第6話 早朝

 次の日から、ミシェルの神殿での生活が始まった。


 いつものように日の出と共に目覚めたミシェルだったが、早くも困ってしまった。これまでなら、やらなければならないことは山のようにあった。メリザンドの食事を用意したり、衣装を洗濯したり、それ以外の細々した雑用もすべて、ミシェルの仕事だったからだ。


 だが、ここには仕事が無いという。やることが無いのなら、どうやって時間を過ごせばいいのか。



(休養と、言われても)



 そもそも休むとは、何をすることなのだろう。


 仕方なく、ミシェルはベッドを降りて部屋を出た。ロズか、他の神官の誰かに聞けばいいと考えたからだ。


 夜明けの神殿は、薄暗い静寂に満ちていた。


 ロズノアテム神殿は縦に細長い構造になっており、大まかに三つの区画に分けられる。


 正面、大通りに面している手前の部屋が、祭壇の間。身分や立場を問わず、ロズノアテムを信仰する者ならば誰でも入ることのできる部屋。大きな祭壇があり、訪れた者は好きに供物を供えることができる。


 その奥にある小さな区画が、祈りの間。キャステン家の人間と、限られた神官しか入ることのできない神聖な場所。ここは祭りの伴侶役に選ばれた人間が、一年間祈りを捧げるための部屋だ。ロズノアテムの神像があり、手にはその象徴たる薔薇の花が握られている。


 そして最奥が、この神殿に仕える神官たちの居住区だ。ミシェルに与えられたのも、この区画にある部屋の一つだと思われた。


 メリザンドと共に日参していたとはいえ、奥の居住区にまで入ったことはない。ミシェルは恐る恐る廊下を進んだが、当然のことながら、あっという間に現在地が分からなくなった。


 居住区とはいえ、そこまで複雑な造りではないはずだ。耳を澄ませて気配を探りながら、ミシェルは人の姿を求め歩いた。


 似たような扉が並ぶ廊下を抜けると、その突き当たりに小さな部屋があった。廊下側からは出入り口が無く、向かいの壁に扉が一つ。部屋の中には椅子がいくつかと、隅に水場があり、傍には大きな水瓶も置かれている。壁には棚が設置されて、様々な道具が所狭しと置かれていた。


 どうやら、庭仕事をするための道具を保管したり、休憩したりするための部屋であるらしい。スコップやじょうろなどの農具に加え、肥料や種なども置かれている。


 なら、この部屋に唯一ある扉は、外に続いているのだろうか。ミシェルの予想は当たり、扉を押し開けた先は庭に通じていた。


 神殿の庭は、どんな季節でも色とりどりの花が咲くように、様々な種類の植物が植えられている。ミシェルは遠くからしか見たことが無かったが、神官たちが丁寧に花の世話をしていることは知っていた。


 今は冬の季節だから、たくさんの花が咲いているとはいっても、やや控えめだ。煉瓦を積んで作られた花壇には、まだ蕾のない株もたくさん並んでいる。


 まだ時期ではない春の花たちは、時訪祭でロズノアテム神が春を呼ぶと、その瞬間から大きく咲き始めるのだ。


 ミシェルは花壇の傍に屈み込み、明け方の風に揺れる葉を指先で撫でた。


 そこで、ふと目を惹かれた。


 それは、薔薇のつるだった。他の植物たちに紛れるように、ひっそりと壁の低い場所を這っている。


 ロズノアテムの象徴である薔薇は、この神殿の正面にもたくさん植えられている。だから、この薔薇だけが異質だった。


 隠れるように、離れた場所で。一人きり、ぽつんと。


 けれど、ミシェルの意識を引きつけたのは、そのつるに咲いた薔薇の花だった。


 真っ黒な、インクで塗りつぶしたかのように真っ黒な、花びら。キャステンのお屋敷でも見たことがない、漆黒の薔薇だ。それが、数えて七つ。教会の壁に咲いている。


 この時期には花が少ないこともあって、目についた。


 近くで見ようと、少しだけ体を乗り出す。



「……何やってんの」



 花壇の中から声を掛けられたのは、その時だった。



「……!?」



 驚いて肩を震わせたミシェルは、花の中から起き上がって来たロズを見て、ぽかんと口を開けた。


 どうやら、花壇と花壇の間、煉瓦の並んだ僅かな隙間に寝ていたらしい。なんと枕まで用意している。



「こんな時間に、なんで外にいるの? 他の神官はまだ寝てるでしょ」



 それはロズも同じだと思うのだが。眠たげに目を擦るロズは、ミシェルの視線など一切気にせず、再び花の中に寝転んだ。



「部屋に戻りなよ。ご飯できたら持っていくから」



 まだ寝るつもりらしい。そうなると、少し困った。部屋に戻れと言われたから、戻らないといけないのに。帰る道が分からない。



「……もしかして、部屋が分からなくなった?」



 ロズが枕から頭を持ち上げた。


 申し訳なさに、ミシェルは俯く。指示に従わなければいけないのに、そのためにはロズの手を借りなければいけない。


 何も考えずに部屋を出てしまったのが間違いだった。



「もうし、わけ、ありません……」


「謝らなくていいよ。昨日のうちに説明しなかった僕が悪い。どこに行こうとしたの? トイレ?」



 勢いをつけて立ち上がるロズ。そのままミシェルの腕を掴んで、片手でひょいと立たせた。



「あ、の……。えっと」


「うん」


「休めと、いわれたので……。なにをしたら、いいのかと」


「……あー」



 何故だかロズは、少し不機嫌そうな表情になった。また何かしでかしてしまったのかと、ミシェルは体を固くする。


 こういう時、メリザンドが相手なら。すぐに跪いて許しを請う必要があった。けれどロズには、昨日それで叱られている。


 幸いなことに、ロズはすぐに眠たげな顔に戻った。枕を脇に抱えて、ぽりぽりと頭を掻く。



「そこまで言わないと駄目だったか。うん、これも多分僕が悪い」


「え、あの……。わるいのは、けほっ」



 私です、と言いたかったのに、乾いた喉に声が引っかかって、上手く話せない。


 勝手に動いたミシェルが悪い。あらかじめ聞いておかなかったミシェルが悪い。些細なことで迷惑をかけるミシェルが、悪い。


 悪いことはすべて、ミシェルのせいなのだ。


 かつて聞いたメリザンドの声が、耳の奥で蘇る。


 「あのね、ミシェルは大事な友達だから、教えてあげるんだけどね。何か悪いことが起きるのは、全部ミシェルが原因なんだよ? ちゃんと自覚して直さないと、ね?」と、ミシェルの足りないところを指摘してくれた。感謝してもしきれない。


 だが、ロズはそれをあっさりと否定した。



「ミシェルは悪くないよ」



 腕を掴んでいたロズの手が、するりと下に降りてミシェルの手を握る。



「休めっていうのは、疲労をとって、体力を回復させろってこと。倒れたばかりなんだし、そもそも丈夫なようには見えないし。何もせず部屋でゆっくりしてって、言えばよかったんだよね」


「なにも、しない……?」



 そんなことは、思いつきもしなかった。



「うん。僕なら寝て過ごす」



 ロズの手は、ミシェルのそれより少しだけ暖かい。



「あ、でも、まだあの部屋にも慣れてないか。よく眠れなかったの?」


「そんな、ことは」



 この時間に目が覚めたのは、ただの習慣でしかない。だが、あの部屋が落ち着かないのは確かだった。



「わたしには、もったいない、部屋で……」


「……普通の部屋だと思うけど」



 ロズの眉間に皺が寄った。



「屋敷ではどんな部屋に住んでたの?」


「おじょうさまの、寝室に……」



 メリザンドの部屋の中、寝室と繋がっている小部屋を与えられたのだ。使用人の誰よりも近しい場所にいた。いつでも彼女の呼びかけに答えられるように。


 拙い言葉で、自分の部屋について説明する。ちゃんと伝えられているかは怪しい。その証拠に、ロズの眉間の皺が徐々に深くなっていく。



「それさあ……。つまり、ワードローブだか物置だかに押し込まれてた、ってこと?」



 やはり分かってもらえなかった。メリザンドの衣裳部屋ワードローブは、寝室とは別にある。


 それは違う、と首を振ったが、ロズは納得していないようだ。ぎゅっと顔をしかめて、小さくため息をつく。



「……ま、そういう話は今度にしよう。部屋に戻る前に、食堂に寄って何か飲もうか」



 そのまま、そっと手を引かれた。



「おいで」



 子供のように手を繋いで、ミシェルは神殿の中に連れ戻された。先ほど歩いたばかりの廊下を逆に辿りながら、ロズの説明を聞く。


 とはいっても、ほとんどの部屋は神官の私室らしい。並ぶ扉を指で示しながらの説明は、「神官の名前、覚えてないんだよね」で終わった。


 次からは迷わないようにと、ミシェルは慎重に道順を頭に叩き込んだ。ロズに手間を掛けさせるようなことは、二度とあってはならない。



「ここが食堂ね。料理は手が空いてる人みんなでやるんだけど、僕は作ってない」


(見習いなのに……?)



 最後に案内されたのは、大きなテーブルと長椅子が並んだ部屋だった。ここに集まって食事を摂っているのだろう。奥には布のかけられた出入り口が一つある。


 ロズが布をくぐって奥の部屋に入るので、ミシェルも手を引かれるままついて行った。


 そこは調理場のようで、炉や水場が並んでいた。設備は整っているが、空間そのものはあまり広くなく、炉の数も少ない。ミシェルはキャステン邸の厨房しか知らないので、こじんまりとした調理場に目を瞬かせた。


 ロズは食器が仕舞われている棚に近づいて、青いマグカップを取り出した。「えっと……、水? お湯?」かなり手つきが怪しい。


 マグカップを手にしばらく考えていたロズは、くるりと振り向いてミシェルを見た。



「……ミシェル、何が飲みたい?」



 どうしてこの人は、ミシェルになんでも訊いてくるのだろう。そんなことを尋ねたって、意味はないのに。



「とくに……」


「喉、乾いてるでしょ」


「でも、」



 その程度で、「水が欲しい」などと言うことは許されない。ましてや、飲みたい物の希望を伝えるなど。


 ミシェルの戸惑いなど無視して、ロズは話を続ける。



「なんか、蜂蜜が喉にいいらしいって聞いて。昨日の白湯って、ちゃんとお湯じゃないとダメ?」



 その言葉で、なんとなく察してしまった。つまり、ロズは料理ができないのだろう。



「だめ、です……」


「そっか……」



 二人して黙り込む。無言でマグカップを見つめていたロズが、「よし」と頷いた。



「神官長、起こそう」


「え」


「大丈夫。ここで一番料理が上手なの、神官長だから。僕は火の起こし方も知らない」



 本当に調理場を出て行こうとするロズを、ミシェルは慌てて引き留めた。


 ミシェルの水分補給のためだけに、まだ寝ている神官長をわざわざ起こすなど。その方がよほど許されない所業だ。そもそも、ミシェルは薪を使う許可をもらっていない。



「み、水を。ただの水を、のみます」



 他に選択肢はない。ミシェルが縋るように言うと、ロズはにっこりと笑った。



「うん、じゃあこれ」



 いつの間にか水の入っていたマグカップを渡され、ミシェルは混乱することになった。ロズは一体どこまでを、計算していたのだろう。


 両手で包み込んだカップを見つめ、意を決して水を飲んだ。初めて自分から望んだ水は、喉の奥を突き刺すような、そんな冷たさを孕んでいた。



「……はは」



 そんなミシェルを、ロズは満面の笑みで見つめていた。

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