第4話 少年
意識が浮上して、まず最初に感じたのは、柔らかい布団の感触。その温かさだった。
夢を見ているのだと思った。だってミシェルは、こんな上等な布団で寝たことなどないのだから。
こんな夢からは、早く醒めなければいけない。ミシェルは重い瞼を、無理やり持ち上げた。
――知らない場所だった。今まで使っていたミシェルの部屋が、四つは余裕で入るだろうか。ミシェルが寝ているベッド、引き出しをいくつか備えた机、背丈よりも高いクローゼットがある。机の上には、ミシェルが唯一持っている鞄が置かれていた。
窓の外は明るい。日の向きからすると恐らく朝だろう。
ここはどこだろうか。部屋を眺めているうちに、徐々に記憶が戻ってくる。
「……っ!」
思わず飛び起きて、両手で顔を覆った。
数日間、牢に入れられた後。僅かな私物と共にミシェルが向かわされたのは、丘の上に立つ神殿だった。
ロズノアテム神殿。毎年、春の第一月一日にここで祭りを執り行うのが、キャステン公爵家の一番大切なお役目だ。
新年最初の日、現世に顕現したロズノアテム神が、その力で春を呼ぶ。キャステンの直系から選ばれたロズノアテムの伴侶役が、それを補佐する。
この『時訪祭』でロズノアテムが力を奮うことで、世界の時間が正常に保たれるのだ。
次の伴侶役はメリザンドだ。神の伴侶を務めるためには、一年間神殿に通い続け、祈りを捧げる必要がある。だからメリザンドも、毎日神殿を訪れていた。
ミシェルもそれに付き従っていた。だから、神殿はよく知った場所だ。
公爵には、「死ぬ気で働け。それが償いでもある」と言われた。これは慈悲だと。体罰を受けることも無く、メリザンドにも会える。なんと幸せなことか。
公爵の慈悲に感謝した。このまま神殿に居続けられるよう、頑張って働こう。どんな仕事だってこなしてみせよう。
そして、死を繰り返すメリザンドの力になるのだ。これまでのようにはいかないかもしれないが、彼女が手足を欲した時に、いつでもこの身を差し出せるように。
繰り返す時間を、ミシェルは覚えている。メリザンドも、覚えているようだ。
だが、自由に話せないミシェルは、そのことを主人に伝えられない。未来を変えようともがくメリザンドの、直接的な力になれないのなら、せめて彼女の望みをすべて叶えたい。
そう、思っていたのに。
空腹だったとはいえ、丘一つ登っただけで倒れるなんて。
寝かされていたベッドの上で半身を起こし、ミシェルは呆然とした。なんという恥を晒してしまったのだろう。これでは公爵だけでなく、優しいメリザンドにも呆れられてしまう。
いや、それどころか、神殿にいられなくなるかもしれない。そんなことになったら。
そこまで考えて青くなった時、何の前触れもなく部屋のドアが開いた。
「……あ」
顔を覗かせたのは、ミシェルと同じ十五歳くらいの少年だった。目が合うと、気まずそうに口を曲げる。
「起きてたんだ。ごめん。……言ってよ」
無茶なことを言いながら入室した少年の手には、木の盆に乗せられたティーセットがあった。少年は盆をベッド脇のサイドテーブルに置いて、ひょいとミシェルの顔を覗き込む。
「まだ顔色悪いね。もっと休んでた方がいいんじゃない?」
その近さにミシェルは驚き、身を引く。そしてこの少年が、倒れる直前に見た神官の一人だったと、思い出した。
ドッと脈を打ち始めた胸を抱えて、ベッドを飛び降りる。少年神官の前で床に額を擦り付けると、「は?」という低い声が聞こえた。
どうにか分かってもらおうと、頭を下げ続ける。もし、この神殿まで追い出されてしまったら。今度こそ、メリザンドに合わせる顔がなくなってしまう。
けれど、少年は低く唸るのだ。
「それ、なんの真似?」
なんの、と言われても。
ミシェルはこれ以外に、許しを請う術を知らないのだ。
だから。
「不愉快だからやめて」
そんな風に冷たい声を向けられると、これ以上どうしていいか分からなくなる。
ミシェルが動けなくなっていると、大きなため息と共に体を持ち上げられた。元通りにベッドに戻され、目を白黒させているうちに、丁寧に布団をかけられる。
少年は机の所にあった椅子を引きずって来て、ベッドの横に腰を落ち着けた。
「……ロズ。そう呼ばれてる。一応、神官見習い。君は、ミシェルでいいんだよね?」
怒りを孕んだような雰囲気は、たちまち掻き消えた。
戸惑いながらも頷くと、ロズはポットの中身をカップに注ぎ始める。
「ここが今日から君の部屋。足りないものがあったら、買いに行くから言って。荷物少なかったし、服とかもっと必要でしょ」
――何を言われているのか、さっぱり分からない。
何故ミシェルの服を買う話になっているのだろう。ミシェルは罪を償うため、メリザンドの希望を叶えるため、この神殿に来たのだ。
「ミシェルはしばらく休養。食事はここまで運ぶから、部屋で食べて」
分からない、分からない。
休養とはなんだ。食事を運ぶとは。ミシェルは何をすればいい。
何も、分からない。
そんなミシェルの混乱など気にも留めず、ロズはカップを差し出してきた。
「はい、白湯。蜂蜜入ってるから、飲みやすいと思うよ」
受け取ることが、できなかった。
ミシェルは罪人なのに。こんなに良くしてもらう権利はない。
部屋だって、こんなに良い場所は相応しくない。何もしていないのに、食事を用意してもらうなんて許されない。
「……? いらないの? 半日以上は気絶してたから、水分取らないと」
ロズが眉をひそめる。そんな顔をする理由も、ミシェルには見当がつかなかった。
カップをサイドテーブルに戻して、ロズは頬杖をついた。不機嫌そうな表情だ。また機嫌を損ねてしまった。
けれど、謝ろうとすればさっきのように怒られるのだろう。一体、どうすれば。
ほとんどパニックに陥っているミシェルに、ロズは静かに言った。
「……ミシェル。ちゃんと話してくれないと、分からないんだけど」
「……」
「それとも、声が出ないの? だったら紙とペンを用意するけど? ……あ、字は書ける?」
口を開いて、閉じる。
メリザンドの許しがなければ、声を出してはいけない。それが、侍女としてミシェルに最初に与えられた命令だった。
これまで忠実に守ってきたその命令を、いつものように遂行していたけれど。
そういえばミシェルは、もう侍女ではなくなったのだった。
「……」
それでも、声を出すのは躊躇われる。そうしてしまったら、ミシェルが完全に「メリザンドの侍女」ではなくなるような気がして。
「……もし、だけどさ」
ロズはやはり、静かな目でミシェルを見ていた。
「キャステンの屋敷で何か言われてたんだとしても、ここじゃ関係ないよ。ミシェルはもう、この神殿の人間なんだから」
ああ、その通りだ。初日に倒れたなどという失態を、ミシェルはこれから挽回しなければいけないのだ。話せと言われたなら、従わなければ。
それがどれだけ辛いことでも。
「もうしわけ、ありません」
やはり声はガサガサで、ちゃんとロズに聞こえるかどうか不安になった。
「白湯。飲んで」
今度は有無を言わさずカップを押し付けられ、ミシェルは受け取った。一口飲み込む。ほんのりとした温かさが、喉を撫でていく。
「話すなって言われてたの?」
「……はい。お嬢様の、ゆるし、なく、声を……、だしてはならない、と」
そう、と相槌を打つロズの顔は、ひんやりとしている。
「酷い主人だね」
「ち、ちがいます!」
メリザンドが誤解されている。彼女は酷い主人などではない。この命令は侍女として当然のことだ。
そう訴えたいのに、この口は思うように動いてくれない。もごもごと舌の上で音を転がしていると、ロズが再びため息をついた。
「ま、ここで議論する気はないから、いいよ。それよりも、食事は? お腹空いてるでしょ」
そこで初めて、ミシェルは腹に手を当てた。空腹など、いつものことだから気にしてもいなかった。
「だい、じょうぶ、です」
「あてにならなさそう。そんな細くて、ちゃんと食べてると思えないんだけど。最後にご飯食べたのいつ?」
まるで尋問のように問い質される。何故そんなことを聞くのだろうと疑問を感じたが、問われたからには答えなければならない。
半日以上寝ていたというのだから、屋敷を出たのは昨日だ。となれば。
指折り数えてから、ミシェルは正直に答えた。
「五日前、だと、おもいます」
「……」
「牢に、いたので」
見張りが水を運んでくれたから、特に問題はなかった。
ロズが黙ったまま見つめてくるので、ミシェルは首を傾げながら見つめ返した。
「……普段、何を、食べてたの?」
「え、と。おじょうさまが、食事を、わけてください、ました」
普通なら使用人は、主人と同じ食事など食べてはいけない。けれどメリザンドは、「ミシェルにだけは特別だよ」と言って、こっそり同じ物を分けてくれた。秘密にしなければならなかったから、メリザンドが公爵と一緒に食事をする時はそれが無くて、謝られたものだ。
昼の正餐はほとんど食べたことがない。間食や、夜の食事をいただくことが多かった。だから、一日に一度食べられれば良い方だった。
「……分かった」
何故だかロズは、顔から表情を落として立ち上がった。
「とりあえず何か持ってくる。待ってて」
「あ、いえ……、でも」
「待ってて」
今のミシェルには、頷く以外の選択肢はなかった。
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