第17話 集落
夜の闇を隠れ蓑にして、こっそりと抜け出す。初めてのことではない。ミシェルは星明りの照らす夜道を、足早に進んでいた。
メリザンドは、例のパーティーに参加している頃だろうか。
できるだけ早く、その憂いを取り払いたい。命令のあったその日に、ミシェルは早速動いた。
特殊な力も、人脈もないミシェルにとって、情報を集めるのは簡単なことではない。それに、今回は何の手掛かりもない。
こういう時、ミシェルはその道の専門家を頼ることにしている。
ロズノアの街は、聖都と同じくらいに栄えている。大きく、華やかで、眩しい。その代償とも言うべきだろうか。街の周囲には後ろ暗い者たちの集まる場所がいくつもある。
街のまばゆさに馴染めず、あぶれて、暗がりに身をやつした者たち。ミシェルはその心情が理解できた。
だから、だろうか。この街とも、村とも呼べない集落を、ミシェルは恐れたことがない。屋敷の使用人たちは、外路集落に足を踏み入れると殺される、と怯える者もいたが。少なくとも、命の危機を感じたことはなかった。
いくつもあるこういった集落の内、街の西部にある集落には、情報屋がいる。子供の噂話から、貴族の寝室で交わされる密約まで、何でも知っていると嘯く情報屋だ。その分、高くつく。だが、それだけの価値がある。
この情報屋を、メリザンドは重用していた。何か知りたいことがある時、あの主人はよくミシェルをここへ遣わした。今のミシェルにとっては、メリザンドの死因を探るためにここを訪れた、その記憶が一番新しい。
辿り着いた西の外路集落は、いつもと変わらない寂寥感に包まれていた。この間、街で聞いた喧騒など、一切ない。ただ、地を這うようにして生きる人々の息遣いだけが聞こえてくる。
ミシェルは、数少ない自分の持ち物であるマントを頭から被り、集落の中を歩いた。あちこちの破れ屋から視線を感じるが、どれも決して敵対的ではなかった。
情報屋が拠点にしているのは、井戸の隣にある小屋だ。隙間だらけの木戸を叩くと、しばしの間を挟んで返事があった。
ガタつく木戸を苦労しながら押し開けると、中は当然だが、記憶にあるままだった。おおよそ食事を乗せられるとは思えないほどに傾いたテーブル、今にも崩れ落ちそうな戸棚。情報屋はその戸棚の前で、ぎしぎしと音を立てながら椅子を揺らしていた。
「……ああ、嬢ちゃんか」
無精髭の生えた顎を撫でて、壮年の男は目を細める。どこか探るような目つきは、職業柄だろうか。
「屋敷をクビになったんだってな、おめでとう」
「……」
「露骨に嫌そうな顔するじゃねえか。ま、その様子だと少しずつ分かって来るんじゃねえのか」
鼻で笑った情報屋に、ミシェルは一歩近づく。男は肩を竦め、椅子ごとこちらへ向き直った。
「で、何を知りたいんだ? キャステン嬢絡みなら、代金は割引してやるぜ」
ふざけた態度も多いが、メリザンドはこの情報屋を信頼している。だから、ミシェルも彼の仕事を疑わない。
「……お嬢様に、なにかわるいことを、考えている家がないか」
口を開くと、情報屋は目を見開いた。そういえば、いつもは依頼内容を書いた紙を渡していた。直接話をするのは初めてかもしれない。
そのことに気付くのが遅れたのは、声を出して話をすることに慣れてきているからだ。喉の奥に、苦い嫌悪感が走る。
「おお……、嬢ちゃん、喋れたんだな」
感心している様子の情報屋だったが、すぐに目を眇めて真剣な表情になった。
「しかし、キャステン嬢に対して企みごとのある家、ねぇ……。その情報だけじゃ、絞り切れんな」
調べられない、ではなく、絞り切れない。つまり、候補になり得る家が複数あるということだ。
いや、そんなことは分かっている。だって、これまでにメリザンドを殺してきたのは、全部違う貴族家だ。
今日の毒殺は、メリザンドがうまく回避しているだろう。時間が戻っていないのが、その証拠。
これから立て続けに、メリザンドの死に繋がる事件が起こるはず。だがそれらの情報は、既に手の内だ。
だから、知りたいのは、それ以外。
これまでに判明した、メリザンド殺害に関わる家の名を挙げ連ねた。情報屋は、それを黙って聞いていた。
「……これらのほかに、具体的な策を、たてているところ」
「随分と調べ上げてあるじゃねえか。嬢ちゃんが自分で?」
一呼吸分だけ間を置いて、ミシェルは首を振った。調べたのは、この情報屋だ。彼自身に、その記憶は無いけれど。
「まあ、いい。その条件なら、ある程度は絞れる」
「……それと、」
「まだあるのか」
ミシェルは躊躇に口を噤んだ。
知りたいことは、ある。けれど、それをこそこそと探る行為自体が、メリザンドへの裏切りのように思えて仕方なかった。
重い口をこじ開けて、声を絞り出す。
「お嬢様の、うわさを」
人々の間に流れる、噂、評判。その中身。
先日は、街でメリザンドの悪評を聞いた。だが、それで本当に全部なのだろうか。中には、メリザンドのことを慕う領民だっているはずだ。
悪い噂だって、集めることには意味がある。ミシェルの目的は、メリザンドに向けられた誤解を解くことなのだから。
「そりゃあ、集めるのは簡単だ。……量はとんでもねえだろうが」
造りの悪い椅子が、ぎしりと音を立てた。
「だが……。依頼二つ分の対価、嬢ちゃんに払えるとは思えんな。一つ目はどうせ、キャステン嬢が知りたがってるんだろう。だが、二つ目は嬢ちゃん、あんた個人の依頼だ」
「……」
「キャステン嬢の依頼なら、請求はそっちに乗せとくさ。嬢ちゃん、あんたは依頼の代金、払えるのかい」
マントの中で、ミシェルは拳を握りしめた。
金など持っていない。屋敷にいた頃は、メリザンドからすべて与えられていた。そして、神殿にいる今も。
だから、ミシェルに出せるものはほとんど無い。――ただ、一つを除いて。
でもこれは、ミシェルの宝物だ。
この、メリザンドからもらった、手鏡は。
「払えないなら、二つ目の依頼は聞かなかったことにするぜ」
「……あ」
たとえ自分の宝物だったとしても、それを差し出すことでメリザンドの力になれるのなら。本当なら、その二つを、天秤に乗せることすらおこがましいのだ。何を迷うことがある。
「支払いは、」
「僕が払おうか?」
懐から手鏡を出そうとしたそのとき、肩にぽすっと何かが乗せられた。耳元に暖かい吐息がかかる。
ロズが背後から覆い被さるようにして、ミシェルの肩に顎を置いていた。
「……ロズ」
「こりゃ……、驚いたな。なんでロズノアテムの神官が」
情報屋の声に、少しだけ緊張が滲む。対して、音もなく現れたロズの方は、気怠そうな空気を隠しもしなかった。
小さく欠伸をしたロズは、ミシェルのすぐ隣に立つ。さりげなく手も掴まれていた。
「で、ミシェル。どうするの?」
顔を覗き込まれて、ミシェルはゆっくりと瞬きをした。
いつものように眠そうな、ロズの目。それなのに、半分を隠した瞼の奥に、すべてを見通そうとする鋭さがある。
ミシェルの選択を、待っている。
それは苦手だと、知っているはずなのに。
「……わたし、」
「ミシェルが決めることだよ」
わざわざ選択肢を作って、突き付けて、選ばせようとする。やっぱり意地悪だ。
(でも……)
ここで選ばないといけないのがどちらなのか、もうミシェルには分かっている。
だって、メリザンドを助けたいと願っているのは、他ならぬミシェルなのだから。
「わたしが、払います」
ようやく取り出した手鏡を、柄の部分を相手側に向け、差し出す。情報屋は目を見開き、手鏡を見下ろした。
「これで、足りますか」
一切の歪みも、曇りもないガラスの鏡面。それを包む土台は銀。精緻な彫りの施されたこの手鏡は、メリザンドの持ち物だっただけあり、非常に上質な品だ。
質に入れれば、かなりの金額になるだろう。家紋などが入っている訳ではないから、問題なく売れるはずだ。
これでまだ足りないというのなら、別の方法を考えなければならない。
情報屋は勢いよく立ち上がった。それまで座っていた椅子が大きく揺れて、傾いだ後、元に戻る。そのまま、黙りこくってしまった。
手鏡を受け取ろうとしない。だが、拒絶することもない。
「……あの?」
ミシェルは困惑した。差し出したままの片腕が、ぷるぷると震え始める。手のひらほどの大きさとはいえ、鏡はそれなりに重さがある。
情報屋は、大きく息を吸って、止めて、吐いた。
「……嬢ちゃん、この手鏡は、どこで手に入れた?」
「これは……、おじょうさまから、いただきました」
「その時キャステン嬢は、なんて?」
「え、と……。『侍女は身だしなみを整えなきゃいけないから、あたしの鏡をあげる』、と」
「なるほどな。ちなみに、それはいつのことだ」
「……二年、まえ。冬でした」
ミシェルが質問に答える度、情報屋の目がぎらついていく。ロズが少しだけ、ミシェルの手を掴む力を強くした。
情報屋の意図が分からない。依頼の代金に足りないなら、そう言えばいいだけなのに。どうして手鏡の出所なんて気にするのだろう。
「嬢ちゃん」
「はい」
「依頼を受けよう。その手鏡を、くれるってんなら」
「どうぞ」
ようやく手鏡を受け取った情報屋は、それを宝物のように丁寧に捧げ持った。
「依頼内容は、キャステン嬢を害する計画を立てている家を調べること。それから、キャステン嬢の噂を集めること。……他には?」
「え?」
「あと一つ、依頼があるなら受けてやる。今、ないなら、次は全力であんたの力になってやろう。もちろん、タダでな」
さっきまでと、言っていることが違いすぎる。ミシェルはなんと返事していいか分からなくなって、ロズの方を見た。
相変わらず退屈そうに欠伸をしていたロズだったが、ミシェルの視線を受けて、小さくため息をついた。
「あんた、ユキノシタの探り屋でしょ」
肩を揺らした情報屋は、その呼び名に覚えがあるようだった。
「なら、こちらと敵対する意図はないはずだ」
「……ああ」
「狙いは?」
「あんたの想像通りだと思うぜ、神官殿」
「ふうん……。それならいいよ。ミシェルの不利益にならないなら」
交わされる言葉の意味などひとつも分からないけれど、ロズが納得したようなので、ミシェルは黙って聞いていた。
「ミシェル、その鏡一つで、かなりの値になるらしいよ。……少なくとも、彼にとっては」
「そう、なんですか」
「うん。だから、素直に受け取っておけばいいよ」
ロズが言うのなら、多分そうなのだろう。あの会話から、どうしてそれが読み取れるのかは分からないが。
情報屋は呆れたような目で、ロズを見ていた。そしてミシェルに向けて、ニッと笑う。
「安心しな、仕事はきっちりこなすさ。それに、さっきの言葉も嘘じゃない。だが、そうだなあ……」
少しだけ唸ってから、情報屋は大切そうな手つきで手鏡を持ち上げた。
「ひとつ、嬢ちゃんのためになる情報をやろう。サービスだ」
「情報を……?」
「この鏡。――盗品だ」
突然、水に沈んだ時のように、音がぼやけたような気がした。
それでも、情報屋の声だけは、水の膜を突き抜けるようにはっきりと響く。
「とある、やんごとないお方の持ち物だ。それが、ある時盗まれた。二年前の冬だ」
「……」
「随分とお嘆きだった。やっと、お返しすることができる」
くるりと回転した手鏡の、背面に施された精緻な彫り物。どこか見覚えのある花が、可憐に咲いていた。
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