(5)赤い記憶
花墨は、足を止めずに歩いていく。
雨でぬかるんだ地面から草履が離れるたび、ずちゃ、ずちゃ、と塗れた音がする。
(この音、嫌い。あの日を思い出すから)
脳裏によみがえるのは、広い庭のある大きな家。
花墨の育った家だ。
冬には木に藁を巻き、幹が苔に埋もれれば落とし、何人もの弟子と共に働いて家を大きくした父。そして、医者の娘であり父を支える母。
一人娘の花墨は、何不自由なく育った。
「いずれは花墨に婿をとって、家を継がせよう。だから花墨にも、時庭家の仕事を知っておいてもらわないとな」
父はそう言って、よく仕事に花墨を連れて行った。父は庭造りの技を持っているのと同時に、菊の花を育てるのが得意で、花墨はそちらも手伝ったものだ。
「いつかは花墨が女主人になるのだから、使用人たちに家事や教養を身に着けさせなくてはいけませんよ」
母もそう言って色々と教え込むものだから、花墨の毎日はなかなか大変で、小学校にいる時間の方が少しホッとするほどだ。
けれど花墨は両親を尊敬していたし、学ぶことも大好きだったので、愛され恵まれた環境だったといえよう。
花墨が九歳になった、その秋の記憶は、真っ赤に染まっている。記憶の中だからか、それはとても鮮やかな色だ。
夕陽に照らされ、茜色に染まった前庭を歩いて、父が仕事から帰ってくる。
「青蔵さん、お帰りなさい」
玄関で膝をついて迎えた母に、父は紙の袋を渡した。
「ただいま。土産だ。今日、仕事で伺った家で頂いたんだ。奥方にと」
父が仕事に行くのは、庭を持てるだけあって裕福な家が多い。代金の他に土産を持たせてくれることは、それまでも度々あった。
「まあ嬉しい、何かしら」
母はニコニコと袋を持って立ち上がり、「そろそろお夕食ですよ」と言いながら廊下を奥へと去っていく。入れ替わるように花墨は走って行って、父にまとわりついた。
「お帰りなさい父様。今日のお味噌汁、私が作ったの」
「お、そうか。楽しみだな」
他愛のない会話を交わし、庭師である父は弟子に何か用があるようで、いったん外へ出て行った。
花墨は、母がなかなか戻ってこないので、両親の部屋へと探しに行った――と思う。
このあたりから、少しずつ、少しずつ、記憶が赤く濁っていく。
先にあるものを恐れ、見たくない、見るな、と。
廊下の奥に向かうにつれて、空気が重くなっていく。夕闇が迫って、視界が狭くなっていく。
母様、と、呼びかけた。
部屋の奥で振り向いた母の表情は、思い出せない。ただ、鋭い声で「隠れて」と言われた。
母は、『見える』人だった。
隣の部屋に押し出され、ふすまをぴしゃんと閉められる。
ずちゃ、ずちゃ、という濡れた音とともに、心を凍り付かせるような声が聞こえる。
『どこ。あいつはどこ。どこなのぉぉぉ』
ずちゃ、ずちゃ。
ふすまを細く開け、覗く。
それは、夕陽に照らされた廊下から、畳の部屋へと入ってくる。古めかしいが豪華な袿の裾がずるずると引きずられた後に、真っ赤な血の軌跡が残る。
『……いた』
にやり、と笑った顔は白く、唇は赤い。
ふすまの前に、追いつめられた母の背中が見える。和服に割烹着。数珠を持った手を合わせ、何か祈っているけれど、手の震えに、首筋の汗に、絶望が滲む。
袿の女が母に近づく。
『あいつの匂いがする。お前には、あいつの匂いがまとわりついている』
長い爪の手が、伸びる。
『絶望を味わうがよい』
すっと女の姿が薄くなり、消えたように見えた。
急に、母の祈りの声が、止まる。
ゆっくりと下ろした手から、数珠が落ちた。母はふすまから離れ、ゆらりと歩き出した。
(……母様?)
いや。
あれは本当に母なのか。
動けないでいるうちに、廊下から荒い足音がして父が駆け込んできた。花墨に気づかないまま、母に駆け寄る。
「りえ! 大丈夫か!? 何だ、この気配は……何があった!?」
母はぼんやりと父を見上げ、そして口を開く。
『おや……お前は私の菊を世話してくれた男だねぇ……』
父は目を見張った。
「菊……? お前、りえではないな!?」
『そうじゃ。私は千代見』
「千代見……?」
『お前は、この女の夫なのだな』
母は、にまりと笑った。
『ならば、共に死ね』
どしゅっ、と重い音。
父の胸を、何かとがったものが貫いていた。
「……がっ……」
父の身体が硬直する。がくっと膝をつき、そばにあった化粧台を巻き込みながら、横倒しになる。
見下ろす母は、返り血で真っ赤に染まっていた。右手が異様に節くれだっていて、刀のように伸びた爪を、父の胸から引き抜く。
(……かあさまが……とうさまを)
頭がガンガンして、耳が用を成さない。聞き取れる言葉は、途切れ途切れだ。
『さて……他にはおらんか? なら、後はお前自身を片付けようねえ。ほほほ。おほほほ!』
身体を左右に揺らして笑いながら、母は、長く伸びた爪を、自分の首に向ける。
爪が首に突きたつのと同時に、母の身体から女の姿が抜け出し、消えていくのが見えた。
しばらく、気を失っていたらしい。
気がつくと、開けたふすまのすぐ外、凄惨に血が飛び散った部屋の中で、花墨は呆然と座り込んでいた。ゆっくりと視線を巡らせると、父も母も事切れている。
母の顔は、笑っていた。それなのに、見開かれた目からは涙が溢れ、血とともに頬を伝っている。
恐怖と、悲しみと、絶望とが溢れて爆発しそうになり、花墨は頭を抑えながら叫び声を上げた。
(母様に! 母様に父様を殺させた! あの化け物が!)
すぐそばに、化粧台が横倒しになっている。鏡には、叫び続ける花墨が映っている。
その髪は、衝撃のあまり、真っ白になっていた。
ふらふらと外にさまよい出た花墨は、親戚の家に転がり込んだらしい。そしてしばらくの間、奥の間に閉じ込められていた。
今ならわかるけれど、花墨の髪が白いのを見て親戚は憑き病を疑い、警戒し、また近所に悪評が立つのを恐れたのだ。
その間に、憑捜の捜査が入った。
結果、花墨の母が憑き病に侵されて父を殺して自害、娘の花墨は行方不明ということになったようだ。
それを聞いても、花墨は特に何も思わなかった。あれから涙の一粒も出ない。感情が、麻痺していた。
しばらくして、花墨は親戚や使用人たちがひそひそと話すのを聞いた。
「あれ以来、ご近所で幽霊や妖怪が出るって」
「憑き病の気配が呼び寄せる……って噂だよ」
「もしかして、花墨が原因なんじゃ……」
ある日、親戚の一人が、花墨の髪を黒く染めてくれた。
「白いままじゃ、外にも出られないでしょう」
と言って。
しかし直後、彼女は知らない男に引き渡された。人買いに売られたのだ。
吉原に行ってすぐに色が落ち、白いのがバレた。追い出されて十二階下に来た彼女は、私娼たちの子守という仕事を得る。
子どもたちと触れ合ううちに、花墨は少しずつ、自分自身を取り戻していった。
けれど、あれ以来、彼女は一度も笑っていない。涙を流す母の笑った死に顔は、化け物の記憶と強く結びつき、花墨の笑顔も封じてしまった。
何とか生きられるという状況になり、ようやく落ち着くと、彼女の中で「知りたい」という気持ちが蠢き始めた。
(あの化け物は、何だったの。『千代見』って、何なの?)
千代見という名に聞き覚えがないか、花墨は娼婦たちと話している時に尋ねてみた。
すると、娼婦の一人が言ったのだ。
「菊のことを『千代見草』とも言うわよねえ」
菊。
その言葉から、記憶の欠片が蘇った。
千代見は父を見て、「私の菊を世話してくれた男」と言ったのだ。
(父様は、菊のお世話が得意だった。確か、頼まれて神社で菊のお仕事をしたことが……)
七歳の頃、父の仕事にくっついて行った、とある神社のことを思い出す。その神社では毎年、旧暦の九月に菊まつりが開かれるという話だった。
(特に珍しい花じゃないけど、もしかしたらあの神社……千代見と関係があるかもしれない)
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