第5話 食事
ロズが運んできたのは、木の皿に入った湯気の立つスープと、小さな白パンだった。
ミシェルは目を白黒させて、その食事を見つめた。スープには細かく切った様々な具材がたくさん入っていて、手を掛けられているのが分かる。何よりも、白パン。小麦だけを使った高価なパンなんて、メリザンドが食べている所しか見たことがない。ライ麦で作った黒パンさえ、ミシェルの口に入ることは少なかった。
本当にこれを食べて良いのか躊躇して、手を出せずにいると、またロズの眉間に皺が寄った。
「早く食べなよ」
「……これ、こんなに、いいパンを……」
「……ああ。神殿には、いろんな連中から捧げ物が集まるから。毎日じゃないけど、白パンはよく見るよ」
事もなげに答えたロズは、ミシェルが恐れおののいたパンを取り上げて、ちぎった欠片をスープに放り込んだ。
「ここじゃ、そんなに貴重じゃない。気にしないで」
そろそろミシェルは、何に驚いていいかも分からなくなってきていた。
木の皿を持ち上げて、スプーンを手に取る。浮いている白パンを軽くつつくと、じわりとスープが染みこんで沈んでいった。
スープに浸したパンを、スプーンで掬う。口に含むと、じんわりと舌を焼く熱さが広がっていった。
眼を瞬いて、もう一口、スープを口に運ぶ。
「……」
ゆっくりと飲み込んで、空になったスプーン。そこに、ロズがまたパンの欠片を乗せた。
今度はスープに浸さずに、そのまま食べる。
「美味しい?」
平坦な声で尋ねてくるロズは、料理の出来が気になっているというよりは、形式的な質問をこなしているだけのようだった。
だからだろうか。今度は躊躇いも、気負いもなく、言葉が滑り出た。
「おいしい、って……?」
「……味の感想を聞いてる」
味。
固まったミシェルに、ロズはとうとう黙り込んでしまった。数秒間の沈黙の後、再び平坦な声が言う。
「……ただの雑談だよ」
そういうものなのだろうか。ミシェルには分からなかったが、ロズの視線が痛かったので、その後は黙々と食事を続けた。
スープもパンも、ミシェルがすっかり平らげてしまうと、ようやくロズは満足したように頷いた。
いつものように頭を下げて礼を示しそうとしたミシェルだったが、それでは駄目なのだと思い出す。けれどなんと言えばいいのか、迷っていると。
「礼だったら、『ありがとう』でいいんだよ」
さらりとそう言われて、少し俯いた。
「あ、ありがと、う、ございます」
「ん」
相変わらず酷い声だけれど、ロズはそれでいいらしい。ミシェルが空にした皿を、ティーセットと一緒に片付けている。
自分で片付けようとしたけれど、また睨まれてしまったので、ミシェルはその様子をもどかしく見ていた。
「じゃあ、僕はもう行くけど。ミシェルはここでしばらく休んでて」
「? しごと、は……」
「今の所は特に無いよ。他に聞きたいことはある?」
何か仕事をしたいのに、無いと言われてしまったらどうしようもない。ロズは次の質問を待っている。
何か聞かなければいけないのだろう。ミシェルは考えて、目が覚めてからずっと気になっていたことを尋ねることにした。
「その、どうして……」
「なに?」
「私に、こんな……、良いもの、を」
食事も部屋も、ミシェルには過ぎたものだ。純粋に、どうしてここまで良くしてくれるのかが分からない。
まだ口の中に残っているスープのぬくもりを舐める。
ミシェルに、そこまでの価値はないというのに。
ロズは両手で木の盆を抱えて、未だベッドの上にいるミシェルを見下ろした。
「君、小さい頃にこの神殿で拾われたんだろ?」
何かと思えば、ミシェル自身も忘れかけていた過去の話だ。幼い頃に捨てられたミシェルを、神殿の人が見つけて拾ってくれた。そしてキャステン家に引き取られることとなり、メリザンドと出会ったのだ。
「あの時、最初に君を見つけたのが僕だった」
「え……」
「キャステン家に預ければいいと、言ったのも僕だ。覚えてる。だから、」
ミシェルをまっすぐに見つめる赤い瞳が、ゆるく細められた。
「僕には、ミシェルの面倒を見る義務がある」
それはなんだか違うんじゃないかと思ったミシェルだったが、ロズがあまりにも自信満々に言うものだから、
「は、はい」
そう答えるしかなかった。
◇ ◆ ◇
食堂の洗い場で、ロズは待ち構えていた神官長に捕まった。
「ミシェル様の様子は?」
「……最悪」
持っていた食器を全部、神官長に押し付ける。
「最悪、とは」
「キャステンはいつの間に、あれほど腐り切ったんだろうね。神官長は知ってた?」
「……」
ロズは鼻を鳴らした。神殿はキャステン家の配下だから、仕方がない部分はある。長という役を貰っているとはいえ、この男は公爵家に逆らえる力を持つわけではない。
そんなことは分かっているが、それでも苛立ちが収まる訳ではない。
何よりも、自分自身に腹が立つ。
(何も見てなかった。気にしてなかった。それが腐敗を招いたなら、僕の責任でもある)
それが顕著に表れてしまったのが、恐らく、ミシェルだった。
「虐待を受けてたよ。ミシェル本人は何も分かってないけど。声を出すのを禁じられたり、たまにもらえる残飯しか食べてなかったり」
「……話さない方だとは思っていましたが」
「メリザンドはもともと嫌いだったけど、さらに嫌いになったよ。しばらくはミシェルと会わせない方がいいね」
神官長は俯いていた。悔やむような声が本心からのものだということは、ロズにも伝わってくる。
ならばきっと、これからロズがやることに、文句を言ってくることは無いだろう。
「ミシェルは、僕が面倒をみる」
「それはもちろん、最初からお願いしていたことですから。ですが、突然やる気になったのは何故ですか?」
神官長の不思議そうな問いかけに、ロズはふっと口を噤んだ。
すべてを話す気など無い。何をしようと、失敗すればすべて無かったことになるのだ。なら、彼に話したところで一体何になる。
どうせロズだって、時間が戻ってしまえば忘れてしまうのに。
だから、至極無難なことしか言わなかった。
「あの子に、確かめなきゃいけないことがある。それだけだよ」
ロズとは違い、記憶を持ったまま時間を逆行しているらしいミシェルに。
「そうですか……」
ロズには、ミシェルの協力が必要だ。そしてそのためには、メリザンドへの盲信を消さなくてはならない。
きっと彼女にとっては、身を切り裂かれるような苦しみが待っているだろうけれど。
「……」
さっきまで見ていた、ミシェルの姿を思い出す。
騙されていることにも気づかず、間違った人間を信じ続けて。人として当たり前のことなど、何一つ知らないまま。
今にも折れそうなほどに痩せこけて、時代遅れなボロ服を纏い、みすぼらしくベッドに横たわって。
そんな屍の如き姿なのに、ギラギラと愚かな輝きだけが、碧い瞳を彩っていた。その瞳だけが生きていた。見る人によっては、あれを狂気と呼ぶのだろう。
「……かわいそうだなあ、って、思ったんだ」
だって、あんまりだ。彼女は何も悪くないのに、理不尽にさらされ、搾取され尽くしている。そして、その責任の一端は、きっとロズにある。
瞳に宿る盲従の火が消えた時、あまりに人間味の無いあの少女は、いったいどんな顔をするのだろう。どんな目で、ロズを見るのだろう。
何故だか、それが楽しみに思えて仕方なかった。
「ロズ、どうして笑っているのですか?」
「え?」
言われて、思わず頬を触ってしまった。自覚はまったくなかったけれど、確かに緩んでいる。
理解できない、という目で神官長がロズを見ていた。
「……ははっ。さあ、なんでだろう?」
仕方がない。だってロズ自身にも、これがなんという感情か分からないのだから。
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