(3)逢魔が時
月日は流れ、河原では涼しい秋の風がススキを揺らすようになった。
その日、悧月は新しい本を手に、十二階下にやってきた。夕暮れ時になって空は曇り、どんよりとしていたが、あちこちに灯りが点って私娼窟は目覚め始めている。
憑捜がいないのを確認してから、彼は花墨の家の引き戸に近づいた。中から小さな話し声が聞こえている。
「花墨ちゃん、失礼するよ」
からり、と戸を開けた。
一つきりの灯りの下、ちゃぶ台で何やら読んでいた花墨が、ハッと顔を上げた。
「あっ……お兄さん」
その顔が妙に強張っているので驚きながら、悧月は挨拶する。
「やあ。ごめん、邪魔してしまったかな」
「ううん、別に」
「新しい本を持ってきたよ。あれ、子どもたちは?」
見回しながら草履を脱ぐ。中には花墨が一人だけだった。
「今はちょうどみんな、ねえさんたちのところに行ってる。そろそろねえさんたちが連れてくると思うけど」
「そう」
(じゃあ、さっきのはひとり言か)
悧月は壁際に鞄を置き、ちゃぶ台を覗き込んだ。
「新聞を読んでいたんだね」
「ねえさんのお客さんが持ってきたやつを、もらったの」
「新聞の文章は難しいだろう。気になる記事があるなら読もうか?」
悧月が座ると、花墨はためらいながらも、一つの記事を指さす。
「これ……憑き病のこと、書いてあるんでしょ」
事件記事が載っている。
『帝都の殺人怪異 一家の妻、主人と我が子を殺し自らも胸を突く』
「……そうだね。仰々しい見出しだ。女性が家族を手にかけ、その場で自害した。仲のいい家族だったから殺意があったとは考えにくい、おそらく憑き病だろう、と書いてある」
すると、花墨はまっすぐに悧月を見た。
「お兄さん、怪異に興味があるって言ってたよね。これは一体、何なの?」
「何、って」
「こういう事件、時々起こるでしょう。身近な人を殺して、自分も死ぬ。憑き病って、みんなそんな感じだよね」
大きな瞳が、真剣な色を湛えている。
「何が憑いたらこうなるの? 憑き病は、どうして起こるの?」
「確かに、奇妙だとは僕も思う」
彼女が真剣なので、悧月も腕組みをして、考えながら答えた。
「君にこんな話をするのも何だけど、単に気が触れてしまったなら、もっと暴れて殺してもおかしくない。でも、身近な人を殺したらさっさと自害だ。殺した自分の始末までつけるのに、どうも故意ではないらしい。だから『病』、か。……よし、ちょっと調べてみよう」
「えっ」
自分から質問をしたくせに、花墨は急にうろたえだした。
「べ、別に調べてほしいわけじゃ……お兄さんが知ってることがあれば聞きたかっただけだから」
「でも、僕にとっても小説のネタになるかもしれないしさ」
悧月は改めて新聞記事に目を走らせる。
「この事件、上野か。ここから近いな。今日は時間もあるし、今から行って近所の人に話を聞いてみるよ」
「だめ!」
立ち上がろうとした悧月の袖を、花墨ははっしと両手で掴んだ。
「行っちゃだめ! お兄さんも死んだらどうするの!?」
「花墨ちゃん……いや、でも、犯人はもう死んでいて」
「犯人が『人間』ならの話でしょ!? 憑き病だったら化け物かもしれないでしょ!?」
抑えた声ではあったけれど、その瞳と相まって、必死さが伝わってくる。
彼は花墨の手を、ぽんぽんと軽く叩いた。
「そうだね、わかった。行くのはよすよ」
「……あ」
はっと我に返った様子で、花墨は袖を離して手を引っ込める。
「ごめんなさい……」
「謝ることはないさ」
悧月はニコリと微笑んだ。
「『迷わせ女』から助けてくれた君の意見は、ちゃんと聞くよ」
「そ、そうだ、それなのにまた自分から怪異に近づこうなんて……そういうの、『安直』っていうんだよ」
「手厳しい!」
頭を掻いた悧月は、意識して話を変えた。
「新しい本を持ってきたよ。叔父さんの家の蔵を整理していたら、面白そうなのがあってね」
「え……あ、本」
ようやく花墨の表情から、少し緊張が抜ける。
その様子にホッとしながら、悧月は鞄を引き寄せた。
(両親がいないという花墨ちゃん……もしかしたら、憑き病と何か関係があるんだろうか。でも、こんな子どもからあれこれ聞き出す必要、ないよな)
思いながら、鞄の蓋を開ける。
「ほら、これ。歴史の本だけど物語仕立てになってるから、読みやすいんじゃないかな」
本が取り出された、その時。
『さわっては、いかんぞよ』
突然、あどけない子どもの声がした。
「? 花墨ちゃん、何か言っ……」
顔を上げた悧月は、ぞくりとした。
花墨の肩口から、ぬ、と白い顔の上半分が覗いている。
四、五歳くらいの、幼い女の子だ。その目は黒々としていて白目がほとんどなく、艶やかな黒髪のおかっぱ頭をしている。
こんな子も子守していたのか、と悧月は一瞬だけ思ったが――
その姿は、半ば透けていた。
悧月が口をパクパクさせながら指さすと、花墨はハッと振り向く。
「あっ……ちょ、『星見』、なんで出て」
女の子は犬歯の目立つ口をもう一度開いた。
『そのごほんは、あぶない』
「き、君は……?」
悧月が聞こうとした時だった。
本が、びりり、と震えた。
そして、ゆらりと浮き上がったのだ。
一回り大きくなったように見えるその本は、上下に、まるで野犬の顎のように荒々しく開いた。ぐわっ、と牙が生えて花墨に襲いかかる。
「あっ……」
「危ない!」
悧月はとっさに花墨を引っ張り、胸に抱き込みながら転がった。本はちゃぶ台に突っ込む。バキバキッ、と音がして、ちゃぶ台は真っ二つにへし折れた。
本はすぐにまた浮いて、二人の方へ向き直ると、げらげらとひび割れた笑い声をたてた。
「ほ、本の物の怪!?」
悧月は声を上げる。
突然、『星見』と呼ばれた女の子は、ふわりと浮き上がった。そして青い人魂に姿を変えると、スーッと降りてきて――
――花墨の胸のあたりに吸い込まれた。
ふらり、と花墨が立ち上がる。
その姿はどういうわけか、先ほどとは少し変わっていた。おさげだったはずの髪は顎下で綺麗に切りそろえられ、古風な白い着物を身にまとっている。
まるで、日本人形のようだった。
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