2-7

 手当てを終え、甲板にて。シオと美樹人は二人、忙しなく動く船員たちを避け、隅に追いやられていた。

 吹き抜ける風がマストを膨らませている。ばさばさと乱れる髪も気にせず、美樹人は大声をあげてシオに問いかけた。


「何でこんなはえーのー!? 動力どーなってんのー!?」

「魔力変換装置が内蔵されているんです。マストで受けた風を魔力に変換して、その魔力で爆発を起こして、ピストンを動かして……」

「なにー!? 聞こえねー!」

「魔力でー! 動いてますー!」

「なるほどー!」


 詳しいことは分からないが、どうやらただの帆船ではないようだ。美樹人は凄まじい速さで流れていく景色を眺めて、言いようのない興奮を覚えた。得てして少年という生き物は、速さに魅力を感じずにはいられない。当然美樹人も例外ではなく、未知の動力で動く高速船に胸を躍らせている。


「結構揺れんだねー!」

「酔い止めと酔い覚まし、ありますよー!」

「今もらったらぜってーこぼす!」

「それもそうですね!」


 そうして大声で会話をしていると、ふと視界の端、川面で何かがキラリと光った。


「魚! 魚いる!」

「河ですから!」


 それもそうだ。

 柵から身を乗り出して目を凝らせば、魚はかなりの大群だった。船の進行方向とは逆方向に泳いでいる。大きさは大小様々。どう見たって色が違うものも混ざっている。

 はて、向こうに小魚の大群でも出現したのだろうか。そんな気配はなかったように思えるのだが。

 美樹人がそう首を傾げた瞬間だった。


「っ、きゃあ!」


 船が、大きく揺れた。否、揺れたのではない。急に止まったのだ。

 慣性の法則に従って、シオが美樹人の方へ倒れ込んでくる。美樹人は慌ててその矮躯を抱きとめた──が、彼も物理法則に逆らうことはできなかった。強かに尻を打つ。尾てい骨から伝わる衝撃が、全身を震わせた。


「ってぇ〜!」

「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」


 腕の中のシオが、狼狽して眉を下げた。尻の痛みと手に触れる柔らかさと女子特有の良い匂い。情緒が滅茶苦茶になりそうである。美樹人は悶えながらも頷いた。


「だいじょぶ……!」

「え、そうは見えませんけれど……」

「いやほんと、大丈夫だから! 尻打っただけ! それより、魔女さんは怪我ない?」

「は、はい。おかげさまで」

「ならいーや。うん……ごめん魔女さん、やっぱ引っ張って」

「はい、もちろん」


 痺れた体を引き起こしてもらって、何とか立ち上がる。幸いにも大したことはない。足をぶらぶらさせて血を巡らせながら、周囲を見渡す。すると、ちょうど船室から船長が出てきたところだった。


「ヌシだ!」

「えっ」


 シオが虚をつかれたような声を上げた。かと思うと、みるみるうちにその顔色が悪くなる。


「魔女の嬢ちゃん!」

「あ、」

「正面だ、何とかできるか!?」

「え、う、」


 正面、という言葉に美樹人は船首の向こうへ視線を遣った。地平線を睨む。そうすれば遥か彼方に、不自然な波が見えた。


「魔女さん、ヌシって?」

「あ、ば、バロン大河に生息する神授種の中で、最も大きい個体です。パンノニアサウルスと言って、淡水域に住む神授種の中では特に巨大で、ええと、ええと……あ、に、肉食です!」

「やべーの?」

「すごく!」


 シオは可哀想なほど真っ青な顔で頷く。

 なるほど、と美樹人は顎に手を当てる。とにかく巨大な肉食の魚……魚? がこちらにやってくる、と。その“巨大”がどれほど巨大なのかは定かではないが、シオ、船長、船員たちの慌て振りを見れば、一大事であることが分かる。


「嬢ちゃん、どうなんだ!? 無理なら全速で戻るが!」

「も、戻る? そんな……」


 早急な判断を求める船長に、シオは真っ青な顔のまま口をぱくぱくさせている。パニックを起こしているのは明白だった。


「魔女さん、」

「も、戻るのは、困ります。とにかく日暮れまでには王都に着かないと、」

「じゃあヌシを何とかできるのか!?」

「、」


 固まるシオに、はあ、と船長はため息をついた。


「……嬢ちゃん、俺はお前さんの都合を訊いてるんじゃねえ。できるのか、できねえのかを訊いてるんだ。いいか、落ち着いて考えろ。できるのか、できねえのか」


 噛んで含めるような船長の言葉は、僅かな焦りを含みつつも落ち着いていた。

 シオの呼吸が、速くなっていく。美樹人はもう一度波立つ川面を睨んだ。明らかに近付いてきている。それに、波の規模が只事ではない。

 シオの事情を汲むと、ここで引き返す訳にはいかない。けれど、あの巨大魚を何とかする方法は……


「あ」


 あった。

 美樹人は思わずシオの肩を掴み、叫んだ。


「水流発生薬!」

「へ、」

「あの、皿洗うやつ!」

「わ、分かりますけど、それが何か……あ!」


 シオがはっと顔を上げる。そしてレッグポーチを猛烈な勢いで漁ったかと思うと、小瓶を取り出した。中で粘性のある液体が揺れている。


「こ、これで、気絶させれば……!」

「説明!」

「は、はいッ!」


 船長の一喝に姿勢を正し、シオは打開策を語る。それは美樹人が思い付いたものとほぼ同じだった。


「これは水流発生薬です。一瓶投げ込めば、超高速の渦ができます!」

「あの距離だぞ、こっちに被害は出ねえのか?」

「出ます! 餌をできる限り遠くに投げて誘導して、それでも巻き込まれると思います!」

「駄目じゃねえか!」

「遠くへ、遠くへ投げたら、被害は少なくて済みます!」

「ウチの船員に、そんなに遠くへ投げられるヤツはいねえ。駄目だ。危険過ぎる!」


 船長は大きく首を振る。そんな、と悲鳴のような声を上げるシオの肩に触れたまま、美樹人は少し躊躇った後、そろそろと挙手した。


「あのぉ、多分それ、俺やれると思う」

「あ!?」

「出港の前、オッサン河に放り投げたんだけど……そんとき、何かこう……感覚って言うの? 俺、もっと投げれるなって思ったんだよね。オッサンより軽いその瓶一本なら、もっと遠くまで投げられる」

「……」

「あ、じゃあこうしましょ、船長さん。俺が餌を全力で投げる。それが十分遠くまで届かなかったら、船長さんは船を全速でUターンさせる。でも届いたら、魔女さんの策に賭ける。どお?」

「……魔女の嬢ちゃん、少ない被害で済む最低限の距離は分かってんのか?」

「私が作った魔術薬です。分かります」

「……………………おい、キッチンから肉取ってこい! 一番でけえヤツだぞ!」

「!」


 ぱっ、とシオの表情が明るくなる。


「魔女さん、自分で言い出しといて何だけど……俺、やれると思う?」

「大丈夫だと思います。私の眷属ですから」


 すぐさま用意された塊の肉を受け取って、美樹人は何度か右腕をぐるぐると回した。調子は悪くない。むしろ良い。


「三、二、一で行きまーす」

「この辺りに他の船はねえ。気張れよ、坊主!」

「うす。よーし……」


 ぐっと肉を掴む。数年前にあっさり辞めた野球。ここでそのスキルが生きてくると良いのだが。


「三、二、一!」


 大きく振りかぶって――思いっきり、投げる!


「行けぇっ!」


 びゅーん、と美樹人自身も驚くほど高速で打ち出された肉は、一直線に波の発生源へと飛んでいった。船長が望遠鏡らしき筒を除いている。ごくり、と唾を飲んで、赤色の点を目で追い……


「落ちたぞ!」


 どぼん、と小さく水柱が上がった。


「……食ってる! 錨だ、錨を下ろせ!」


 船長が声を上げた。それを聞くや否や、シオが小瓶を手渡してくる。その栓を抜いて、もう一度投げる!

 小瓶は寸分違わず、川面から除く背鰭に当たった。そして次の瞬間、ゴウッと激しい音が轟く。


「掴まれ!」

「魔女さん!」


 数秒後。船を強烈な波が襲う。立っていることもままならない激しい揺れに、美樹人はシオを抱きかかえて手すりに縋りついた。

 波が甲板を洗うようだった。船はもみくちゃにされながら、何とか転覆せずに姿勢を保っている。これも何か、魔術がかけられているのだろうか。水を大量にかぶりながら、美樹人はそんなことを頭の隅で考えていた。

 やがて、ゆっくりと波が落ち着いてくる。頭に手を当てながら、船長がふらふらと立ち上がった。


「おさまった……か?」

「す、水流発生薬の効果は……三分程度で消えるので……」

「じゃあもう安全か」

「はい……」

「魔女さん、顔真っ青」

「あなたこそ……」


 お互い、目が回ってすぐには立てそうもない。二人してぐったりと柵に寄りかかりながら深呼吸をする。空が青い。雲ひとつないから、酔いを覚ますにはぴったりの空だった。


「魔女さん」

「はい」

「魔女さんさ、魔術薬作んのがどんなに上手くても仕方ないって言ってたけど……」

「う、」


 決まりの悪そうな声が上がる。けれど美樹人はにっかりとシオに笑いかけて、言った。


「役に立ったね。俺も嬉しい」

「……、」


 シオは、目をぱちぱちさせていた。

 それが少し、可笑しかった。

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