1-2
「ほら、言った通りだったでしょう?」
仕方のない子供をあやすような柔らかな声で、何度目かの覚醒を果たす。
目がカピカピに乾いている。どっと溢れてくる涙を拭いながら、美樹人は仰向けになってため息をついた。
「……わぁったよ……」
受け入れざるを得ない。少なくとも、自分が『魔女』から離れると死んでしまうこと、それだけは。
「お茶でも飲みますか? 気分が落ち着くものを淹れましょう」
優しいような、義務的なような言葉。それに甘えてしまうのは、少しだけ嫌だった。
「いらねー」
「そうですか。なら、シャワーはどうですか? 傷も癒えたことですし、固まった血を流した方が良いと思いますが」
「この小屋、風呂あんの?」
「……失礼な。ありますよ。私、ここで暮らしてるんですから」
美樹人が硬い床からのろのろと起き上がると、『魔女』は部屋の中にあるドアを指差した。赤く塗られた一枚板のドアには、仰々しい鍵穴がついている。
「少し待っててくださいね……」
『魔女』は短パンのポケットからジャラリと鍵束を取り出す。両手でも足りない数を纏めたそれは、華奢な手の上で殊更に存在感を放っていた。
「ええと……シャワーは、赤……と」
赤い石の嵌った鍵を選んで、鍵穴に差し込む。がちゃり、と回しドアを開けると、温かく湿った空気が吹き込んできた。
「さ、どうぞ。うちのシャワーです」
自慢げな『魔女』の向こうに広がっていた光景。それは、目を疑うようなものだった。
「……何だ、これ……」
ガラスに囲まれた温室。
その中で、ザァザァと降り頻る水音。
雨か。いや、違う。温室の中央に生えた大きな木。それが伸ばす枝は頭上に茂り、そして──
「ウリンボクです。地中から大量に吸い上げた水を植物体の中で熱して浄化して、枝の先から排出しているんです。浄化された水は溶媒としてとても優秀ですし、葉を乾燥させて煎じて飲むと冷え性に良く効きます」
育てるのが大変なんですけどね、と肩をすくめて、『魔女』はガラス棚からタオルを取り出した。
「ちゃんと綺麗な水ですよ。温かいですし、覗き防止も万全です」
そう言って美樹人の頭にタオルを乗せると、そのままドアの中へと押し込む。
「石鹸とか、タオルの替えは自由に使ってくださいね。汚れた包帯は棚の上にお願いします」
「お、おー?」
「では、ごゆっくり」
ぱたん、とドアが閉まる。美樹人は一人放り込まれて、呆然と立ち尽くした。
「……」
温室全体に枝を伸ばす巨木──『魔女』曰くウリンボク。降り注ぐ水は、柔らかな芝生に染み込んでいく。
広大な温室だ。奥にはまた別の扉がいくつも並んでいて、ガラス越しに鮮やかな色彩が垣間見える。それが絵に描いたものではないことは、近寄ってみればすぐに分かった。確かに、奥へ、奥へと空間が続いているのだ。
この面積。あの小屋には到底収まりきらないと、一見しただけで確かに分かる。
「……」
美樹人はそっと、手を伸ばした。適度に温かい水が、肌を心地良く叩く。その感触は間違いなく、現実のもの。
「……はは、」
これが、現実か。
美樹人は奇妙な笑い声をこぼし、一歩、踏み出した。
全身にこびりついた血が、溶けて流れていく。あっという間にずぶ濡れになった包帯を解くと、赤黒い液体が滴っていた。
青い匂いに混じって、鉄の匂いが鼻をつく。
けれど、そんなことはどうでも良くなるくらい、気持ち良い。
美樹人はズボンを脱ぎ捨てて、石鹸を取り一際水の勢いが強い場所に飛び込んだ。
▲ ▲ ▲
すっかり身綺麗になった美樹人だったが、一つだけ問題があった。
服がないのだ。
それもそのはず、さっきまでの美樹人の格好といえば、上半身は血で汚れた包帯、下半身はその上にかろうじて体裁を保っているボロボロのスラックス、という有様だった。
まさか再び同じものを着る訳にもいかず、美樹人は途方に暮れる。
このままこの温室にいるとふやけてしまう。だからといって全裸で出ていくのはちょっと。あの神経質そうな『魔女』が女の子だった場合(というか『魔女』なのだから十中八九女の子な訳だが)、美樹人は猥褻物陳列罪だか強制わいせつ罪だかで前科がついてしまうし、万が一男だったとしても初対面で生まれたままの姿を晒すというのは流石に気が引ける。
包帯の巻かれている場所からしてスラックスを一度脱がされたことは間違いないが、それでも美樹人とて羞恥心はある。
少し考えて、美樹人は仕方なく腰にタオルを巻いた。そしてドアから顔だけ出し、ダイニングに声をかけた。
「魔女さーん、悪りぃんだけど、着替えくんねー?」
「あ、そうでした」
返事はすぐに返ってきた。
『魔女』がキッチンの下から、ひょっこり顔を出す。
「今、持っていきますね」
「おー、さんきゅ」
『魔女』は駆け寄ってきて、美樹人に着替えを手渡した。
白いワイシャツと、黒いスラックス。あと隠すように縞々のパンツ。生地こそ違えど、学校の制服に似ている。というか、形だけで言えばそのものだ。パーカーと学ランさえあれば完璧だった。
「元々着ていたものはぼろぼろで修繕できなくて。真似て作ってみました。あなたが目覚めるまで、時間があったので」
「作ったの? マジで?」
「はい。お裁縫は得意なんです」
「へー、すげーね。……でも、魔女なのに裁縫とかすんだ。そこは魔法でパパーっとやるもんじゃねーの?」
「ま、魔女だからって何でも魔術で済ませたりはしません。そもそも私の専門は魔術薬学と神授種学です」
また知らない言葉が出てきた。
美樹人は辟易しながらも礼を言う。とりあえず、この心配になるくらい細身の『魔女』の服を貸し出されることにならなくて済んだのは幸いだ。
「どういたしまして。あ、ここで着替えてください。中だとまた濡れてしまうので」
「えっ」
「大丈夫です。私、後ろを向いていますから」
「いや、……あんたが良いならいーけどさ」
マットを敷くと、『魔女』は宣言通り後ろを向いた。美樹人は仕方なく、そろそろと温室を出てマットに足を下ろす。
「……」
何だか、犯罪を犯しているような気分である。
「終わりましたか?」
「ああ、うん……終わったけど……」
服は意外にも肌に馴染んだ。真新しいパリッとした布の感触はあるものの、サイズはぴったりだ。これをアマチュアが手作業で作ったのは単純にすごい。凄まじい再現度だ。
『魔女』は振り返ると、満足げに口角を上げた。
「良かった。問題なさそうですね」
「いやほんとすげーね、あんた。もうプロじゃん」
「え? あ……え、えと、どうも」
素直な感想を口にすれば、『魔女』は恥ずかしそうに俯いた。髪の隙間から覗く耳が、少し赤い。上がりそうになる口角を、必死に抑えているのだろう。唇がプルプルしている。
……何か、ちょっと、可愛いかもしれない。
ふとそんなことを思ったが、いやいやと慌てて首を振る。確かに『魔女』は美形だが、見知らぬ土地、理解不能な状況下で、色ボケしている場合ではない。
しっかりしろ、と頬を叩いた。そもそも初対面の女の子(多分)に値踏みをするような視線を向けること自体、かなり失礼だ。
んん、と咳払いをして気を取り直す。『魔女』は怪訝そうな顔をしていたが、美樹人は気にしないことにした。
「落ち着いたとこで色々聞いときたいんだけど」
「ええ。でも、私に答えられることがあるかどうか。私は本当に、家の裏に倒れていたあなたを連れてきただけですから」
「それが分かんねーの。俺、朝起きて、学校行こうとして家出たんだよ。何で知らねー場所で血まみれで倒れてんの?」
「学校? なら、王立学園から空間転移したとか? でも、ポータルはアシルにまで行かないとないはず……」
「オウリツじゃなくて、普通の男子校だって。陽光学院。そこそこ野球が強いとこ」
「……ごめんなさい。分からない。キュヴィエの子供たちはみんな、五歳になると親元を離れて学園都市にある王立学園で学びます。他の学校は、少なくともキュヴィエにはない」
「……あのさ、それなんだけど」
美樹人はこめかみに手を当てた。
「俺さー、キュヴィエって国聞いたことないんだよな。つーか、アヴァロニア大陸も知らない。大陸って、ユーラシア、アフリカ、南北アメリカと、あと……オーストラリアと南極だろ? アヴァロニアってどこにあんの?」
「……ええと、ユー……なんです?」
「ユーラシア、アフリカ、南北アメリカ、オーストラリア、南極。中学で習うだろ?」
「……知りません。ごめんなさい、アヴァロニアから出たことがないもので」
「マジで言ってる?」
「ええ。でも、その……浅学ですが、アヴァロニア以外の大陸となると、ゴンドワナ、ローレンシア、バルチカ、シベリアの四つです。五大大陸、と良く言います」
「シベリアってロシアの地名じゃなかったっけ」
「ろしあ?」
「北にあるでっかい国」
「北にあるのはウォルコット諸侯同盟です。ろしあ、ではなく」
「うぉ……?」
「ウォルコット諸侯同盟。……何だか、まるで違う星から来たみたいですね」
それは同意だ。五大大陸まで別の呼び方となると、世界が違うとしか言いようがない。地球の裏側、未知の秘境にでも来てしまったのだろうか。それとも、小説みたいに異世界に転移? そんなことが現実に起こり得るのだろうか。
「ちょっと待ってください。たしか、ここに地図が……」
『魔女』はソファの横、何やら色んなものが放り込まれた箱を漁り始めた。ぽいぽいと出てくるのは空き瓶、紙束、糸、小さい鍋、よく分からない置物など雑多だ。それら全部を出し切る勢いで箱をひっくり返した後、ようやく底から目的のものが出てくる。
最初は綺麗に巻かれていたのであろう上質な紙は、しかし色んなものの下敷きにされて折り目がついてしまっている。
もう役目を果たさなくなった紐を解き、『魔女』は紙を広げた。
なるほど確かに、それは世界地図だった。海と大陸。緯線と経線が上下左右に走る。
けれど。
「……ぜんっぜん、見たことねー……」
美樹人の知っている、世界地図ではなかった。
「やっぱり、違う星から降ってきたんですか?」
「宇宙人ってこと?」
「怪しい秘密組織に洗脳されたとか」
「そっちの方があるかも」
「あとは……何でしょう?」
「異世界に来てしまった、とか?」
「異世界?」
「そういう魔法はねーの?」
「……」
「魔女さん?」
『魔女』は黙り込んだ。ゆっくりと唇に手を当て、虚空を見つめる。そしてしばらくしてから、小さく首を振った。
「ごめんなさい、私には、何とも」
「可能性はあんの?」
「……現状、私に言えることは何もありません。ごめんなさい、その……立場上、眷族が相手とは言えあんまり軽率な発言はできなくて」
「魔女にも立場とかあんだね。でもさ、そこを何とかなんねー?」
自分が今、一体どういう状況にあるのか。その原因は何なのか。それが分からないことには、帰る方法も分からない。
思い浮かぶのは、祖父の顔。ブチ切れた顔しか思い出せないのが、少し悔しい。
「うち、門限厳しーんだよ。連絡もしなかったら、多分じいちゃんに殺される。できれば早く帰りてーの」
「……そう、でしょうね」
「宇宙でも異世界でも何でも良いから、とりあえず帰んなきゃ。じいちゃん一人にできねーし、俺もじいちゃんと離れんのはやだし」
「……ええ」
「だからさ、協力してくれよ。あんたと離れられないってんならあんたも一緒に来てくれ。そのうち、その……『契約』? も何とかする方法見つかんだろ」
「……」
「魔女さん、頼むよ」
美樹人はじっと、翡翠色の瞳を見つめた。
『魔女』が唇を噛む。後ろめたさが滲むような、苦渋の表情だった。
「…………あくまで、あるかもしれない、程度の希望的観測ですが」
「うん」
「他の七傑の魔女、あるいはアレクサンドリア図書館になら……手がかりがある、かも」
「!」
「かも、ですよ。ない可能性の方が高いです。ただ、七傑の魔女の知識とアレクサンドリア図書館の蔵書は共に膨大で、全てを把握している人間はいません。だから、可能性は、否定し切れない、というだけの話です」
「それでも、帰んなきゃ」
「……分かりました。ベストは尽くします」
「ありがとう。魔女さんが味方なら安心だ」
「わ、私にそこまでの力はないというか……その、過度な期待はしないでくださいね。魔女と一口に言っても、色々なんですから」
「気ー付けるよ」
「じゃ、あ……その、よろしく、お願いします」
差し伸べられた手を、強く握り返す。
「私の名前はシオ。ヴァランシエンヌの森の魔女です」
「俺は美樹人。青葉美樹人。こちらこそ、よろしく」
『魔女』──シオの手は冷たく、けれど確かに温もりがあった。
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