第8話 誤解
ロズという神官見習いは、ミシェルにとって不思議な人だった。
食事や着替えを持ってくるのは彼だ。たまに神官長が来ることもある。驚くべきことに、ここでは食事が一日三回出てくる。公爵令嬢であるメリザンドでさえ、食事は昼と夜に二回、あとは軽食を摘まむだけだったのに。
そう遠慮するミシェルに、ロズは「貴族はそうだけど、働いている平民は三食だよ。ミシェルもここで働くなら、体力をつけるためにたくさん食べなきゃ」と言って、パンを口に押し込んできた。その日のパンは黒パンだった。
神殿で暮らし始めて数日経ったが、ミシェルにとってこの生活は毒のようだった。すべてを与えられて、世話をされて、甘やかされている。仕事などしなくてもいいと、まるで憐れまれるように部屋に縛り付けられて。
このままでは、怠惰を覚えてしまう。腐ってしまう。そんなことは、ミシェルの矜持が許さなかった。
そして何より、毎日教会に来ているはずのメリザンドと会えないことが、苦痛だった。
耐え切れなくなったミシェルはとうとう、その日の昼食を運んできたロズに尋ねることにした。
「あの、」
「……え、ミシェルから話しかけてくれるの、初めてだね。なに、どうしたの?」
いつも眠たげな目を丸く見開いて、ロズはミシェルを見た。声もどこか弾んでいるような気がする。
「おじょうさま、とは、会えないのでしょうか……?」
機嫌が良さそうだったロズの顔が、一気に不機嫌になった。何故だか分からない。
「そんなに、メリザンドに会いたいの?」
本当に不思議だ。ミシェルの言動一つで、唐突に不機嫌になる。なのに、それをミシェルにぶつけて来ない。
今だって、ミシェルが失言をしたなら責めるのが当然なのに。嫌そうな顔とは裏腹に、ロズがミシェルにかける声は穏やかなのだ。
居心地が悪くて、ぞわぞわしてしまう。
「わたしは……、お嬢様といつでも会えるよう、ここに、きました」
「知ってるよ」
「だから……」
ミシェルにとって、メリザンドがすべて。彼女が望んだから神殿にいる。居場所を作らなければと思うのは、メリザンドに望まれたことを違えないためだ。
真剣にロズを見つめると、見習いの少年は大きくため息をついた。
「メリザンドなら、祈りには来てるよ。でもミシェルに会いたいとは言わない。来てすぐに、さっさと帰ってく」
「そう、ですか……」
それならば仕方がない。そうは思えど、落胆は隠せない。ミシェルが視線を落とすと、ロズがあからさまに大きなため息をついた。
「僕、あの女は嫌いなんだ。だから本当は、話題にも出したくないんだけど」
なんて酷いことを言うのだ。そう思って顔を上げると、ロズは静かにミシェルを見ていた。
眠たげな顔でも、不機嫌な顔でもない。すべてを見透かすような、透明な目だ。そこには、自然と頭を垂れてしまう、圧倒的な存在感があった。
背筋がぞくりと震える。この目を、どこかで見たことがあるような気がした。
半ば呆然としてロズを見返したミシェルに、彼はほんの少しだけ微笑んだ。
「でもね、ミシェルには訊かなきゃいけないことがあるから。本当は、もう少し声を出す練習をしてから、と思ってたんだけどね。ちょうどいいから話してもらおうか」
「……なに、を、」
喘ぐように尋ねたミシェルだが、答えなど分かり切っている。
「君の、元主人について」
メリザンドのことなら、確かにミシェルはよく知っている。誰よりも近くで仕えていたのは、ミシェルなのだから。
「おじょうさま……?」
「そう。ミシェルから見て、あの女はどんな人間?」
まるで詰問のようだ。メリザンドを暴こうとするような、悪意のある口ぶり。だが、ミシェルは一瞬、反論するのを躊躇ってしまった。
その声に、凍てつくような怒りが潜んでいると、感じ取ってしまったから。
「……やさしい、おかたです」
「本当に? ミシェルを虐めてた酷い主人でしょ」
「そんなこと、ありません」
「言葉を奪って」
「侍女、だから」
「まともな食事ももらえなくて」
「私が、とくべつだったから」
「襤褸切れを着せられて」
「しようにん、だから」
「部屋だってただの物置だった」
「ちがう!」
違う。ロズは誤解している。メリザンドはとてもやさしい主人だった。
食べ物も、服も、部屋も、初めて与えてもらったのだ。ミシェルが生まれた家では、それは当たり前のことではなかった。
「お嬢様が、わたしにくれた。へや、ふく、たべもの。全部、たいせつな……、私だけの、ものだった」
それを否定するロズこそが、酷い人だ。あんなに優しいメリザンドのことを、何も知らないくせに。自然と睨むような目つきになる。
そんなミシェルを、ロズは笑みを含んだ瞳で見下ろした。
「ミシェル」
愉悦の笑みを浮かべたまま、名前を呼ぶロズ。
「それは侍女や使用人どころか、人間としての扱いですらないんだよ。……かわいそうに」
いつの間にか、ミシェルは肩で息をしていた。胸の中で暴れ回るこの感情は、きっと、怒りだ。
大好きな主人を貶められて、生まれて初めて怒っている。この少年に、何としても分からせてやりたいと思った。
けれど、ミシェルはそれができるほどの言葉を持ち合わせておらず、声を出すことすらままならない。
(……悔しい)
睨む先で、ロズがますます瞳をとろけさせる。
「いい顔をしてるね。そうやって、ずっと僕を見ててよ」
ミシェルが何を思っているかなど、大して気にも留めていないような反応だ。
彼に、メリザンドの素晴らしさを分かってもらわねば。誤解したこと、酷い言い方をしたこと、それを理解してもらうためには。
(話す練習を、しないと)
今のミシェルでは、ロズを言い負かすことなどできるはずがない。
幸いと言っていいのか、ミシェルは今後、ロズに仕事を教えることになっている。反論の機会ならいくらでもある。
そう、小さく拳を握るミシェルだった。
◇ ◆ ◇
ロズは満足していた。ミシェルを転がすのは簡単だった。
目を吊り上げたミシェルは、いつもより勢いよく昼食を平らげた。まるでリスが威嚇しながら、ドングリを頬袋に必死に詰め込んでいるようだった。
ロズは空になった食器を持って、一度ミシェルの部屋から退室した。あのまま部屋に居座ってずっと睨まれているのも良いが、それではミシェルの心が休まらないだろう。
調理場に食器を置いて、ロズは腕を組み、考える。
部屋で休むように、と言ったからか、ミシェルは律義にそれを守っていた。自分からは出てこない。
神官長からは、そろそろ部屋の外で運動をさせては、と言われている。ずっと部屋にこもりっぱなしでいるのは、良くないらしい。
だが、何も考えずに外に出してしまうと、メリザンドと鉢合わせる可能性があった。
実の所、メリザンドは毎日のように、ミシェルとの面会を希望していると聞いた。それを神官長が、「体調を崩して、部屋から出て来られない」と、嘘とも言い切れない言葉で断っているのだと。伝聞の形なのは、ロズがまだメリザンドに会ったことがないからだ。
ロズは正規の神官ではない。だから、キャステン本家から来た人間であっても、応対の義務はない。そもそも、メリザンドは嫌いだ。顔を合わせるなど、虫唾が走る。
もともと嫌いだったのに、ミシェルの件でその嫌悪感は増した。
ミシェルのあれは、忠誠などと呼べるものではない。洗脳、が近いだろう。
衣食住を制限し、誰にも頼れない環境を作り上げる。身体的にも余裕はない。自然、思考力も低下する。
さらに言えば、恐らくミシェルは『普通』というものを知らない。ロズだってそこは似たようなものだが、少なくともミシェルよりは知っている。平民の暮らしも、貴族の在り方も。
無知につけ込んだ洗脳。それは手放したくは無いだろう。きっとミシェルは、メリザンドのためなら喜んで命すら捧げる。
だからこそ、メリザンドを侮辱すれば怒るだろうと分かっていた。
(あいつのことを知らないと。一体何をしたのか。何故、世界の時間が壊れてしまったのか)
ロズには分かる。守らなければならない時間が、壊れてしまったこと。その中心にいるのが、メリザンド・キャステンであること。
意図的かどうかは知らないが、時間が壊れてしまった時、そこにメリザンドがいたはずだ。
だが、壊れた時間と仮初の体に囚われたロズは、何も覚えていないのだ。
時間が戻れば、記憶は消える。過去とは、記憶だ。過去が無かったことになるのなら、記憶を留めておくことはできない。
でもミシェルは違う。彼女は何故だか、消えた時間のことを覚えている。
ミシェルなら、何かを知っているかもしれない。時間が壊れた理由は知らずとも、メリザンドの情報は得られる。
メリザンドに警戒されないように立ち回り、ミシェルから情報を得る。記憶があるのはメリザンドも同じだ。次に時間が戻った時、何も覚えていないロズが不利になる状況は避けたい。
メリザンドに心酔しているミシェルを、こちらに取り込まないと。
(それに、ミシェルのあの顔)
自由意思などほとんどなく、表情もあまり変わらないミシェル。それが、初めて激しい感情を向けてくれた。
メリザンドではなく、ロズをまっすぐに見ていた。
何も分かっていない、騙されていることにも気が付かない、哀れで愚かな少女。その燃える瞳がロズを映した時、背筋が震えた。
ミシェルが怒っている。ロズのせいで。
その大元の原因がメリザンドであるというのは、腹立たしい。
でもあの少女の顔が、自分のために歪むのは、なんだか楽しい。そう、思った。
「……次は、どうするかな」
呟いた声が自然と弾むのを、ロズはどこか他人事のように自覚した。
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