第9話 活動
ロズから、部屋を出る許可をもらった。何もしない生活、というのはとにかく暇であったが、確かに体は動きやすくなった。
これならたくさん仕事ができる。そう意気込んで、ミシェルは朝食を摂るために食堂へ向かった。休養期間は部屋まで食事を運んでもらっていたが、今日からは食堂で食べるようにと言われている。
身に纏うのは簡素なワンピースだ。メリザンドが手ずから渡してくれたものを、ずっと繕いながら着ている。
屋敷から持って来られた数少ない服のうち、一番お気に入りのものだ。ミシェルは神官ではないため、神官服を着ることはできない。
これも屋敷から持って来た手鏡で、丁寧に身なりを整えた。この手鏡も、メリザンドからの贈り物だ。傷一つ、汚れ一つ付かぬよう、大切にしている。
前に教えてもらった道順を歩き、迷うことなく食堂に辿り着く。内心ほっとしながら中を覗くと、ちょうど神官長が調理場から出てくるところだった。
ミシェルに気付いた神官長は、いつも通り穏やかに微笑む。
「おはようございます、ミシェル。随分と早いですね」
「おはよう、ございます」
返す挨拶は、起きて間もないためか輪をかけて掠れた声だ。喉に手を当てると、神官長が「ちょっと待っていてください」と言って、調理場にとって返した。すぐに出てきた彼は、手に持った水のグラスを差し出してくる。
「これを飲んでください。今日から働いていただきますから、体調はしっかり整えてくださいね」
「わかりました」
飲めと言われたので、水を飲む。それに、この調子だとロズを言い負かすことなどできない。
なんとしてもメリザンドの素晴らしさを、ロズに分かってもらわなければ。もはやそれは、ミシェルにとっての使命に近い。
ミシェルがグラスを空にしたのを確認して、神官長は頷いた。
「それでは、早速で申し訳ないのですが、一つ頼みごとをよいですか?」
「はい」
「良かった。ロズを食堂まで連れてきてくれませんか? 彼は声を掛けないと、延々と寝続けるのです」
困ったように眉を下げる神官長だが、そこに苛立ちの色はない。見習いであるロズが何をしていても、神官長は特に気にならないようだ。
ミシェルの感覚からすれば、ロズの不遜な態度は到底信じられない。
そんな気持ちを見透かされたのだろうか。神官長が、目尻に皺を寄せて笑った。これまでに見たことの無い、楽しげな笑い方だ。
「ミシェルは、ロズのことが嫌いですか?」
「……いえ」
好き嫌いなどない。ただ、理解できないだけだ。親切だが、時々意地が悪いこともする。何より、メリザンドへの誤解はやはり許せない。
「人の気持ちに疎い所もありますが、ロズは良い子です。それに、ミシェルのことは気にかけているようです。分かりにくいでしょうし、彼は口に出さないでしょう」
ですが……、と神官長は続ける。
「きっとミシェルには、良い未来をもたらしてくれますよ」
それはどうだろうか。ミシェルにとっての『良い未来』とは、メリザンドの元へ帰ることだ。可能性は無に等しいと、分かっているが。
それが無理でも、せめてこの神殿から、メリザンドの力になりたい。あの主人が何度も死を繰り返す現状から、救って差し上げたい。
メリザンドが嫌いだと言い切ったロズが、そんな未来を運んでくれるとは思えなかった。
「さて、それではロズをお願いします。恐らく、庭にいると思いますので」
花壇の中で寝ているロズを見下ろして、ミシェルは小さく首を傾げた。この人には部屋が無いのだろうか。そんなことは無いはずなのだが。
今日のロズは、冬に花を咲かせる低木の下で寝ていた。あいにくミシェルは花に詳しくないので、何という花なのかは分からない。
「……ロズ」
静かに寝ているロズに、声を掛ける。
最初は「ロズ様」と敬称をつけて呼んでいたのに、「気持ち悪いからその呼び方はやめて」と、本人に言われてしまった。
呼び捨てにするのは抵抗があった。見習いとはいえ、ロズは神官だ。ミシェルはただの下働きで、対等な立場では決してない。
だが、そんな気持ちはこの休養期間で消え去った。
ロズはミシェルの部屋を訪ねては、話す練習だと言って様々なことを尋ねてきた。ほとんどが意図の掴めない質問ばかりだったが、中にはメリザンドに関するものもあった。
メリザンドの話になると、やはりロズとは意見が合わない。それを繰り返すうち、ミシェルからロズに対する遠慮というものは、徐々になくなっていった。
なので、深く寝入っているらしい彼を起こすのにも、当然躊躇はない。
「ロズ、朝です」
まずは花壇の傍に屈み、少年の肩を揺らした。とはいえ、この程度でロズが起きないのは知っている。彼はミシェルの部屋でも、気づいたら寝てしまっていることがあるのだ。
「……ロズ」
次は強く揺する。もちろんこれでも、起きることはない。
「……」
なので、神官長の教えを実行することにする。
指先でロズの白い頬を摘まみ、力の限り、ぐいっと引っ張った。
「いっ……、たたたたた!」
ミシェルの指に吊り上げられるように、ロズが花壇から飛び起きた。頬を撫でさする少年に、ミシェルは告げる。
「ごはんです」
「神官長仕込みの起こし方、やめてよ……」
「おきなかったから……」
練習の成果か、口は少しだけ回るようになっている。それでも、流暢とは程遠い。
心の奥底には、声を出す度に小さなひっかき傷が溜まっていく。メリザンドの侍女だった頃の自分が、少しずつ死んでいく気がする。
この神殿に居続けるためには仕方がない。ミシェルはメリザンドの命令に応えるために、ここにいることを望まれている。メリザンドは言葉にしなかったが、長く仕えてきたのだ、それくらいは理解できる。
侍女という立場はなくなったが、死に戻りを解こうと奮闘している主人の力になれるのなら。その想いだけが、今のミシェルを繋いでいる。
目の前で大きな欠伸を零している神官見習いには、きっと理解されないだろうが。
「ロズ」
「はいはい、起きるよ。今日は買い物に行く予定だし……」
「かいもの?」
食材か何かの買い出しだろうか。ミシェルが首を傾げると、ロズは花壇から立ち上がり、枕を抱え直した。
「足りてない物が多いから。ミシェルも行くんだよ」
今日の仕事は、ロズと一緒に買い出しということか。神官長からは「ロズに仕事を教えて欲しい」と言われていたが、難しそうだ。ミシェルは買い物をしたことがない。
屋敷にいた時、それは他の使用人の仕事だった。ミシェルはメリザンドから離れることを、許されていなかった。
公爵令嬢であるメリザンドは、市井に買い物になどいかない。何かを買いたい時は、商人を呼ぶのだ。そんな時でも、対応するのは別のメイドや侍女の役目だった。だからミシェルは、自分の手で何かを買ったことがない。
「突然落ち込んで、どうしたの?」
表情を変えたつもりは無いのだが、ロズは目を丸くして顔を覗き込んできた。
「私では、おやくに立てません」
「買い物で役に立つって、初めて聞いたけど。そんなに気負わなくてもいいよ」
「でも……」
「ほら、朝ご飯でしょ。行くよ」
何故だか目を細めて笑ったロズは、ミシェルを先導するように歩き出した。
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