第3話 神殿
神殿の庭に広がる花壇。時の神の目を楽しませるための、彩り豊かな花々の中。神官見習いのロズは気持ちよく惰眠を貪っていた。
時の神ロズノアテムの神殿は、キャステン公爵家の屋敷前に横たわる道を、北の丘に向かって登った先にある。
ロズノアテムは、このエンテ神聖国を建国した神々の一柱で、世界の時間そのものを司っている高位の神だ。エンテ国が、特別な神の国として周辺国に尊ばれる所以の一つだ。
しかしそんなことは、ロズにとってはどうでもいい。
艶のある黒い髪や、身に纏った神官服が土に汚れるのも厭わず、ごろりと寝返りを打つ。空は雲一つない快晴で、晩冬の日差しは程よく暖かい。名前も知らない花の香りが、鼻先をくすぐっている。
ぼんやりと睡眠と覚醒を行き来していたロズだったが、突然足先を蹴り飛ばされて、痛みで飛び上がった。
「……おや、ロズ。またサボっていたのですね。道にはみ出すと危ないから、ここで寝るのはやめなさいと何度も言っているではありませんか」
声も出せず悶えるロズを呆れた顔で見下ろしているのは、この神殿の神官長だ。
「お願いしていた祭壇の掃除も、どうせやっていないのでしょう。ロズノアテム神に由来する名前をいただいているのだから、少しは真面目にお仕えしようとは思いませんか?」
「……思わないよ」
花壇の縁を囲む煉瓦に座り込んで、ロズは膝に頬杖をついた。
「僕は神官になりたくて、ここにいるわけじゃない」
「……まあ、いいでしょう」
ため息をついた神官長は、ロズに仕事をさせるのは端から諦めているようだ。ロズの腕を掴んで立たせ、服についた土や汚れを叩いて落す。
そして、懐から一枚の紙を取り出した。
「これを見てください」
上質な紙に、金の箔押し。中央付近に折り目がついていて、びっしりと文字が綴られている。どうやら手紙のようだった。ぐいぐいと押し付けられるそれを、ロズは渋々受け取る。
「何これ。どこかの貴族から?」
「キャステン公爵からの手紙です。数日前に解雇した使用人を、この神殿で働かせることにした、と」
「……どういうこと?」
「読んでください。それで分かります」
面倒事の気配がする。拒絶したかったものの、静かに見つめてくる神官長の目が、それを許さなかった。
この初老の男が、いかに真摯で頑固な性格をしているか、ロズは知っている。結局、圧に負けて手紙に目を通すことになった。
「……」
内容としては、ごく簡単なものだった。キャステン公爵家の本邸で、粗相をした使用人を解雇した。しかし一人娘のメリザンドがその使用人を気に入っており、傍に置きたいと言っている。そのため、メリザンドが毎日通っている神殿で働かせろ、と。
要約すればそれだけのことだったが、ロズを辟易とさせたのは、解雇したという使用人に対する罵詈雑言の数々だった。
(とんでもない不敬、出自が卑しい、身の程を弁えない思い上がり、生きている価値もない……。死ぬまで扱き使ってくれ……)
まるでとてつもない大罪人であるかのような罵倒だが、それならば何故、メリザンドと会えるように取り計らうのだろう。
何より、それほどの罪人であるなら、厄介払いの先として神を祀る神殿を選ぶ、公爵のその神経が分からない。
ぎゅっと顔をしかめたロズが顔を上げると、神官長が神妙な顔をしていた。
「読みましたか」
「……このミシェルって使用人、何したの?」
無駄に豪華な装飾の手紙を、ひらりと振る。
ただ事ではない怒りが込められた手紙だ。さぞや救いようのない大罪人なのだろうと、そう思えば。
「手を滑らせて、洗顔に使うぬるま湯をお嬢様に掛けてしまったと。手紙を持ってきた方がおっしゃっていました」
「……は?」
ロズはまじまじと神官長を見返した。彼の表情は落ち着いているが、その目には微かな怒りとやるせなさが宿っているように見える。
「湯をかけただけ?」
「ええ。メリザンドお嬢様は特に火傷もなく、ミシェル様の解雇には反対していらしたようですが。公爵様はお許しにならなかったようです」
もう一度、手紙を読み返す。見るに堪えない、悪意に溢れた罵倒の数々。
「ミシェル様は、メリザンドお嬢様の侍女でした。ですから、我々もあの方のことは良く知っています。とても真面目で……、ここまで悪し様に言われるような方では、決してありません」
ロズはこの神殿で、メリザンドと顔を合わせたことがない。だから、ミシェルのことも知らなくて当然だった。
もう一度手紙に目を落とす。キャステン公爵が、娘を溺愛しているのはロズも知っている。その愛情の、度が過ぎていることも。
「ロズ」
「……なに?」
「ミシェル様のことを、よろしくお願いします」
「僕が世話をしろ、ってこと?」
やはり面倒事だった。人のことなど気にしている余裕はないのに、ただの哀れな使用人一人に心を割いてなどいられない。
思わず神官長を睨みつけたが、彼は一切動じなかった。
「世話されるのはロズの方でしょう。ミシェル様はしっかりしておられますから。ですが……、あなたは、我々とは違いますから」
びくりと肩を震わせる。
「仮にも神官見習いが毎日ぐうたらしているのを見れば、ミシェル様も気が紛れることでしょう」
この敬虔な神官は、一体どこまでを知っているのだろうか。ロズは黙ったまま、小さく頷いた。
その日の午後に、両手で抱えられる程度の小さな荷物を持った少女が、神殿にやってきた。
神官長に引きずられて迎えに出たロズは、その姿を見て眉をひそめた。
痩せぎすの体、かさついた肌に、痛んで艶の無い髪。目ばかりぎょろりと大きくて、不健康なのが一目で分かる。
顔立ちは整っている方だろうし、金髪碧眼というのは貴族でも珍しい。それなのに、やつれきった姿のせいで不気味な印象しか抱けない。
その上、丘を歩いて登って来たというのに、血の気の引いた真っ白な顔をしている。神官長が案じるような声を出した。
「ようこそおいでくださいました。ミシェル様、顔色が悪いようですが、どこか具合でも……。ミシェル様?」
「……」
どこかぼんやりとしていたミシェルは、その場に荷物を取り落とし。
「え」
そのまま、ぐらりと倒れた。
「ミシェル様!」
慌てふためいて駆け寄る神官長の後ろで、ロズは静かに目を見開いていた。鼓動が早鐘を打つ。視線が外せない。
(この子。……知ってる。知ってた)
無視することのできない、とんだ面倒事が飛び込んできてしまった。
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