第一幕 浅草十二階下の迷い人

(1)白い髪の少女 

 改暦から四十年が経った、大正二(1913)年。


 春の夜の、生ぬるい空気が、身体にまとわりついてくる。

 どこを曲がっても小さな店が立ち並び、歩いているのは男たちだけという、同じような景色。店の壁にはあちらこちら小窓が開き、娼婦の白い顔が次々と現れる。

「ちょいとちょいと、お兄さん」

「少し休んでいかないかい」

「ちょいと、中にいらっしゃいな」

 誘う女、誘われる男たち。店の前を通り過ぎる一瞬、鼻先をかすめる酒と白粉の匂い。

 秘密を隠す暗い迷図めいろを、一人の青年が額に汗をにじませながら歩いていた。着物の中にスタンドカラーのシャツ、袴に草履という格好だ。

「離せ、離せっ」

 時々、手を振り回す。

 彼には、見えている。自分の背中に、肩に、何人もの娼婦たちがしなだれかかっているのだ。この世のものではない、半分透けた腕が何本も、彼の身体に絡みついてくる。

 彼は長めの前髪を透かして、忙しく視線を動かした。

「あー、くっそ。どっちに行けば出られるんだ……」


 その時、不意に後ろから声がかかった。

「そこのお兄、さん」

『さん』と同時に、パン! と背中を強く叩かれ「うわっ!」とギョッとする。

 しかしその瞬間、半透明の女たちはたちまち雲散霧消した。

「え? ……こ、子ども?」

 路地の電灯がチカチカと瞬く中を振り向くと、一人の少女が、彼を無表情に見上げている。

 まだ十歳、十一歳くらいだろうか。木綿の縞の着物は少し丈が短く、裸足に草履の足首がことさら華奢に見えた。筒袖の両腕は、布包みを大事そうに抱えている。

 頭からぐるりと手ぬぐいを巻いているのが少し風変りではあるものの、つり気味の大きな瞳は利発そうだ。

 彼女は口を開いた。

「お兄さん、ここ・・から……『十二階下』から出られなくなっちゃったんでしょ」

 そんな彼女の背後、家々の向こうににょっきりと、建物の黒い影が星空を背負って立っていた。


 凌雲閣りょううんかく

 東京市で一番高い十二階建ての煉瓦塔で、『浅草十二階』とも呼ばれる。かつては塔内の様々な商店や展望台に客が集まり、賑わったものだった。

 しかし、徐々に飽きられて客足は遠のき、寂れれば逆にそういった場所の方が都合のいい者たちが集まって――

 今では『十二階下』という言葉は、塔のふもとに広がる私娼窟ししょうくつを指すようになっていた。

 ここは、その私娼窟なのだ。


 青年は額の汗を拭く。

「うん、そう……このあたりグルグル回って、出られなくて……だけど、何でわかったの」

 少女は淡々と続ける。

「今夜は『迷わせ女』がうろついてるから、ウカツな誰かが捕まりそうだと思ってた」

「! 君、それって」

 尋ねようとした青年を遮り、彼女は「ついてきて」と踵を返す。そして、すぐ横の路地に入った。

「ちょ、ちょっと」

「もう捕まりたくないでしょ」

「あ、うん」

 一瞬迷ってから、彼はあわてて少女の後を追う。

 その路地には、

『こちら 抜け道』

 と書かれた看板があった。抜け道と思わせてさらに私娼窟の奥へと引き込むためのものだが、少女は少し先の板塀まで歩くと、サッと板を一枚はずした。

「入って」

「うわ、本当に抜け道だ」

 驚きながらも、青年は素直に、開いた穴に入る。すぐに少女も入って、板をはめ直した。

「次はこっち」

 少女はスタスタと、彼を先導していく。

 どこぞの店の勝手口の前を通り抜け、また別の板塀を外して同じように抜け──


 ──やがて二人は、小さな二階建ての家屋にたどりついた。

「どうぞ、入って。……ただいま」

 からりと引き戸を開け、土間に入った少女は中に声をかける。

 すると、三、四歳くらいの子どもが三人ばかり飛び出してきて、

「ねえちゃん」

「ねえちゃん」

とまとわりついた。奥の畳の部屋には赤ん坊もいて、座布団の上で眠っている。

「ほら、干し芋をもらってきたよ。おたべ」

 少女が布包みを渡すと、子どもたちは大喜びで受け取った。ちゃぶ台まで持って行き、もぐもぐと食べ始める。

「……ここは?」

 青年は不思議そうに、家の中を見回した。少女は無表情に振り返る。

「ねえさんたちが仕事してるあいだ、私がここでこの子たちをみてるの」

「ねえさん……娼婦の子どもたちの面倒を?」

「そう。まあ、もらわれていくまでだけど」

『失敗』の結果として生まれた娼婦の子どもは、いずれどこかにもらわれていく。幼い働き手として。

 少女は、かぶっていた手ぬぐいをするりと解いた。

「私は『かすみ』。お兄さん、今は歩くと迷っちゃうから、朝になるまでここに隠れてなよ」

 電球の明かりの下、短いおさげ髪の頭が露わになる。


 しかしどういうわけか、その髪は真っ白だった。


 青年はさすがに目を見張ったものの、質問はいったんゴクリと飲み下す。そして、人なつっこく笑顔を浮かべた。

「じゃあ、そうさせてもらおうかな。僕は『りつき』だ。助けてくれて、ありがとう」

 それが、花墨かすみ悧月りつきの出会いだった。


 子どもたちを寝かせるために部屋を暗くし、花墨は土間の上がりかまちに腰かけた。

 ロウソクを一本だけ灯し、細い小さな手でつくろいものを始める。大人の女の着物を直しているようだ。娼婦のものだろうか。

 悧月は小声で聞いた。

「君も、その……親が仕事中なの?」

「ううん。私は、みなしご」

 花墨は淡々と答える。

「子守をする代わりに、ここに住まわせてもらってる。他所で働きたくても、この髪だから『憑き病つきやまい』じゃないかって疑われるの。下手したら『憑捜ひょうそう』に突き出されちゃうでしょ」


 妖怪、幽霊、魑魅魍魎。この世には、様々なあやかしがいる。

 あやかしたちは人間を惑わせたり、時にはとり憑くことさえあった。狐憑き、と呼ばれることが多いだろうか。

 かつては陰陽師が祓ってくれたものだが、陰陽寮は解散してしまった。以来、彼らがどうしているのか、世間では知られていない。

 ところが、明治も半ばを過ぎた頃から、あやかしの絡む凄惨な事件がちらほら起きるようになった。『何か』にとり憑かれた人間が、周囲の人々を殺して自分も死んでしまう――そんな事件が、連続して起こったのだ。

 殺そうとして取り押さえられた例もあるが、正気には戻らない。不治の病のようだということで、『憑き病』と呼ばれている。


 そのため、何かしら様子がおかしい者は憑き病を疑われるようになり、伝染病患者か、犯罪者のように扱われた。場合によっては身内に幽閉されたり、逆に家や村から追い出されたり、当局に通報されたりといったことも起こった。

 その『当局』にあたるのは、あやかし関連の事件が増えたことで警視庁内に組織された、憑依事案ひょういじあん捜査局だ。略して『憑捜』と呼ばれる。

 彼らに捕まると、患者専用の監獄だか何だかに閉じ込められて一生出て来られない、と言われていた。密かに『処分』されるなどという噂もある。

 憑捜を恐れて隠れる者、匿う者もいるため、本当の憑き病患者はなかなか表に出てこない。憑捜の取り締まりは、年々厳しくなっていた。

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