2-6

 飛んでくる唾。酒臭い息。無理に張り上げられ裏返った声。

 美樹人はうんざりしながらも少し焦った。あと数分で出港だと言うのに。か弱いシオもいるのに。

 しかし、早く立ち去りたい、という気持ちが滲み出てしまっているからなのか、男……もといチンピラは顔を真っ赤にしてさらに声を張り上げる。中身のほとんどない、威圧するためだけのそれはしかし効果てきめんで、ゆっくりとだが美樹人から人が離れていく。

 どうしようか。美樹人は頭を抱えそうになった。酔っ払いの相手に、特別慣れているわけでもない。こういうのは言い返してはいけないと聞いたことがあるが、だからと言ってこのチンピラが鎮まるまで待つ時間はない。

 逃げようか。しかし追いかけてきたら、乗せてもらう船にも迷惑をかける。何とかここで穏便に済ませる方法はないものか。

 表面を取り繕って、相槌を打つだけのマシーンと化した美樹人。頭は高速で回転しているが、今重要なのは速さではない。ひらめきである。

 しかしそんなものが都合良く降ってくるわけもない。美樹人がひらめくよりも早く、さっと前に出た少女がいた。


「な、何ですか、あなた。私の眷属に何の用事ですか」


 思わず固まった。

 何故前に出るのか。何故チンピラを睨みつけているのか。

 分からない。年頃の女の子はもうさっぱりだ。美樹人は恥も外聞も捨てて頭を抱えた。勘弁してくれ。どう考えたって危ないだろうに。


「ま、魔女さん……」

「何だぁ、テメェ!」

「何だは、あなたの方です」

「俺ぁぶつかってきた失礼なガキに説教してるだけだろうが!」

「か……肩が触れ合った程度で何をそんなに怒っているのです? 怪我をしたわけでもなし、謝らなかったわけでもなし」

「謝って済むと思ってんのか、あぁ!?」

「肩が触れ合った程度で要求できることなんて、な、ないでしょう。それに、ぶつかったと言うならあなたも彼にぶつかった。双方謝ってお終いでしょう!」


 しかしそんな美樹人など視界に入っていないのか、シオはチンピラと視線で火花を散らしている。バチバチという音が聞こえてきそうだ。

 慌ててシオの肩に手をかける。ここは多少強引にでも下がらせないと怪我をする。相手は酒が入っているのだ。何をするか分からない。

 しかし遅かった。チンピラはかっと目を見開き、ふざけんな、と叫んだ。びく、とシオの体が跳ねる。

 そして次の瞬間には、乾いた音が鳴っていた。


「ッ!」


 雑踏の中でも響くほどの音だった。

 細い体が大きくよろめく。転びそうになるのを、肩に置いた手で何とか抱きとめた。


「おまえ……ッ」


 腕の中のシオは、どこまでも小さく頼りない。こんな少女に手を上げるなんて。美樹人は抱き寄せたシオを庇うように身を捩る。チンピラを見る視線は、心底からの軽蔑を含んでいた。

 それが気に食わなかったのだろう。チンピラは怒鳴りながらまた腕を振り上げた。

 美樹人は流石に頭にきた。酒は飲んでも飲まれるな。そんなことも守れないで、女の子を殴る野郎は人間として最悪だ。ここまでされて黙っていると思うなよ。

 飛んでくる拳がスローモーションに見えた。美樹人は拳が自分の顔にぶつかる前に受け止めて、思いっきり捻る。

 ごきり、と嫌な音が鳴る。チンピラがひゅっと喉を鳴らす――そんな隙も与えず、胸ぐらを引っ掴む。


「少しは!」

「ガッ」


 頭突き。寸分の狂いなく鼻っ柱を直撃した衝撃に、チンピラが汚い声を上げる。


「頭を!」

「!? 離せ! 何しやがる、このクソガキ! おい離せって!」


 美樹人は目を回すチンピラを河岸まで引きずって行き、そして──


「冷やせ! この酒乱野郎!」

「ぎゃあああああああああ!?」


 思いっきり放り投げた!

 どぼーん! と数メートル先で水柱が立つ。ちょっと投げ過ぎたかな、と思ったので、ついでに手近にあった浮き輪らしきものも投げておいた。後は知らん。

 美樹人は河に背を向け、慌ててシオに駆け寄る。頬は案の定赤くなっていた。


「魔女さん!」

「あ……」

「大丈夫? 痛い? どうしよう、冷やすもんいるよな、水、氷……」


 きょろきょろと辺りを見回すが、手当てに使えそうなものは見つからない。どうしよう、怪我の手当てなんてろくにしたことがない。あって保健室に送る程度だ。

 おろおろする美樹人を、シオは呆然とした目で見ていたが……やがてはっと我に返ると、美樹人の手を掴み走り出した。


「ま、魔女さん!?」

「船!」


 あ。


▲ ▲ ▲


 何とか滑り込みで船に乗り込む。呆れた顔の船長は、しかしシオの赤くなった頬を見るや否や救急箱を取り出した。有り難く受け取って、シオを甲板の隅へ座らせる。

 頬は段々と腫れ上がってきて痛々しい。美樹人はとりあえず冷やそうと、濡らしたハンカチをそっと押し当てる。するとシオは痛むのか、キュッと眉間に皺を寄せた。


「痛い?」

「大丈夫です。傷薬もありますから」


 そう言ってレッグポーチから取り出したのは、緑色の液体が入った試験管だ。軽く振ると、きらきらとした光が中で舞う。爪に塗ります、と言われても納得の、美しい、けれど薬には到底見えないそれ。


「……効くの、これ?」

「失礼な」

「だってさー」


 ゲームで言う回復ポーション。多分、そんなところ。当然美樹人のいた世界には存在しなかったものだ。


「……そんなに私は信用ならないですか」

「え? いや、魔女さんがどうってよりはさ」


 シオの腕前如何ではなく、単に現実味がなくて信じられないのだ。彼女お手製の魔術薬が効果を発揮している場面は、今のところ水流発生薬による皿洗いくらいしか見ていないものだから。


「……ごめんなさい。嫌味っぽかったですね。考えてみれば私、今まで何の役にも立っていないんですから。疑われて当然、ですよね」

「え? いや、そうは言ってないけど……」

「良いんです。分かってます。自分がどういう評価をされるかくらい」


 おおっと。

 美樹人はため息をつきそうになった。入りました、シオのネガティヴモード。

 どんよりとした空気を身に纏い、シオは試験管の栓を抜いた。仄かに甘い匂いが鼻を抜ける。どこかで嗅いだことのある匂いだ。何だったっけ。


「こんなもの、どんなに作るのが上手くたって仕方がないんですけどね」


 自嘲気味に笑って、シオは傷薬を飲み干した。


「さ、もう治りますよ。囀るより飛べ、と言います。信じられないなら見ていてください」


 分かるような分からないようなことを言って促すシオに、美樹人は戸惑いつつもその頬を観察する。

 そして、すぐに驚きの声を上げた。


「……あ」


 ゆっくりと、赤が消えていく。

 じわじわと白皙が戻り始める。

 それは目に見える速さ。腫れ上がった頬は風船のように萎んで、綺麗な輪郭に元通り。

 なるほど、確かにこれは。


「魔法だ……」

「魔術ですよ」


 淡々とした訂正も耳に入らない。

 美樹人の世界で言う『適切な処置』を行なったとしてもおよそ有り得ない速さで、シオの打撲は治ってしまった。

 思わず手を伸ばす。触れた肌は滑らかで、あたたかで、つい一秒前まで熱を持って腫れていたとは思えない。


「……すげー……」

「こんなもの、魔女なら誰でも作れますよ」

「いや、それは知んないけどさ。でも、俺にはできないだろ」

「それは……そうでしょうね。魔女以外が魔術を使うことはできませんから」

「だったら、純粋にすげーって思うよ」

「……」


 シオは曖昧に笑った。


「優しいんですね」


 色んな感情が滲み出た、複雑な笑みだった。

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