかの家は、辰巳家が高鳥家から婿を取っている以外にも、複雑な婚姻関係で結びついているようだ。

(先生は憑捜に協力する、なんて言っていたけど、下手に動いたらご実家に迷惑がかかるのではないかしら)

 花墨は危惧し、悧月とはその後も、時々電話で連絡を取り合う程度の付き合いに留めた。彼が『カメリア』に来た時も、あくまで女給と客として接した。


 ある日、花墨は午後休をとった。一緒に暮らす女給の仕事を代わってやったことがあるので、今度は逆に代わってもらったのだ。

 午前中は客が少ないので、給仕以外にも昼食の仕込みを手伝い、昼前に更衣室に引っ込んだ。ワンピースから和服に、ブーツから草履に替える。

 裏口から出ると、彼女はにょきにょきと電柱の立つ道を、浅草寺の仲見世の方へと歩いて向かった。

 かつて入口にあった雷門――正式名称を『風雷神門』という――は、幕末の火事で焼失してしまい、市電の停車場『雷門跡』にその名を残している。付近には多くの人々や人力車が行きかっていたが、花墨は入口を横切り通り過ぎた。

 吾妻橋を渡る。隅田川は穏やかに揺れ、薄い陽光を反射していた。


(薬師寺家も高鳥家と同じ、陰陽師の血筋……)

 考え事を始めると、つい、悧月のことが頭に浮かんでしまう。

 花墨は、悧月が彼女を本当に心配してくれているということは、ちゃんとわかっていた。

 しかし、連綿と続く血筋は大きな力を持つ。悧月の望みとは関係なく事態は動くかもしれず、それは花墨の復讐の障害になりかねない。

(十二階下で、優しくしてくれたこと。再会した時の、嬉し泣きの顔。あの気持ちは本当だって信じてる。家族を殺されてから、先生といる時間は、私の安らぎだった。……でも)

 手にしていたメモを、彼女は見つめる。

 とある人物の勤務先が、そこには記されていた。

(もう、先生に頼ってちゃいけない。私が赤い髪の出所を探して仇をとり、呪いを断ち切らなくちゃ)

 今日、午後休を取って出かけてきたのは、ある一つの手がかりをつかんだためである。


 隅田川沿いの、かつて武家屋敷や庭園だった場所には、大正の世になってから次々と工場が立ち並ぶようになった。

 花墨は、ある工場の前で足を止めた。入り口の横には銅板に『高鳥織物工場』の文字が、緑青とともに浮かび上がっている。

 中に入ると、大きな敷地の中にいくつもの建物が立ち並び、一つの町のようだった。工場だけでなく、食堂や寄宿舎などの建物があり、女工たちはここで暮らしているのである。煉瓦づくりの大きな建物が工場で、ひっきりなしに機械音が響いていた。

 花墨は食堂の入口付近で、目立たないように待った。


 昼になり、どこからか鐘の音が鳴った。

 工場の入口から一斉に、着物にたすき掛けの女工たちが吐き出されてくる。皆、ため息をついたり腰を叩いたりしていて、一様に疲れた面持ちだ。朝の六時から立ちっぱなしなので無理もない。

 花墨は、その中に懐かしい顔を見つけた。近づいてきた彼女に、声をかける。

「トシねえさん」

「え?」

 呼び止められた女性は顔を上げ、花墨に気づくと、垂れ目がちの目を瞬かせた。

「あら……あんたどこかで……」

「花墨です。覚えてますか? ヒロ坊の子守をしてた」

「花墨!? ああ、そうだ花墨だ、へぇ久しぶり! 綺麗になって!」

「あの時は、お世話になりました。急にいなくなってごめんなさい」

 花墨は頭を下げる。


 かつて十二階下で知り合った私娼たちは、また私娼に戻った者もいたが、別の仕事に転じた者もいる。

 その中には、女工もいた。戦後に女工として働き始めた者は多く、しかも隅田川沿いの工場地帯は浅草と目と鼻の先である。

 花墨はここ数日、鞠子に手伝ってもらい、かつての『ねえさん』の誰かが高鳥屋関係の工場のどこかで働いていないか聞き込んでいたのだ。

 見つけたのが、高鳥織物工場の寮で暮らしている、トシだった。

「いいんだよ、十二階下あんなとこで暮らしてた女なんて、みんな訳ありなんだからさ」

 トシは、乱れた髪を直しながら笑う。

「元気そうで嬉しいよ。髪、ずいぶん思い切ったねえ。でも似合ってる」

 花墨の髪が本当は白いことを、トシは知っている。だからこそ、うまく隠せていると褒めてくれたのだろう。

「ありがとう、ねえさん。ヒロ坊は元気ですか?」

「おかげさんで元気みたいだよ、一緒には暮らせてないんだけど……働きながら小学校に通わせてもらってて、たまに手紙をくれるんだ。でもどうしたんだい、こんなとこ来て」

「私、今、鞠子さんの店で働いてるんです」

 俳優に身受けされて店を持たせてもらった鞠子は、界隈では有名人だ。

「その関係で、トシねえさんがここで働いてるって聞いて。ちょっと話したいんですけど、いいですか?」

「昼休憩が三十分しかないんだ、食べながらでいいかい?」

「もちろんです」

 そのつもりで、花墨は食堂で待っていたのだ。


『高鳥屋の工場じゃないけど、昔の友達が働いている工場は、割といいものが食べられるって言ってたよ。おかずが二種類はつくし、たまにカレーなんかも出るって』

 鞠子はそんな話をしていた。


(でもここは、ちょっと……聞いてたよりも質素だわ)

 長机に、それぞれ御櫃や鍋、大きな薬缶、漬物の壺などが置かれていた。長椅子にずらりと腰かけた女工たちは、白飯と漬け物、味噌汁を食べている。

「花墨は、お昼は?」

「食べてきました」

「じゃあ、あそこで待ってて」

 隅の空き机を指してから、トシは自分の食事を取りにいった。やがて戻ってきて、ふぅと息をついて腰かける。

「朝六時から立ちっぱなしでさ」

「長いですね……。あの、これお土産です。お店の品で」

 花墨は、周囲の目を気にしつつ、そっと紙包みを渡した。中身は『カメリア』のコロッケサンドだ。

 トシもそっと袋の中を覗いて、「わあ」と嬉しそうにする。

「食べてみたいと思ってたんだ、嬉しい。遠慮なくもらうね」

 一口かじったトシは、目を輝かせる。

「ザクッとして、中は柔らかくて、美味しいねぇ! 芋ってこんなに甘かったっけ。元気が湧いてくる気がするよ。あ、で、話って?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る