(4)幼く古風な幽霊

(何だ……? まるで、星見という子が花墨ちゃんの身体を借りたかのような……)

 悧月が呆然と見つめる前で、本はまた、げらげらと笑う。

『なんだ、おまえ! おれたちの仲間か!? そいつ、食わせろ!』

 花墨の口から、舌ったらずな幼い声が響いた。

『おぬしのなかまなどではないわ。わるい子には、おしおきじゃ』


 花墨の身体が一瞬、青く光ったかと思うと、右手がビキビキと音を立てて大きくなった。血管が浮かび上がり、爪が鋭く伸びる。

 ブン、とその手が一閃されると、本は弾き飛ばされて家の戸に激突した。さらにもう一度、手が横薙ぎに振られ、戸は本もろとも外向きに吹っ飛ぶ。道にちょうど人がいたのか、うわあっ、と誰かが叫ぶ声が聞こえた。


 恐る恐る、悧月が立ち上がって見ると、ゆっくりと花墨は草履をはき、本を追って戸口から出て行く。

 倒れた戸の上で、半ば引き裂かれた本がブルブルと震えていた。

『なんだ……おまえ……』

 すっかり怯えている本に、花墨は冷たく問いかける。

『そこなもののけ。ははうえさまがどこにいるか、知らぬか?』

『は、ははうえさま、だとぅ』

『ほしみの、ははうえさま。ちよみひめさまじゃ』

 それを来た本が、びくっ、と跳ね上がる。

『ひいいい! おまえ、ちよみひめの子かああああ』

 本は角を引きずるようにして、その場から逃げ出そうとした。

『知らない! 知らない!』

『しらぬのじゃな。なら、おまえはもう、いらぬ』

 花墨は言うと、鬼のようになった右手を本の上にバンと叩きつけた。

 ぎゃあああ、という断末魔の叫び声とともに、鬼の手の下で本が跳ね、青く光る。

 やがて、ふっ、と本は動かなくなった。


 しん、と家は静かになる。いつの間にか降り始めた雨が、屋根でパタパタと音を立てるのが聞こえた。

 花墨の胸から、青い光がすーっと出てきた。光は再び幼い女の子の姿になると、くるりと白い着物の袖を翻して向き直った。

 どこか、バツの悪そうな顔をしている。

『……かすみ。かってなことをして、おこっておるか? ほしみは、おしおきをしただけじゃ』

 花墨は小さくため息をついてから、いつもの口調で答えた。

「怒ってないよ。守ってくれてありがとう、星見」

 すると星見は、パアッと嬉しそうに顔を輝かせ、犬歯を見せて笑った。

 甘えるように花墨の身体にまとわりつき、ちらりと横目で悧月を見る。そして、再びスッと彼女の身体に沁み込んで、消えた。


 いつの間にか、白いおさげ頭に戻った花墨の目が、悧月を捉えた。

「お兄さん、大丈夫?」

「! 花墨ちゃん」

 悧月も草履をつっかけて彼女に駆け寄ろうとした時。

 家の前の路地から、重い足音がした。

 足早にやって来たのは、花墨が警戒していた若い憑捜局員だ。短髪に鋭い目、太い眉。剣道か何かやっていそうな、がっしりした身体つきを、青い制服に包んでいる。

 花墨はハッとして家に戻ろうとしたようだが、戸が吹っ飛んでいるため隠れられない。

 憑捜局員が怒鳴った。

「そこの子ども! 白い髪のお前だっ。ちょっと話を聞きたい、来なさい!」

「お兄さん、こっち!」

 花墨はいきなり悧月の手をひっつかむと、家の裏手に回るように駆けだした。植え込みの間を突っ切って、裏路地に飛び出す。

「あっ、待て! おい、応援頼む! 白い髪の少女だ!」

 憑捜局員が応援を呼ぶ声がしたが、花墨はすぐ向かいの板塀の板を外して飛び込んだ。悧月が続くと、即座に板を元に戻す。きっちりとは戻らなかったが、ただの古びて歪んだ塀には見えるだろう。

 そのままふたりは音を立てないようにして、いくつかの抜け穴を通り抜けていった。


 すっかり暗くなるころ、ようやくあたりは静かになり、しとしとと雨の音だけが聞こえていた。

 とある家の裏庭、軒下に身を潜めていた二人は、顔を見合わせる。

「……ごめん、お兄さん。とっさに連れてきちゃった」

「何を言ってるんだ、君一人で逃げたら追いかけてたよ。手を見せて」

 サッ、とためらいなく、悧月は花墨の右手をとった。

 一瞬、びくり、とした花墨だけれど、すぐに力を抜いて手を預ける。

「元通りの、花墨ちゃんの手だ。よかった。あの本を持ち込んでごめん、僕が悪かった」

「お兄さんのせいじゃないよ。古いものは、物の怪になることがあるって聞いたことある」

「うん、付喪神つくもがみという。もしまた、あんなふうに暴れそうな危ない奴に会ったら、壊すか燃やすかするんだよ」

 話をする間、悧月はずっと、花墨の手を握っている。

「さっき、あんな手になったのに、お兄さん怖くないの?」

「怖くないよ。……花墨ちゃん、さっきの女の子は? 幽霊……?」

「そう。星見っていう名前の、女の子の幽霊。私にとり憑いてるの。黙っていてごめんなさい」

 握られていない方の手で、花墨はおさげ髪に触れている。

「普段はおとなしい子なんだけど、私に危険が迫ると目覚めて、私の身体を勝手に操ってしまうの。今は眠っているみたい……。そういえばお兄さん、星見のこと見えてたね。見えない人の方が多いみたいなんだけど」

「見える程度の霊感は、まあ、あるらしい。だから、見たものをネタに怪奇小説を書こうと思ったわけで」

「それで作家になろうと思ったの? 『安直』」

「また言われてしまったな。いやまあ、他にも理由はあるよ? 作家として新しい名前を自分につけたかったし」

 肩をすくめてから、悧月は続ける。

「にしても、どうして幽霊に憑かれるようなことに?」

 花墨は目を逸らした。

「知らない」

「ちよみひめ、という名前が出てたけど、あれは……?」

「わからない」

 話そうとしない花墨に、悧白は戸惑ったが、別のことを口にした。

「君の手が変化したことだけど……あれは危険な気がする。いつか、乗っ取られるかもしれないだろう? 星見が成仏して君から離れるように、お祓いしてくれる人を探した方がいいんじゃないかな」

 しかし、花墨は即座に首を横に振る。

「だめ」

「どうして!?」

 花墨はそっと、彼の手から自分の手を抜き、そして彼を強い視線で見つめた。

「復讐したい相手がいるから。そのために、星見の力を借りたいの」

「復讐……? どうして? 相手は誰?」

 その質問にも、花墨は答えなかった。ただ目を逸らす。

「怪奇小説のネタには十分じゃない? お兄さん、もう十二階下には来ないで。私が捕まった時、うちにしょっちゅう来てたことがバレたら、お兄さんもまずいことになるかもしれないでしょ」

「そのくらい、どうとでもなる。僕に手伝えることがあれば」

 言い募る悧月を遮ろうとした花墨だったが、思い直して言う。

「じゃあ、一つお願いがあります」

「何でも言って!」

「手ぬぐいか何か、持ってない? 私、頭を隠さないと」

「あっ、本当だ! ごめん、気が利かなくて」

 急いで懐から手ぬぐいを取り出した悧白は、花墨の頭に被せた。整えてはみたものの、髪が多少はみ出してしまう。夜なので、大して目立たないとは思うのだが。

「お兄さんの匂いがする」

 花墨はぽつりとそう言い、そして立ち上がった。悧月を見下ろす。

「ありがとう。私、十二階下をいったん離れるね。憑捜があきらめるまで」

「えっ? どこへ?」

「ちょっと当てがあるんだ」

「本当? 嘘だよね? だめだ、それなら僕のところに来れば」

「何言ってるの? 親戚の家に居候してるくせに」

 ばっさりと花墨は却下し、まるで年上のように彼に言い聞かせた。

「当てがあるのは本当だから、心配しないで。お兄さんは帰って」

「花墨ちゃん……じゃあ」

 悧月は早口で、文京区の住所を言った。

「僕はそこに住んでる。落ち着いたら連絡して。何かあったら、必ず頼って」

「わかった。……色々、ありがとう」

 花墨の表情が、ふと、柔らかくなる。

 微笑んだ、とすら言えないような、ほんのわずかな表情の変化ではあったけれど。

 まるで、闇の中に白い花が咲いたようだった。


 彼の横をすり抜けた花墨は、家を回り込んで――

 ――雨と闇に紛れ、あっけなく、姿を消した。

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