巻き込まれて死に戻りしていたら、愛が重い時の神に執着されました -脇役侍女ミシェルと9の黒薔薇

神野咲音

第1話 侍女

 この人のためなら死んでもいいと、そう思える相手がいるのは、とても幸福なことだと、ミシェルは思う。



「ミシェル! ミシェル? ちょっとこっちに来て!」



 明るく優しい主人の声が、ミシェルを呼んでいる。ミシェルのために用意された部屋の外から、楽しく弾む声がする。


 一番大好きな人。何よりも大切な人。ミシェルにとって、世界そのものですらある人だ。


 書き物机に座っていたミシェルは、急いで立ち上がりながら、伏せていた手鏡を持ち上げた。手早く身だしなみを整える。金髪碧眼の、面白みのない容姿の少女が、鏡の中からこちらを覗いていた。


 優れたものは特に持たないけれど、見苦しくない程度に整えておかなければ。でないと、ミシェルを侍女として従える令嬢が、惨めな思いをすることになるのだから。


 見た目のチェックが終わると、ミシェルは足早に部屋を出た。ベッドと書き物机だけの小さな部屋だが、こうして主人の声にいつでも応えられるところが気に入っている。


 扉の外は、贅を尽くした家具や装飾に溢れた寝室だった。カーテン越しに夕暮れの光が差し込んで、部屋が朱に染まっている。先程まで窓の無い部屋にいたミシェルは、眩しさに目を細めた。


 ミシェルの主人、キャステン公爵家の令嬢メリザンドは、ベッドに腰かけて本を開いていた。


 苺のような赤みを帯びた金色の髪はふわふわと背中を覆い、丸っこい大きな緑の瞳が宝石のように輝いている。とても可愛らしい、お人形のような少女だ。



「ほら、遅いよミシェル! あのね、お願いがあるんだけど!」



 悪戯っぽく笑い、本を閉じるメリザンド。ミシェルは侍女だから命令すればよいのに、「ミシェルはあたしの友達でもあるんだから」と、必ずお願いをしてくるのだ。



「またお菓子分けてあげるから、聞いてくれる?」



 そう言って笑うこの優しい主人に逆らうなんてことは、ミシェルにとって想像もできないことだ。


 お菓子が欲しい訳ではない。恵んでもらうことを期待しているわけではない。ただ、メリザンドのためにできることは、すべてやりたい。それだけなのだ。


 彼女は、ミシェルのすべてだった。


 他に行く当てのないミシェルを拾ってくれた。寝床も食事も、服も、満足に得られたのは初めてのことだ。


 暖かい居場所をくれた。だから、どんな些細な願いでも、叶えて差し上げるのだ。


 丁寧に一礼すると、メリザンドは嬉しそうに笑みを深めた。侍女であるミシェルは、主人の許しが無ければ声を出すことができない。けれど、メリザンドはミシェルの考えていることをちゃんと察してくれる。



「ふふっ、ありがとう、ミシェル! 大好き!」



 ミシェルも、この優しい主人が大好きだ。



「はいっ、じゃあこれ、どうぞ!」



 差し出されたのはチョコレートだ。ここで食べて、と手のひらに落とされたそれが、肌の熱で溶け始める。



「はやくっ」



 急かされて、ミシェルはチョコレートを口に入れた。溶けかけていたそれはすぐに形を失くして、中からとろりと液体が溢れてくる。


 少し舌が痺れた気がしたけれど、メリザンドがにこにことしているので、そのまま飲み下した。



「そう! それでいいの」



 とても嬉しそうに両手を合わせ、ぴょんとベッドから跳ねたメリザンドが、さっきまで読んでいた本の表紙を撫でた。


 書かれた文字が、歪む。楽しそうな主人の笑顔が、ぐにゃりと曲がる。


 体に力が入らない。視界がぐるぐると回っているかと思えば、いつの間にか床に倒れていた。


 メリザンドが傍にしゃがみこんだのが分かる。胸に抱えた本の表紙が、一部だけぼやけて見える。



(……生、贄)



 読み取ったその言葉を最後に、ミシェルの意識は沈んでいった。







 はっと目が覚めた。起き上がろうとして、体がほとんど動かないことに気付く。


 両手両足をきつく縛られ、猿ぐつわを噛まされて、床に転がされていた。見上げる天井には覚えがある。堅牢な石組みの、少し湿った天井。薄暗い隅の方には苔が生え、空気全体がどことなくかび臭い。屋敷の地下牢だ。


 どうにか視線を巡らせれば、鉄格子の扉が開いている。その向こうに、メリザンドがいた。



(お嬢様……?)



 メリザンドは片手に無骨な斧を引きずって、牢に入って来る。ふわふわとした美しい髪が、酷く場違いに見えた。



「本当によく効く薬! 目覚める時間もばっちりだね!」



 明るく弾む声。



(薬……、ということは、お嬢様が、これをやったのかな)



 それならば、いい。


 体の力を抜いたミシェルを、メリザンドが見下ろす。



「ねえ、ミシェル。あなたはね、脇役なの」



 にっこりと笑って、ミシェルの主人はそう言った。



「主役はあたし。誰も目が離せない、舞台を独り占めするような、華やかな主役。それがあたしなの!」



 どうして今さら、そんなことを言うのだろう。ミシェルなどが主役になれる訳がないというのに。


 この後どうなるかは、予想がついている。


 願うことは、ただ一つ。



(どうか、どうか。この首一つで、あなたの望みが叶うなら、それだけで)



 死んだっていい。忘れられてもいい。どんな形でもいいから、役に立てることがこんなにも嬉しい。



「ただの脇役でしかないあなたが、あたしの身代わりになって死ねるのは、とっても、とっても、光栄なことなんだよ?」



 覚束ない手つきで斧を振り上げるメリザンドを、ミシェルは目を細めて見上げた。



「だから、ね? あたしのために、死んでね」



 無防備に晒された首に、斧が振り下ろされる。


 その瞬間のミシェルは、確かに、心から満ち足りた微笑みを浮かべていた。

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