第2話 解雇
星屑のきらめきが渦を巻いている。これこそが時の流れそのものであると、誰に教わるでもなく、ミシェルは知っていた。
遥か上空から眺めていると、渦の中心に何かが見えた。
メリザンドだ。
土のような顔色をしたメリザンドが、ベッドに横たわっている。青い唇が声もなく動き、伸ばされた手がぱたりと落ちた。
これはただの記憶だ。過去が再生されているだけの場所。だから意味はないと分かっていたが、ミシェルはその手を握りたくて必死に宙を掻いた。
だがちっとも進まないうちに、メリザンドの姿は溶けるように薄くなる。
次に現れたのは、処刑台だ。
姿のない観衆が、口々に罵声を吐いている。処刑台に膝をつくメリザンドに向かって、聞くに堪えない怒号が飛び交う。
あたしは何も悪くない! と叫ぶメリザンドの声は誰にも届かず、ギロチンが落ちる音に掻き消された。
飛び散った血飛沫が渦に飲み込まれ、ミシェルの涙も後を追うように流れていった。
その次は、馬車だ。
何かを楽しそうに話しながら、メリザンドが馬車に乗り込む。座席に座り、動き出した瞬間に、天井を貫いて降ってくる銀の刃。
先端を鋭く研いだ細身の剣が、ずぷんとメリザンドの脳天に埋め込まれた。
虚ろな目で崩れ落ちたメリザンドが薄れていくのと一緒に、ミシェルもその場に座り込む。
記憶の再生は止まらない。メリザンドの死が繰り返される。再び処刑され、ベッドの天蓋から吊られ、そして。
斧を振り上げたメリザンドが、一瞬だけちらついて。
星屑の渦が逆巻き始める。時間が逆流する。
(また、お嬢様が殺された)
黒い欠片となって崩れていく世界を、視界の端で捉える。メリザンドの死をきっかけに、巻き戻される時間と世界。
(次こそは、お嬢様をたすけないと。今度こそ、この繰り返しを終わらせないと)
そのためならなんでもする。だってミシェルは、メリザンドの侍女なのだから。彼女の命令には忠実に従ってきた。文字通り、なんでも。
どんなことであれ、大切な主人のためになるなら構わない。
たとえ、ミシェル自身が殺されようと。
それでメリザンドが生きてくれるのなら。
首が熱い。まるで、鋭い刃物で切り裂かれたかのように。
ミシェルは突如として流れ込んできた記憶に、一瞬だけ意識を飛ばしたようだった。手に持っていたはずの湯桶が床に転がる音で、ハッと我に返る。
気づけば、床に座り込んでいた。両手で首を押さえて、肩で息をしていた。
「ミ、ミシェル……?」
唖然とした声が頭上から降って来て、ミシェルはゆっくりと顔を上げた。
いつもと変わらない、主人メリザンドの寝室だ。カーテンの向こうからは、朝の日差しが柔らかく差し込んでいる。
そして。
ミシェルが運んでいた、洗顔用の湯。それを正面から被って、ぐっしょりと全身を濡らしたメリザンドが、ミシェルを見下ろしていた。
「……っ!」
とんでもないことを。
思わず大きく息を呑みそうになって、唇を噛み締めて我慢する。声を出す許可を、まだ得ていない。
洗顔用の湯だ。火傷するほどの温度ではない、けれど。
驚きの表情のまま、メリザンドは濡れた寝衣をパタパタとはたく。
「何てことするの……!? ……ああ、いや、何も言わないで。人を呼んで、片付けと、着替えを」
主人の身を案じる言葉も、謝罪の言葉も封じられて、ミシェルは喉の奥で声を押し潰した。
なんということを、してしまったのだろう。主人に湯を浴びせるなど、到底許されることではない。
近くに用意していたタオルをメリザンドに渡し、精一杯の謝意を示すために床に額を擦り付けた。それから、命令に従うべく震える足に力を入れて立ち上がる。
何事かを考え込んでいるメリザンドは、そんなミシェルには目もくれず、受け取ったタオルでおざなりに手を拭いた。
ミシェルが部屋を出る寸前、無意識であろうメリザンドの独り言が、聞こえてきた。
「こんな形で影響するなんて……、ミシェルを殺したの、まずかったかな?」
「一体どういうことだ!」
濡れた服を着替え、改めて顔を洗ったメリザンドが、部屋で朝食を摂っているところに。
メリザンドの父親、キャステン公爵が飛び込んできた。
「メリザ、湯を浴びせられたというのは本当か!?」
ミシェルの失態は、すぐさま公爵に報告されたようだ。
他の使用人に混じって壁際に控えていたミシェルは、前に進み出て膝をついた。怒りに顔を真っ赤にした公爵は、ミシェルを見下ろし、ふくよかな腹を揺らして拳を振り上げる。
「貴様だな!?」
顔を殴られたが、どうやら公爵は人を殴ることに慣れていないらしい。あまり痛くはない。
ミシェルが次の拳をじっと待っていると、メリザンドが声を上げた。
「やめてよ、パパ。食事の時間に」
「ああ、すまないメリザ。怪我はどうだい?」
娘に向き直ったキャステン公爵は、打って変わって優しい猫撫で声を出す。
「顔を洗うためのぬるま湯なんだから、怪我なんてしてないよ。ちょっと濡れただけ」
対してメリザンドは、歌うようにそう答えて、ちぎったパンを口に運んだ。公爵の心配などどこ吹く風、といった風情だ。
「それでも、だ。罪にはしかるべき罰を。またお前に何かあってはいけない。分かるね?」
ミシェルには氷のように凍てつく視線を向ける公爵だが、メリザンドに向き直った時には柔らかい目をしている。
「お前はこのキャステン公爵家の血を引く唯一の娘だ。何よりも尊い存在なんだよ」
キャステン公爵家は、建国の頃より時の神ロズノアテムの祭祀を司る家だ。当然、直系であるメリザンドの身は、安全に守られなければならない。
だから、メリザンドが何度も殺され、その度に時間が巻き戻る、今の状態は異常なのだ。絶対にあってはならないことが起こっている。
一介の侍女が傷つけるなど、なおさら許されることではない。
罰ならば甘んじて受け入れる。心優しい主人は「気にしないで」と言ってくれたが、本来ならあのようなことはあってはならない。弁明の余地も無い。殺されたって仕方がない。
だから、どのような罰であれ、ミシェルに拒絶する権利などありはしないのだ。
たとえそれが、メリザンドとの別れを意味するとしても。
「こいつはメリザの傍に置いておけない。解雇する」
果たして公爵は、無情にも、ミシェルが一番聞きたくなかった言葉を告げた。
(あぁ……)
殴られた時よりもずっと強い衝撃に、ミシェルの目の前が一瞬暗くなる。
「待って、パパ!」
メリザンドがパンを放り出して立ち上がった。
「そんなの困る! ミシェルはあたしの侍女(もの)なんだから、勝手に取り上げないでよ!」
「メリザ、聞き分けなさい」
「いや!」
メリザンドは公爵を押しのけ、ぐらぐらと頭を揺らすミシェルの両手をきつく握り締めた。潤んだ瞳が、まっすぐ覗き込んでくる。痛いくらいに食い込んでくる指が、主人の心を示しているようだった。
「ちょっと体調が悪かっただけだよね? くらっとして、それで桶を落としちゃったんでしょ? 悪気はないんだよね? ……そうだと言って!」
言葉を求められている。命令されるがまま、ミシェルは頷いた。
「はい、そのとおり、です。おじょうさま」
随分と久しぶりに出した声は、酷くがさついて聞くに堪えない。
けれどメリザンドには、それで十分だったのだろう。明るく顔を輝かせて、キャステン公爵を見上げた。
「これからは、ちゃんとミシェルの体調管理をする。この子がいないのはとっても困るの。ねえパパ、いいでしょう?」
公爵は難しい顔をして考え込んでいたが、すぐに首を振った。
「駄目だ」
「そんな!」
公爵の決心は固いようだった。「でも……」と言い募ろうとしたメリザンドが、唇を噛んで俯く。
「……じゃあ、パパ。せめて、ミシェルといつでも会えるようにして? 大事な友達でもあるの。あたしが望んだ時に、いつでも」
メリザンドの強い眼差し。切実な響きの声。ミシェルは喉を詰まらせた。
こんなにも大切にされている。それが、何よりも嬉しかった。
もう十分すぎると、思えるほどに。
メリザンドの強い思いに、公爵はとうとうため息をついた。
「分かった、分かった。何か考えておこう。決まるまではパパが預かっておく。それでいいね?」
「うん。パパ、絶対だからね? 会えなくなるなんて嫌だよ?」
念を押して、メリザンドはミシェルの手をするりと離した。
遠ざかる温もりを閉じ込めるように、そっと手を握り込む。これからどうなろうとも、この人の侍女であった幸運を、ミシェルは忘れないだろう。
メリザンドの足元に跪き、精一杯の感謝を示すために、深く頭を下げた。
「行くぞ」
顎をしゃくる侯爵について、メリザンドの部屋を出る。最後に振り向くと、椅子に座り直したメリザンドがにこりと微笑み、優雅に手を振った。
「じゃあ、またね、ミシェル」
それに応える前に、ミシェルの眼前で大きな音を立てて扉が閉まった。
扉を叩きつけるように閉めた公爵が、ミシェルを見下ろす。大きく舌打ちをして、近くにいた使用人を呼び寄せた。
「まったく、こんな薄汚い襤褸切れの何がいいんだ……。おい! こいつを牢にぶち込んでおけ!」
言いつけられた使用人は、戸惑った顔をしてミシェルを見た。何度か顔を合わせたことがある。見かける度に、「何か困っていませんか」と声をかけてくれた男だ。
あからさまに躊躇した使用人は、ミシェルを連行しながら囁くような声で言った。
「ミシェルさん……。ごめんなさい」
何故謝る必要があるのか、ミシェルにはさっぱり分からなかった。
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